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松山高女および松山南高校同窓会関東支部の専用掲示板「末広帖」です。関係者以外の投稿はご遠慮ください。

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25246124 佐治晴夫著『宇宙のカケラ 「考える葦」がもつ光と影』について - 岡田 次昭
2024/05/22 (Wed) 07:35:52
令和6年5月21日(火)、私は、東急田園都市線梶ヶ谷駅にて東急株式会社編「0ALUS(サルース) 」2024年6月号を入手しました。
この小冊子の24頁に佐治晴夫著『宇宙のカケラ 「考える葦」がもつ光と影』が掲載されました。
副題は、「みんな宇宙のカケラだからこそ、利他が利己につながるのです。」です。

佐治晴夫さんの文章は、教養の宝庫です。
毎月、これを入力しながら読みますと、本当によく理解できますし、知識が増えたように感じます。

ブレーズ・パスカルは、1623年6月19日、フランス中部のクレルモンにて生まれました。彼は、神童として数多くのエピソードを残した早熟の天才で、その才能は多分野に及びました。
僅か40歳で、フランスの哲学者、自然哲学者、物理学者、思想家、数学者、キリスト教神学者、デカルト主義者、発明家、実業家を経験しました。
凄い人物であったと言わざるを得ません。

「人間は考える葦である」などの多数の名文句やパスカルの賭けなどの多数の有名な思弁がある遺稿集『パンセ』は有名です。
その他、パスカルの三角形、パスカルの原理、パスカルの定理などの発見で知られています。
かつてフランスで発行されていた500フラン紙幣にパスカルの肖像が使用されていました。
1662年8月19日、彼は体調不良が原因で亡くなりました。
享年40歳でした。



『宇宙のカケラ 「考える葦」がもつ光と影』
(原文のまま)

「人間は一本の葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。しかしそれは考える葦である」。
フランスの哲学者であり科学者でもあったブレーズ・パスカルの有名な言葉です。
そんな弱い人間が、互いに助け合うことで過酷な自然環境を生き延びてきたのでした。
そして、四足歩行から直立二足歩行になり立ち上がると、垂直に立った背骨で思い頭を支えることができるようになり、「考える力」をもつ脳を獲得します。
さらに、直立することで気道の形が直角になると、微妙な発生が可能になり、言葉を獲得します。
この「考える」力と言語の獲得は、文明の構築に大きく寄与することになるのですが、一方では、仲間同士の共感力を高め、結束を強化させ、他の集団との差別意識から排他感情を生み出し、資源、領土などの確保を巡っての争いにも発展します。
さらに、集団が大きくなれば、統率する人も必要になり、階層構造が生まれ、集団内での権力闘争へと発展します。
それを切り抜けるために統率者は、言葉という武器を使い、例えば、仮想敵などの物語を作ることで、自らの求心力を高めようとします。
現在の国内外を含めた世界情勢そのものです。
ところで、多くの動物も縄張り争いをしますが同じ種同士の殺傷には至らず、生命の抹消を伴う戦争をするのは人間だけだといいます。
その理由は、人間特有の言語による高度なコミュニケーション力が、共同幻想ともいえるイデオロギーや憎悪を生み、やらねばやられるという恐怖心を生み出すからでしょう。
とすると、人間世界における戦争は、人類の進化の途上で芽生える後天的なものなのでしょうか。
ここに興味深い2つの事例があります。
一つは、街中に設置されている監視カメラの映像を調べてみると、犯罪など「悪」に関わる場面よりも、困窮している人に援助の手を差し伸べる「善」の場面のほうが多く記録されていること。
もう一つは、2歳未満の幼児が手の届かないところにある物を獲ろうとする大人を見て、見返りがなくても手助けしようとする利他行動が科学的に明らかにされているということです。
これらを人類が先天的に保有する善性だととらえてみてはどうでしょうか。
そのうえで、世界中の人たちが、今、自分が生きていられるのは他者との見えないかかわりがあるからだという現実に気づいて、他者の尊厳を認め、他者への感謝、そして譲り合う気持ちが少しでも生まれれば、戦争への回避につながるかもしれません。
すべては相互依存だという宇宙のカラクリから考えれば、利他は巡り巡って利己とつながっているのです。
(了)

(ご参考)

佐治晴夫さんは、昭和10(1935)年、東京にて生まれました。
彼は、立教大学理学部物理学科卒業後、東京大学大学院にて物理学を専攻しました。
東京大学物性研究所、松下電器東京研究所、横浜国立大学、NASA客員研究員、玉川大学教授、県立宮城大学教授などを経て、2004年より2013年まで鈴鹿短期大学学長を務めました。
その後、鈴鹿短期大学名誉教授、鈴鹿短期大学名誉学長に就任しています。
佐治晴夫さんは、今年米寿を迎えられました。
このお歳で立派な文章を書いています。
尊敬すべき人です。
現在89歳です

主な著書は、次の通りです。

『宇宙の不思議』(PHP研究所)
『宇宙のゆらぎ・人生のフラクタル』(PHP研究所)
『宇宙はすべてを教えてくれる』(PHP研究所)
『宇宙の風に聞く』(セルフラーニング研究所)
『宇宙日記』(法研)
『おそらにはてはあるの』(玉川大学出版部、イラスト:井沢洋二)
『星へのプレリュード』(黙出版)
『二十世紀の忘れもの』(雲母書房)
『「わかる」ことは「かわる」こと』(養老孟司との共著)(河出書房新社)
『からだは星からできている』(春秋社)


25245775 樂書ブックス編集部編「さわりで覚えるクラシックの名曲50選」について - 岡田 次昭
2024/05/21 (Tue) 08:39:11
令和6年5月22日(水)、私は、書架から樂書ブックス編集部編「さわりで覚えるクラシックの名曲50選」を出してきました。
この書物は、2004年6月30日、株式会社樂書館から第一刷が発行されました。
111頁の中に有名な作曲家の名曲の解説が納められています。
今回は、そのうち、チャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ(andante cantabile)」について纏めました。

私は、「アンダンテ・カンタービレ(andante cantabile)」というイタリア語の音楽用語をこよなく愛しています。
私の所有している4枚のCDを末尾に記載しておきます。



チャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ(andante cantabile)」

※ 文豪トルストイも間隙、哀愁ただよう故郷の音楽

ピョトル・イリイチ・チャイコフスキー(1840~1893、 ロシア)

ロシアの田舎で生まれ、音楽好きな両親のもとで育った。
親は息子の才能を特別と思っていなかったことと、当時、音楽のみで生活することは不安だったことから、チャイコフスキーはペテルブルクの法律学校に通った。
卒業後法務省へ進んだ彼は、音楽への情念が捨てきれず、仕事を辞めて音楽の世界へ。
ペテルブルク音楽院で改めて音楽の勉強し直し、その後モスクワ音楽院の教師を務めた。
彼は繊細で内気な性格の持ち主で、結婚に失敗し、それによる自殺未遂を起こしている。
そして、1893年53歳で他界。
交響曲第六番「悲愴」の初演後すぐだったため、その死因についてはコレラ説、服毒自殺説などがあり、現在も特定されていない。

この曲は、弦楽四重奏曲 第1番の第二楽章にあたる曲。
一つの楽章が特定のタイトルで親しまれているのは珍しいことだ。

「アンダンテ・カンタービレ」とは、「アンダンテ」が歩くような速さで、「カンタービレ」が歌うようにという意味だ。
本来は演奏する時の速度や表現方法を指示した音楽用語だが、第二楽章が有名になるにつれ、この用語で第二楽章を示すようになった。
この曲はロシア民謡を取り入れて作曲されたので、チャイコフスキーがウクライナの村に住む妹の家に滞在した時に、ロシア風の暖炉ペチカを作る職人が歌っているのをヒントにして作ったと言われている。
哀愁のただよう、ゆったりとした曲で、ロシアの文豪トルストイは、この「アンダンテ・カンタービレ」の演奏を聴いて涙を流し、彼の隣にいたチャイコフスキーを感激させたという。
作曲家としては遅咲きだったチャイコフスキーなだけに、作曲家冥利につきる出来事だったのだろう。
その感激ぶりは、「こんなにうれしかったことは生涯二度とない」と日記に残すほどだった。
さて、この「アンダンテ・カンタービレ」は大林宣彦監督の尾道三部作と呼ばれる映画の第一作『転校生』で使われている。
中学生の男女が階段から転げ落ちるのをきっかけにお互いの心と体が入れ替わってしまう、面白さの中に、思春期の揺れる恋心を描いたせつないラブストーリーだ。
映画の舞台になった尾道は監督の故郷で、波の緩やかな瀬戸内海ののどかな町の映像が、ノスタルジツクな雰囲気をかもし出している。
チャイコフスキーの故郷は寒さが厳しいところであるにもかかわらず、「アンダンテ・カンタービレ」は温かみがあり、どこか懐かしさが感じられる曲だ。
そんな穏やかな雰囲気の曲が、この映画のイメージにぴったりだったのかもしれない。
(了)

(ご参考)


「アンダンテ・カンタービレ(andante cantabile)」の含まれているCDの明細
 (該当の楽章のみ記載 不思議なことに全て第二楽章になっています。)

1. チャイコフスキーの弦楽四重奏曲 第1番 ニ長調 第二楽章

2. モーツアルトのピアノ・ソナタ 第10番  ハ長調 K330 第二楽章
  モーツアルトのピアノ・ソナタ 第13番  変ロ長調 K333 第二楽章

3. ハイドンの弦楽四重奏曲 弦楽四重奏曲 第17番 ヘ長調 「セレナーデ」
  第二楽章
ウィーン弦楽四重奏団

4. ハイドンの弦楽四重奏曲 弦楽四重奏曲 第17番 ヘ長調 「セレナーデ」
  第二楽章
  イタリア弦楽四重奏団

チャイコフスキーの肖像画
25245774 小川宏著『「六病息災」の小川です!』について - 岡田 次昭
2024/05/21 (Tue) 08:35:57
令和6年5月16日(木)、私は、高津図書館から小川宏著『「六病息災」の小川です!』を借りてきました。
この書物は、平成22(2010)年5月27日、麗澤大学出版会から第一刷が発行されました。
238頁の中に、「うつ病」「糖尿病」「ガン」などの病気のことが詳しく書かれています。
小川さんは、それを称して「「六病息災」と書いています。
これは、「無病息災」をもじったものです。
今回は、そのうち、「この倦怠感はいったいなんだろう」について纏めました。

「うつ病」の定義である倦怠感、不眠障害、食欲不振、体重減少、焦燥感、好奇心の減退、自殺願望、不信感などは全て私にはあてはまりません。
この歳になりましても、好奇心は途絶えることなく今も続いています。
不幸にして、「うつ病」と思われる方は、早めに病院を訪れて診断してもらうことが完治の早道です。

末尾に記載した「「健康十訓」は大いに役に立ちます。
これを毎日のように実践すれば、健康な体になります。

小川宏さんは、1926年4月17日、東京府南葛飾郡寺島村(後の東京市向島区、現在の東京都墨田区東向島)にて生まれました。
彼は、東京府立第七中学校(現:東京都立墨田川高等学校)を経て早稲田大学専門部工科建築科を卒業後、一旦間組(現在の安藤ハザマ)に入社しましたが、半年で退職しています。
NHKには二次募集で1949年に入局しました。
鶴岡放送局、郡山放送局に勤務後、1952年より東京勤務となりました。
彼は、1955年より『ジェスチャー』の4代目司会者として10年にわたって活躍しました。同番組における圧倒的な知名度を背景に1965年1月にNHKを退職しました。
退職後、フジテレビと専属契約を結び、1965年より『小川宏ショー』の総合司会を通算17年務め、4,451回という金字塔を打ち立て、「人名を冠した番組の最長寿記録」としてギネスブックから認定・掲載されました。
ただし、後に『森田一義アワー 笑っていいとも!』総合司会のタモリがこの記録を塗り替えています。
穏やかな雰囲気や話術は主婦層にも長く支持され、この点から「春の小川」なる異名を取るようになりました。(黒柳徹子の発言に端を発するといわれています)。
同番組には朝の生放送番組であるにもかかわらず、上記の黒柳をはじめ、杉村春子、高峰三枝子、石原裕次郎、長嶋茂雄、前田武彦、永六輔などの大物ゲストが多数出演しており、これも小川の司会ぶりに対する信頼の高さを裏付けるものとなりました。
『小川宏ショー』終了後、うつ病を発症し自ら克服、その体験談を出版し、後にその経験を元に講演活動を行いました。
なお、高橋圭三からは「顕微鏡で調べて望遠鏡で放送しろ」とアドバイスされたと言われています。
言い得て妙の言葉です。
2016年11月29日、彼は多臓器不全により亡くなりました。
享年90歳でした。



「この倦怠感はいったいなんだろう」(原文のまま)

※ 「いい加減」ができない

まったく知りませんでした。「うつ病」の定義が世界中できちんと統一されていることを――。
倦怠感、不眠障害、食欲不振、体重減少、焦燥感、好奇心の減退、自殺願望、不信感などの症状が、五項目以上、二週間もつづく場合のみ「うつ病」と診断される。
このことを初めて知ったのは、ノンフィクション作家・野村進さんにお会いしたときのこと、平成13(2001)年のころでした。
男女を問わず、人間40歳をすぎるころから、殆どの人が「うつ常態」になるそうです。
最近はもっと年齢が低くなっています。
一説によると、いま日本で「うつ病」もしくは軽い「うつ常態」にある人は、およそ一千万人にも及んでいるそうです。
でも、病をかかえながら病院に行かない人もかなりいるので、実数はつかめていません。
いずれにせよ「現代病」です。誰が罹ってもおかしくない病ですが、油断は禁物です。
中には自殺に至ったり、私のようにそれに走る人も少なくないからです。
自分の体験からしても、「うつ病」だけは自分の意志で克服しようとしても、解決は極めてむずかしいのです。
「うつ病」になりやすいタイプは、責任感が強く、マジメ人間が多いとされています。
せめて居直って「いい加減」に過ごしたほうがよさそうです。休養を取り、抗うつ剤や睡眠薬で完全に快復いたします。私がそのいい証(アカシ)です。
「うつ病」はよくなったあとで、再び悪化する傾向がありますので、自分の判断で薬をやめることは絶対に禁物です。薬をやめてかえって症状が悪くなった人を何人も知っています。
「うつ病」の原因はよく解明されていないそうですが、ストレス障害や、脳の機能が一時低下することによって起きる病気だそうです。
旭川医科大学研究班による全国調査によると、6人に1人の子どもが、心の病をかかえているそうでする
また「うつ病」という診断書を会社に提出して、解雇された人の例をいくつか知っています。
「ウツ病」は、じつは、どなたにとっても身近な病なのです。決して縁遠いものではないのです。

※ 雲を突き抜けさえすれば

忘れもしません。私が口では言えない倦怠感を覚えるようになったのは、平成3年の冬。
福岡県宗像市での講演で羽田に向かうとき、足が前に出ないのです。
仕事だからと自分に言い聞かせて、ようやく空港に着くことができました。
出発時刻が近づくにつれ、行こうか行くまいか――という気持が浮かんでは消え、消えては浮かんでいきました。
でも、行かなければ主催者に失礼だ――と思い直して、やがて機上の人になることができました。
雲を見ながら、今、自分の気持ちはこんな常態なんだとぼんやり考えていました。そのときふと思ったのは、朝日新聞で天声人語を書いておられた入江徳郎さんのモットーでした。
「雲外に蒼天あり」雲を突きぬければ青空が見える――という言葉でした。
空港に出迎えてくださったのは速水さんという女の方。
挨拶をすませた後車中の人となり、一時間ほどで宗像市に到着しました。
顔色も優れない私を見た速水さんは「一時間半の講演はたいへんでしょう」と椅子を用意してくれました。
その好意は嬉しいのですが、背の低い私が座ってしまうと、演台のかげに隠れてお客様の顔が見えません――と理由を話し、なんとか九十分を持ちこたえることができました。
夕方の講演でしたので、一泊せざるを得ません。
会場の宗像ユリツロクス館長は、NHK時代の後輩アナ、井川良久さんでした。
彼の好意で夕食前に酒を酌み交わしました。自宅でもそうでしたが、飲むと精神が高揚して気分爽快。
しかし時間の経過とともに酒が切れて再び元の状態に戻ってしまいました。
翌朝、また速水さんが同乗して空港に向かいました。
来るときと同じ一時間、私は彼女に一言も口をきくことができませんでした。
空港に着いた時、その非礼を詫びたことは鮮明に覚えています。
こんな状態が数ヶ月続き、心の苦しさを妻に訴えました。
心配した妻は、将棋の町、山形県天童市からわざわざ盤を買い求めて、一緒に指そう言いだしました。
駒の動かし方も知らない妻の気配りだったのですが、指す気分にはなれなかったのです。
カラオケセットを取り寄せてくれましたが、一曲歌っただけでした。
散歩もすすめられましたが、散歩どころか二歩で帰るような情けない日々でした。

※ 日々の戒めとなる健康十訓をご存知ですか。

「健康十訓」なる一枚のコピーを、妹が通院している医師から手渡されました。

健康は嬉しい 美しい 素晴らしい 何はなくてもやっぱり健康

小肉多菜  お肉はほどほど 野菜はたっぷり 健康もりもり
小塩多酢  塩分撮りすぎは高血圧のもと 酢は健康のもと
小糖多果  甘いものは果物から 砂糖は肥満への直通切符
小食多噛  腹八分眼でよく噛みゃ 幸せも噛みしめられる
小衣多浴  薄衣で風呂好きの人は 健康を身につけている人
小言多行  ぺらぺら喋っている間に 行動を開始せよ
小欲多施   自分の欲望のために走らず 他人のために走れ
小憂多眠  くよくよしたって同じ とっとと寝てしまおう
小車多歩 自動車は確かに速い でも歩けば健康への近道
小憤多笑  怒ったときでも ニコニコしていれば忘れてしまう

この中で、「小欲多施」は、特に政治家に実行していただきたいものです。
(了)
25245358 斎藤茂吉著「双葉山」について - 岡田 次昭
2024/05/20 (Mon) 07:52:17
令和6年5月16日(木)、私は、高津図書館から吉村昭編「日本の名随筆 相撲」を借りてきました。
この書物は、1991年4月20日、株式会社作品社から第一刷が発行されました。
240ページの中に舟橋聖一、久保田万太郎、寺田寅彦、尾崎士郎、吉屋信子、斎藤茂吉など29の随筆が収められています。今回は、そのうち、斎藤茂吉著「双葉山」について纏めました。
斎藤茂吉は、双葉山が安芸ノ海に負けたのは、「体の調子が本当でないのである」と結論づけています。
彼は東京帝国大学医学部を卒業した精神科医でありながら、短歌や俳句にも造詣が深く、更には、相撲についても精通しています。誠に才能のある人物でした。



斎藤茂吉著「双葉山」(全文)

強い双葉山が、四日目に安芸ノ海に負け、五日目に両国に負け、六日目に鹿島洋に負けたので、贔屓客が贔屓するあまり、実にいろいろの事をし、医者の診察をすすめたり、心理学の大家の説を訊いたり、いろいろの事をしている。
当の双葉山関はどうかというに、自分でもそんなに粗雑な相撲を取っているとは思わないし、体の調子もそんなに悪いとは思わないのに、『どうして負けるのか自分でも解りません。負け癖がついたのでしょう』と云っている。
歌舞伎座の菊五郎丈が大に双葉山に同情して語ったなかに、『あの人のことだから、きっと大事に相撲をとったに違いないが、相手は総がかりで双葉山を研究しているし、あえて、油断とは言わないが、そこに何かあるのではないか』云々ということを云っていた。
この、『総がかりの研究』云々というのは、旨いことを云ったもので、太刀山の強かった時分には、どの部屋の力士も、みんな太刀山をどうして負かし得るかという工夫ばかりしていた。そこで栃木山が太刀山に勝ち、大錦が太刀山に勝ったのも、その取り口をこまかく調べると、太刀山の相撲の癖を、実にまんべんなく覚えて、その虚に乗じたものであった。
今度の双葉山の場合は、自分はこのごろ相撲に遠ざかったので、よく訳をしらないが、太刀山の場合は、正面から順当に行ったのでは、どうしても勝味のないものであった。そこで何かの虚を狙ってその虚を衝いたものである。して見れば、双葉山の場合も、もうそろそろそういう状況にあってもいい頃だと思える。
大勢がたかって双葉山を調べるなら、何かの『虚』が出て来る筈だからである。この『虚』の問題も、今回の敗因の一つと考え得るだろう。しかし、私はそれよりも身体的の原因に重きを置こうとしている。私は、双葉山の罹ったアメーバ赤痢というのを、双葉山自身よりも、ほかの双葉山批評家よりも、余程重く考えているものである。
一月十九日(二十日附)の読売新聞の第二夕刊で、長谷川如是閑氏は、いろいろ考察した上に、心理的効果に重きを置き、『然るにある動因からその地位が転倒すると事態は正反対に逆転する。双葉の最初の敗因が何であったにせよ。それは事態を逆転させる機会となった。ために両者の心理的効果は逆になって、双葉の十分の力は八分にしか作用しなくなり、相手の十分の力が十二分に働くこととなった。それが連敗の因である。さればその心理的効果のとり戻しが、力のとり戻しの先決問題である』といっている。また文壇きっての相撲通尾崎士郎氏も一月二十日の朝日新聞で、やはりこの問題に触れ、『私はこの一番こそ双葉山にとってあたらしい運命の方向を暗示するものであったと考える』、『私の見解をもってすれば、肉体的な問題よりも今日の土俵は彼の運命が自然に辿りつくべき境地へ辿りついただけのことである』。『双葉ファンは、彼の目方が前場所に比べて三貫目減っていたところに敗因があるという。この解釈はあまりにナンセンスに過ぎることはわかりきっている』云々と云っている。尾崎氏の解釈は運命観、長谷川氏の解釈は心理的効果論。一つはいかにも相撲通らしい穿ち、一つはいかにも学者らしい観念の整理である。しかしこういう結論なら、双葉山自身のいっている、『負ケ癖がついたのでしよう』の簡明なのには及ばないだろう。
ただ、相撲通の言説は私なんかも常に傾聴しているのだが、神経のインネルワチヨンをも籠めた、肉体力の総和を第一の条件要約とする相撲であるから、議論は、第一にその条件からして極めてかからねばならぬのである。肉体のことを云々するのがナンセンスなら、何も彼もナンセンスということになってしまうではないか。
今夜の話は、相撲のことになどなって、歌の雑誌にふさわしくないようであるが、これは相撲の論議ばかりでなく、小説の批評などにも、見て来たような、尤も、尤もと強ひるような『穿ち』が多くて、私などの気に食わぬものがあるから、そこで双葉山を借りて一言話したのであった。もう一度言うと、双葉山は、本場所は、『体の調子が本当で無いのである』。その他のことは第二第三の問題、或はその第一条件から続いてあらわれる随伴現象と謂うべきである。そう私は考えて居る。
追加談。一月二十六日の読売新聞に、小島六郎氏の春場所総評があって、随分丁寧な評であるが、『双葉山の敗因の根本が体力問題に発する錯覚とジレンマの混生児であったことは確かである』というのが其の結論で、取り口の評については、『十三日間の双葉山をみると初めは自信のある取口を示し、安芸ノ海に敗れてからはいささか自信がゆらぎ、両国に敗れてからは完全に自信を失い、鹿島洋に敗れては精神的ジレンマに陥り、玉ノ海に一敗を喫してから漸く或る一つの境地に入り得たという複雑な過程を踏んでいるのである』という具体的な評もあった。
次にアサヒグラフ(二月一日号)に、藤島取締の談が載っていたが、実際の技の評の終わりに、『つまり双葉山の如き六十九連覇と云う無敵の進軍を続けて来たものが、土俵に上る時は、ひたすら相手を倒す攻撃策のみ頭に浮べて相対するので、今度の如く一度黒星を付けられ、しかもワンワと騒ぎ立てられれば、気分的に腐るのは云うに及ばず、今まで考え続けて来た攻撃戦法よりは却って防禦策に頭を悩まし乍ら土俵に現れるものである。従って従来のような思い切った業をかけ得ず、所謂固くなり過ぎたと云うのが、双葉山の心理なのではないだろうか』と云っている。批評の大概の結びは、そういう心理的な悟道めいたことになるが、私には、やはり実際の技の批評の方が有益である。『右四つとなった刹那の安芸の体勢、つまり頭を双葉の胸にあてがって右廻しを引きつけて』云々というあたりである。そうして、どうしてそういう体勢になったか、その肉体的関係の批評の方が有益なのである。
その他の批評には、お極りの人生行路上の教訓などを附加えてあるのが多かった。即ち双葉山が相撲に負けたのを種にして、大いに悟ったと自覚して、好い気持になっているのであった。けれども私等は、相撲の批評は、相撲実技の批評の方がおもしろくもあり、その方が確かだと思うのである。
もう少し、『技』についての評を附加えるなら、双葉山が安芸ノ海に敗れた時、双葉山は右下手を打ったのは無謀だとか、掬い投げをやったのが粗雑だとか、そういう批評が多かった。然るにそれについて藤島取締は次のように評している。『双葉山が勝をあせって掬い投げに出たという報道もあったが、彼の如き優れた相撲道の天才が、この不利なコンデイシヨンの下にあって、この粗暴に近い強引策を用いたとは考えられない。これは確に双葉が自己の悪い体勢を挽回せんが為にやったものとのみ考えられる。この掬い投げを打った時、双葉の右足が前に出ているのは必定で、安芸がこれを懸命に防がんとして左足が外掛けにからんだ瞬間に、双葉の両廻しをぐいっと満身の力で引きつけて浴せかけたものだから安芸の寄り身が物を云ったのだろう』云々。この批評は、親切、丁寧で、刻々の実技に即していて、まことに名批評と謂うべきである。そんならどうしてこの名批評が出来るかというに、同じような実技の経験を幾度となく踏んだ人が、自分で相撲を取ったつもりで物いうのだから、批評に中味があるわけである。藤島取締の相撲評は毎年読んでいるのだが、今回は対象が対象だし、ほかに多くの批評が出たため、比較するのに便利でもあったが、実に私は感服した。
双葉山の話はこれでお仕舞いにする。しかしアララギは文芸の雑誌だから、何か関連をつけた方が好いというのなら、歌の批評にも、相撲における藤島取締の批評のようなものが常に存すべきだというようなアナロギーを持って来れば好いわけである。
そういうけれども、実際は、なかなかそうは行かない。気心で物いったり、読みたての書物で物いったり、自分の作物の注解、分疏として物いったりいろいろである。そういう事に関連して、去年この夜話で紹介した、吹田順助氏訳の「二十世紀の神話」でローゼンベルクは好い事を云っていた。『理論と実行との矛盾は、シラーやシヨーペンハワーと同様にゲーテにもある。十九世紀の全部の美学の罪は、それが芸術家の作品に結び付かないで、彼等の言葉を分析したことにある』というので、彼等というのは、シラー以下の諸先進のことを指している。つながり、接続、関係、機縁、縁故などという意味にも拡がっているが、兎に角、結合していて離れない意味がある。ローゼンベルクはその事を言っているのである。
世の(過去の)芸術批評家や美学者などというものは、希臘、希臘と騒ぎ立てて、何でも希臘を標準として、自分の脚下の芸術を批評しようとして居る。人種も民族もおかまいなしだ。それでは本当の批評は出来ない。そういう点ではウィンケルマンでもレッシングでも駄目であるし、十九世紀の美学全般が駄目である。なぜかというに、実際の作物(Werke)と緊密に結びついていない論議ばかりしているからである。そうローゼンベルクは云うのである。
ローゼンベルクの芸術論は、最近の独逸主義実行の必要上、随分一方的で無理な点があるけれども、時々は有益なことをいっている。批評が実際の作物と遊離していては何の役に立たぬというようなことは、初学者でも云い得る一つの結論だが、実行の点になるとなかなかそうは行かぬと見え、外国人なども其点を強調しているのを見付けるということもまた、吾々が勉強の一機縁となり得るのである。双葉山からローゼンベルクまで飛んで、そのつながりに不自由なところがあったが、今夜はこれで我慢せられたい。
(1月28日夜話)
25244976 曽野綾子著「介護の流儀」について - 岡田 次昭
2024/05/19 (Sun) 07:17:01
令和6年5月18日(土)、私は書架から曽野綾子著「介護の流儀」を出してきました。5
副題は、「人生の大仕事をやり切るために」です。
この書物は、2019年5月20日、株式会社河出書房新社から第一刷が発行されました。
192頁の中に沢山の随筆が収められています。
今回は、そのうち、「老年の聖域……毎日、親達の元気を見守るという喜び」について纏めました。

2022年の日本人の平均寿命は、男性81.05歳(世界第4位)、女性87.09歳(世界第位)
です。
戦前の平均寿命を40歳としますと、78年後の現在、平均寿命は倍以上になっています。
長生きはいいことですが、これが今後も続きますと、大きな問題が発生します。
まず、労働人口が減少して、経済の活性化が図れなくなります。
次に、企業年金や厚生年金の原資が徐々に減少していくことです。
払い込む人が少なく、受給者が増加するからです。
それに長生きしますと、残された人生を如何に過ごすかが問題となります。
趣味のない人は、時間の経過が長く感じられるはずです。
趣味というものは、若い時から育むものです。今からでは遅いといえます。



「老年の聖域……毎日、親達の元気を見守るという喜び」(全文)

第二次世界大戦以前の日本の平均寿命は、恐らく非常に短いものであったと思われる。主な作家や詩人は、ほとんどが四十前で死んでいる。
私たちの周囲でも、還暦と呼ばれる六十歳まで生き抜く人はそれほど多くはなかったから、家族は「還暦の祝い」をすることに意味を感じていた。しかし、今では「古希稀なり」の意味で使われている「古希」も「今やざらなり」と言う人がいる始末だ。
日本人の平均寿命は世界一となるまでに延びた。その理由は、新生児の死亡率の低下、抗生物質の普及、日常生活が非常に便利で安全で衛生的になったこと、国民皆保険制度によって医療機関にかかれない患者がいないこと、凶悪な犯罪率が世界的に見ても低いこと、などではないかと思う。
戦後の日本人は、大きく三つのものから解放された。第一は、戦前の封建的な社会制度とその圧迫、第二は、貧困、第三は、思想言論の統制弾圧である。これらはいずれも、深く人間の寿命そのものとも、満ち足りた老年ともかかわっている。
ストレスからの解放は病気の予防に大きく影響しているというが、一方で全くストレスのない人間の生活などというものはないから、いささかのストレスは生き生きとした人間社会を作るのに有効だという説も、私はまた素人として捨てがたい。
長く生きればいい、というものではない。しかし長く生きられなかったら、人生で達成できる目的も中途半端で終わるだろうから、やはり長寿が願わしい。しかし、老年をいかに生きるかということは、人生で個人が選ぶ最後の目標であり、芸術となった。
現在の日本の夫婦の多くは、老世代とは別に暮らしている。スープの冷めないくらいの近くに別居するというのが理想らしいのだが、私たち夫婦は若い時から夫の父母と私の母の三人の老世代と同居した。パール・バックの描く古い中国では、お嫁さんが起きるとまず老人に熱いお茶を持っていく場面が描かれて感動的だったが、私は決して親孝行はしなかった。しかし、同居していれば、毎日親たちが元気かどうか見守っていられるのがよかった。
日本人が好きな食べ物の一つに、川に棲む鮎という一年魚がある。鮎は川の藻だけを食べ、香魚という別名を持つほど淡泊でおいしい魚だということになっており、夏の季節には、わざわざ鮎を食べに渓流のほとりに行くのである。しかし、私たちは時々知人から鮎を送ってもらうことがあった。そういうとき、私が何より嬉しかったのは、もう旅
ができなくなっている親たちに真っ先に鮎を食べさせられることだった。同居というものは、親孝行をするにも便利な制度だった。私たちには息子が一人いたから、つまり親子三代で住んでいたことになる。すると私の家を訪ねてくる欧米人の中には、「チャイニーズの家族みたいですね」という言い方をする人もいた。
私はカトリック系の国際的な空気を持つ私立の女子高で、幼稚園から大学まで教育を受けた。そこでは、私たちは外国人の修道女たちから、日本人であり続けることをしつけられたのである。もしキリスト教徒の家庭に生まれた生徒が将来結婚したら、婚家先の信仰が仏教や神道である可能性が高い。そういう場合は、夫の親たちの拝む仏教や神道のお寺や神社には親たちの付き添いとして同行し、家庭内にそうした仏たちや神々を祭る祭壇がある時には、そのお掃除もしてよろこんでもらいなさい、としつけられた。
それがもっとも手近な愛の表現であると習ったのだ。
人は国家、社会、家族に属しながらも、それぞれの心の中に、独自の聖域があるはずだ、と私は思って入る。その違いを暖かく繋ぐものが、同胞や家族の幸福を願う意識の絆である。だから人は、自分の理想とする老年をそれぞれに創るのが願わしいのである。
長い年月を生きてきた老人は、体こそ老いて弱っているかもしれないが、沢山の人生を見てきて、複雑な人生の受け止め方ができるような豊かな精神構造を備えるようになっているはずだ。中国と日本の双方の老人たちの、穏やかで暖かい知恵の交流が、双方の国に明るい長寿時代を持ってきてくれることを私は願っている。
(了)
25244587 伊藤氏貴著「生きるために読む 死の名言――西郷隆盛―」について - 岡田 次昭
2024/05/18 (Sat) 08:18:36
私の書架には伊藤氏貴著「生きるために読む 死の名言」があります。

この書物は、2023年4月18日、ダイヤモンド社から第一刷が発行されました。

238頁の中に、司馬遼太郎・佐野洋子・林子平・梅原龍三郎・坂口安吾・平塚らいてう・吉田松陰・高杉晋作・中村哲・瀬戸内寂聴・

小沢治三郎・手塚治虫・白洲次郎・白洲正子・吉田兼好・大伴家持・吉川英治・藤村操・池波正太郎・岡本太郎・岡倉天心・西郷隆盛・

三木清・井上靖・西行・新渡戸稲造・上杉謙信など有名人の名言が99も収められています。

今回は、私の尊敬する「西郷隆盛公」について纏めることにしました。

私は、上野恩賜公園を訪れる度に、「西郷隆盛と愛犬ツン」の銅像を撮影して、彼を偲んでいます。



彼は明治政府に反抗し、最後は、無念の死を遂げました。



伊藤氏貴(イトウ ウジタカ)さんは、1968年、千葉県にて生まれました。



来歴と受賞歴は、次の通りです。



聖徳学園小学校卒業

麻布中学校・高等学校卒業

早稲田大学第一文学部文芸専修卒業

日本大学大学院芸術学研究科修士課程修了

1998年「告白の文学性、あるいは文学の告白性 -近代日本文学を中心に」で博士(芸術学)(日本大学)2008年

明治大学専任講師

2012年 准教授

2002年 第45回群像新人文学賞(2002年)評論部門:「他者の在処」



彼は、明治大学文学部文芸メディア専攻教授に就任しています。

そして、日本近代文学会、江古田文学会会員になっています。



上記以外の主な著書は次の通りです。



『告白の文学:森鷗外から三島由紀夫まで』(鳥影社 2002年)

『奇跡の教室:エチ先生と『銀の匙』の子どもたち:伝説の灘校国語教師・橋本武の流儀』(小学館 2010年)

『奇跡を起こすスローリーディング』(日本文芸社 2011年)

『Like a KIRIGIRISU 〝保障のない人生”を安心して生きる方法」(KADOKAWA 2013年)『漱石と猫の気ままな幸福論』PHP文庫 2016

『美の日本 「もののあはれ」から「かわいい」まで』(明治大学リバティブックス)明治大学出版会、2018.3

『同性愛文学の系譜 日本近現代文学におけるLGBT以前/以後』勉誠出版 2020



この書物の222頁と223頁は白紙です。

「ここには、あなたが考える「死の名言」を書いてください。」とあります。

私は、次のように書きました。



『死して私はゴミになる。唯一気がかりなことは、もうモーツアルトの音楽を聞くことが永遠に訪れないことだ。』



                             記



「西郷隆盛(1828~1877 没年49歳)



命もいらず、名もいらず、官位もお金いらぬ人は、始末に困るもの也。

「西郷南州遺訓」より



「始末に困る」人の尊さ



名声にも地位にもお金にも興味がない、命にさえも執着しない。

こういう人はたしかに扱いづらいでしょう。

名誉や金銭で釣ることもできず、どんな脅しにも通用しません。

では西郷はここで、そのような人物を手掛ける処世術を説こうとしているのでしょうか。

違います。

この後にこう続くからです。

「此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」」と。

(事を成すには、むしろ積極的にこういう人物をこそ探せ)、といっているのです。

まず西郷自身がそのような人物でした。

薩摩藩の下級武士の出ながら藩を思い、国を思い、それが強すぎて過激な行動や権力者の意に添わない言動に出ました。

結局、島津久光によって二度も島流しに遭いますが、命からがら戻ってきました。

その後の活躍は誰もが知ると頃でしょう。

新政府の中枢に座すことになります。



ただ、西郷が望んだのはそうした栄達ではありませんでした。

自分の意が汲まれないとしるや即刻辞表を出し、故郷に戻りました。

西南戦争で挙兵したのも、決して自分自身のためではありませんでした。

ですが、名にも命にも執着しない愛国者は、政府内で出世していった人たちからすれば確かに「始末に困る」人物だったでしょう。

(了)



上野恩賜公園にある西郷隆盛公と愛犬ツンの写真

25244238 さわりで覚えるクラシックの名曲50選 歌の翼に(Auf Flügeln des Gesanges)」について - 岡田 次昭
2024/05/17 (Fri) 08:19:46
令和6年5月16日(木)、私は、書架から樂書ブックス編集部編「さわりで覚えるクラシックの名曲50選」を出してきました。

この書物は、2004年6月30日、株式会社樂書館から第一刷が発行されました。

111頁の中に有名な作曲家の名曲の解説が収められています。

今回は、そのうち、メンデルスゾーン作曲「歌の翼(Auf Flügeln des Gesanges)」について纏めました。



私は、大学1年製の時にドイツ語の歌に出あって、それ以来好きになりました。

英語よりも歌いやすく、有名な歌は諳んじています。



私は、田辺秀樹編「やさしく歌えるドイツ語のうた」を所有しています。

この書物は、2006年3月20日、NHK出版から第一刷が発行されました。

この中には、歌の翼に、ローレライ、野ばら、リリー・マルレーン、ムシデン、菩提樹など22曲が収められています。

その最初のところに、「歌の翼に(Auf Flügeln des Gesanges)」の歌詞と楽譜が収められています。



                              記





※ フェリックス・メンデルスゾーン(1809~1847、ドイツ)



メンデルスゾーンの最も有名な曲は、「ヴァイオリン協奏曲」です。

世界三大「ヴァイオリン協奏曲」の一つです。

世界三大ヴァイオリン協奏曲は、ニ長調(ブラームス)とニ長調(ベートーヴェン)とホ短調(メンデルスゾーン)を指します。





作曲家でピアニスト、オルガニスト、指揮者。

メンデルスゾーンは裕福な家庭で何不自由なく育った。

彼の邸宅には沢山の書物や絵画が揃い、たびたびプロの音楽家による演奏会が行われていたという。

メンデルスゾーンがバッハの「マタイ受難曲」を蘇演したことは有名で、それまで忘れ去られていたバッハの作品が、彼のお陰で世間の脚光を浴びることになった。

また音楽大学ライプティヒ音楽院の設立に携わり、シューマンらとともに教授として若い音楽家を育てるなど幅広く活躍した。

音楽の才能に恵まれていただけでなく、水泳や乗馬、ダンスもうまく、風景画の腕前はプロ並と、とにかくオールマイティに何でもこなす音楽家だった。



「歌の翼に」は、「六つの歌曲(作品34)の中の2曲目に当たる歌曲。

ヴァイオリンなどでもアレンジされている、味わい深い名曲だ。

本書のCDでは管弦楽曲で収録されていて、様々な楽器の奏でる音色がとても美しい。

原曲の「六つの歌曲(作品34)」につけられている歌詞は、複数の詩人によるもの。

例えばドイツ民謡の歌詞からとったものもあれば、メンデルスゾーンの友人であり、公使館で働くアマチュア詩人によるものもある。

中でも「日曜日の歌」はあの有名なゲーテによるものだ。

ゲーテは教養があり、才能あふれるメンデルスゾーンをとても気に入っていて、よく自分の家に招いていた。

ここで紹介する「歌の翼に」はハイネの詩。

ロマンチックな恋の詩で、曲も負けず劣らず甘くて幻想的。

気持ちがイライラした時に聴くと心が晴れやかになりそうな一曲だ。

さて、メンデルスゾーンの曲は育ちの良さがうかがえる爽やかな曲が多いが、苦労知らずに見える彼にも、実は大変な時期があったようだ。

これらの歌曲を作曲していた時期、彼はゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就任していた。

不満ばかり言ってあまり勉強もしない団員たちに、メンデルスゾーンも我慢できず怒ることもあったとか。

しかし、楽団の質を向上させるのに奮闘した彼のお陰でこの楽団は見事に変貌し、ヨーロッパ屈指の楽団になった。

そんな容易に屈しない強さを内に秘めつつ、「歌の翼に」のような優雅な音楽を生み出す完成の振幅の広さに、スポーツまで愛する多彩な芸術家の様子が窺われる。

(了)



(ご参考)



メンデルスゾーン作曲、ハインリッヒ・ハイネ作詞「歌の翼に(Auf Flugeln des Gesanges)」



Auf Flugeln des Gesanges,

Herzliebchen, trag ich dich fort,

Fort nach den Fluren des Ganges,

Dort weis ich den schonsten Ort.



歌の翼にのせて

愛する人よ 君を運んでいこう

ガンジス河のほとりの 野原へ

そこに いとも美しい場所がある



Dort liegt ein rotbluhender Garten

Im stillen Mondenschein;

Die Lotosblumen erwarten

Ihr trautes Schwesterlein.



そこには赤い花の咲く庭が

静かな月明かりのなかにある

蓮の花たちが 待ち受けている

彼らの仲好しの妹を



Die Veilchen kichern und kosen,

Und schaun nach den Sternen empor;

Heimlich erzahlen die Rosen

Sich duftende Marchen ins Ohr.



スミレたちはクスクス笑って じゃれ合い

空の星々を 見上げている

香しいおとぎ話 語り合っている



Es hupfen herbei und lauschen

Die frommen, klugen Gazelln;

Und in der Ferne rauschen

Des heiligen Stromes Welln.



こちらへ跳ねてきて 聞き耳を立てるのは

おとなしくて賢い ガゼルタチ

そして遠くでは 聖なる流れの

波の音が聞こえる



Dort wollen wir niedersinken

Unter dem Palmenbaum,

Und Liebe und Ruhe trinken,

Und traumen seligen Traum.



そこに 私たちは横たわろう

椰子の樹の下で

そして 愛と安らぎを 飲み干し

至福の夢を 夢見よう





1839年に描かれた彼の肖像画

25243780 壇ふみ著「どうもいたしません」について - 岡田 次昭
2024/05/16 (Thu) 07:40:07
令和6年5月9日(木)、私は、中原図書館から壇ふみ著「どうもいたしません」を借りてきました。
この書物は、2004年8月25日、株式会社幻冬舎から第一刷が発行されました。
230頁の中に沢山の随筆が収められています。
今回は、そのうち、「パソコンの陰」について纏めました。

パソコンを習いたての頃、必ず「フリーズ」して慌てます。
この随筆を読みますと、壇ふみさんの慌てぶりが手に取るように分かります。
パソコンに慣れてきますと、メール・文章作成から始まって、Excelにて何でも記録することができますので、極めて便利です。

檀ふみさんは、1954年6月5日 、東京都練馬区にて生まれました。
父は小説家の檀一雄、兄はエッセイストの檀太郎、父方の叔父は、東映代表取締役社長・会長を務めた高岩淡です。
6月5日を迎えますと、彼女は満70歳になります。
独身を貫いています。
彼女は、練馬区立光和小学校、東京学芸大学附属大泉中学校、1973年3月、東京教育大学附属高校(現在の筑波大学附属高校)を卒業し、駿台予備学校に通いました。
一浪後の1974年、慶應義塾大学経済学部経済学科に入学し、6年もかかって卒業しています。
映画界入りのきっかけは、970年、高校1年の時でした。
兄の檀太郎夫妻と大阪万博を見物した帰りに、東映京都撮影所長代理をしていた叔父・高岩淡に会いに行った際、たまたま撮影所にいた俊藤浩滋にスカウトされました。
しかし、当時父の檀一雄がポルトガルに長期旅行中で、「おれが帰国するまで待て」といわれ、交渉は一時おあずけになりました。
1972年2月に檀一雄がポルトガルから1年4ヶ月ぶりに帰国し交渉が再開され、高岩は「背が高過ぎるし、美人でもないから女優にはムリじゃないか」と反対しましたが、俊藤が「これからの女優は小柄じゃいかん(彼女の身長は168㎝)」と熱心に口説きました。
2年経って東映の状況が変わり、俊藤の娘の藤純子が1972年3月をもって結婚引退し、これを俊藤が岡田茂東映社長に伝える際、女優引退を強硬に反対する岡田に「必ず純子のアナを埋めてみせるから、どうか頼む。諦めてくれ」と男の約束をしていたため、遮二無二に藤純子の後釜を探す必要がありました。
檀一雄はふみを作家にしたくて、海外留学をさせようと考えていましたが、作家仲間からは酒の勢いもあり「いいじゃないか、女優にさせろ」と煽られ、兄の太郎も女優になることを賛成し、ふみからは「お父さんが決めて」と言われ困り果てました。
結局、ふみの意思を尊重し、東映に娘を一切預けることを決めました。
吉報に大喜びの岡田社長、俊藤は「必ず東映の大スターに育てます。2代目藤純子を襲名させます」と檀一雄に伝えました。
NHK総合テレビのクイズ番組『連想ゲーム』において、彼女が紅組レギュラー解答者に抜擢されると、カンの良さと飾り気のないお色気で茶の間の人気をさらいました。
スカウトした東映は実録路線に傾斜したため、あまり出番はありませんでしたが、清純派女優として人気を博し、テレビや映画に引っ張りだこになりました。



「パソコンの陰」

「パソコンの陰にオトコあり……」という、名言を吐いた編集者がいる。
いわく、パソコンを使いこなしている中年オンナの後には、たいていオトコがいる。
正しい。
私のパソコンの陰にも、オトコがいる。
ウチの兄である。
しかし、兄というのは、正確には「オトコ」とはいえないから、私はパソコンを「使いこなして」まではいないのである。
だって、不親切きわまりないのである。
数年前のこと、「そろそろ、オマエもパソコンにしたら」と言って、頼んでいたワープロではなくてパソコンを買ってきて、立ち上げてくれたまではよかった。
「パソコンはね、自分で触って自分で覚えるしかないの」と、起動と終了のしかたを教えて、後はほったらかしである。
私には、可及的速やかに書かなければならない原稿があった。
兄がお情けで作ってくれたパソコン原稿用紙に、恐る恐る文字を打ち込んでいく。
カーソル(という言葉も知らなかったが) がすぐ行方不明になるので、どうしていいか分からず、でたらめにクリック(という言葉もこのごろ知ったのだが) していたら、コマ落としのように、次々に画面が開いてゆき、ついには、押しても引いても叩いても、こちらの操作に反応しなくなってしまった。
大枚はたいて買ったパソコンを、一夜にして壊してしまったのだろうか。
深夜であったが、困り果ててオトコに電話する。不機嫌そうに受話器を取ったオトコが言うには、
「それねぇ、フリーズって言うの。アプリケーションを開きすぎて、容量を超えたゃったんだろ」
私には、オトコの言葉はチンプンカンプンである。
難しい専門用語はどうでもいい。
とにかく、原稿の続きを書かなければ、締切りに間に合わない。
「保存してないんだろう。消えちゃってるよ、そんなもの」
そして、初めて意味あることを教えてくれたのである。
「フリーズっていうのはね、一番起こってほしくないときにおきるんだよ。コレ、『マーフィーの法則』」
そんなパソコンなど見限って、紙と鉛筆を使って書きたいのはヤマヤマなのだが、私は両親指のつけ根に腱鞘炎と関節炎を抱えている。
こちらの方がフリーズしたら、台本もめくれなくなってしまう。
というわけで、渦巻く怒りと限りない倦怠感を道連れに、私はパソコン様のお世話になり続けている。
便利なものであるという実感は、まるでない。
いつかホンモノのオトコが現れて、すべての疑問、呪縛から解き放ってくれること。
コレが私のひたすらなる願いである。
(了)

(ご参考)

マーフィーの法則Murphy's law)について

マーフィーの法則Murphy's law)とは、「失敗する余地があるなら、失敗する」「落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、絨毯の値段に比例する」をはじめとする、先達の経験から生じた数々のユーモラスで、しかも哀愁に富む経験則をまとめたものです。
例として、
「If it can happen, it will happen.」「起こる可能性のあることは、いつか実際に起こる。」
が基本精神であって、その基本的表現は次の通りです。
「Anything that can go wrong will go wrong.
「うまく行かなくなり得るものは何でも、うまく行かなくなる。」



25243451 日本エッセイスト・クラブ編「美女という災難 2008年版ベストエッセイ集」について - 岡田 次昭
2024/05/15 (Wed) 08:19:03
令和6年5月9日(木) 、私は、中原図書館から日本エッセイスト・クラブ編「美女という災難 2008年版ベストエッセイ集」を借りてきました。

この書物は、2008年8月30日、株式会社文藝春秋から第一刷が発行されました。

270頁の中に、有馬稲子・池部良・永六輔・梯久美子・加藤一二三・など有名人の随筆が収められています。

今回は、有馬稲子著「美女という災難」について纏めました。

この随筆は、標題にもなっています。

有馬稲子さんの文章は、しっかりしていて好感が持てます。



人それぞれ美女の感じ方は違うと思います。

日本の女優の中で、私が美しいと感じる女性は、高峰秀子、有馬稲子、黒木瞳、檀れい・斉藤慶子さんです。



有馬稲子さんは、1932年4月3日、大阪府豊能郡池田町(現:池田市)にて生まれました。本名は、中西盛子(ナカニシ ミツコ)さんです。

1949年、宝塚歌劇団36期生として宝塚歌劇団に入団し、二代目・有馬稲子を襲名しました。

この芸名は百人一首の大弐三位の「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」に由来しています。

宝塚入団時の成績は63人中9位でした。

在団中の1951年、東宝『寳塚夫人』で映画デビューしました。

同年7月、映画『せきれいの曲』で初主演を演じました。

宝塚歌劇団の最終出演公演の演目は花組公演『巴里の騎士/かぐや姫』でした。

1953年、自身が男役を演じた際の違和感から映画に興味が転じ、3月25日付で宝塚歌劇団を退団し、東宝の専属女優になりました。

1954年4月16日、岸惠子・久我美子らと共に「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立しました。

1955年に松竹へ移籍しました。同様に東宝から移籍してきた岡田茉莉子と共に二枚看板として活躍しました。

1961年11月27日、俳優の中村錦之助(萬屋錦之介)と結婚式を挙げました。

しかし、そこでの家事生活は過酷なもので、昼も夜も台所に立つ日々に疲れてしまい、これが離婚の一因になってしまったといいます。

また、結婚後中村が、毎晩自宅に共演者やスタッフを十数人も連れてきては大宴会を開いた結果、

夫婦水入らずの時間が全くなかったのも原因とされています。

1965年7月23日、結婚から約3年7ヶ月後、東映の大川博社長が2人の離婚を発表しました。

1969年には実業家の河村三郎と再婚しましたが、1983年に離婚しています。

なお、中村と河村のいずれとの間にも子は生まれませんでした。

2014年、宝塚歌劇団創立100周年記念で創設された『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人の一人として殿堂入りを果たしました。

彼女は、田園調布の自宅を引き払い、2007年より横浜市の中高年向けの高級分譲マンションでひとり暮らしをしています。

現在、92歳です。



主な出演映画は、次の通りです。



大根と人参(1965年)

徳川家康(1965年)

無法松の一生(1965年)

告白的女優論(1971年)

生きてはみたけれど 小津安二郎伝(1983年)

いのちの海 Closed Ward(2001年)

夢のまにまに(2008年)

葬式の名人(2019年)



                    記



有馬稲子著「美女という災難」(原文のまま)



文藝春秋の二月号「昭和の美女」という特集に若い頃の写真がでました。

二十三歳頃でしょうか。

私自身の記憶の中から消えていた写真で、あらまあ、あなた元気だったのと、もう一人の自分に再会したような、不思議な気分を味わいました。

きつい野性的なメークをしていてレンズを軽くにらみつけています。

当時、山のように撮られた私の写真は、優雅か、お嬢さんか、都会的かでしたから、これはかなり異色の一枚です。

このにらみつけるような目をみて、どこで撮ったか思い出しました。

銀座の泰明小学校の前にあった早田雄二さんのスタジオ。

当時の写真家にはふたつのタイプがあって、ひとつは綺麗だよ、いいよ!! とのせながら撮る秋山庄太郎さんのようなタイプと、

それとは正反対の挑発派ともいうべきタイプ。

早田雄二さんはまさに後者の代表で、何だそんな顔、それでも女優か、どこを撮れというんだよと悪口雑言、ムカッとさせてパチリと撮るのが名人でした。

この燃えるような目は、まさにその焚きつけられた怒りの表情に違いありません。

もうこの歳になると臆面もなく言えますが、この頃の私は美女の代表のようにいわれていました。

そんなしあわせなと思われるかも知れませんが、金持ち必ずしも幸せでないように、美女と呼ばれること必ずしも幸せではない。

当時の私はこの美女というレッテルがいやでたまらなかったのです。

というのも、美女というのは、オードリー・ヘップバーンであり、デボラ・カーのことである。

そう固くきめこんでいて、そんな目がぱっちりした人と比べると鏡のなかの自分は平凡な顔断ちで美女でも何でもない。

「東京暮色」でご一緒させていただいた原節子さん、あのような顔こそが美女だと信じていたからです。

有馬稲子を人名事典に書くとすると、この「思いこむと凝り固まって身動きが取れなくなる」というのは、まず、最初に書かなければなりません。

美女がいやだった理由のもう一つは、自分の経歴へのコンプレックス。

いまでこそタカラヅカというのは、その厳しい訓練で芸能界に素晴らしい人材を提供する難関と認知されていますが、

昭和二十八年頃は、まだまだ評価は低く、ただ見目麗しいだけでスターになれる所と思われていた……というより自分でそう思いこんでいたのです。

さあ、そんな世界から演技のいろはも分からないまま、小津安二郎、内田叶夢、渋谷実など世界的な巨匠が居並ぶ世界に飛び込んだのです。

今井正監督の「夜の鼓」では、名優の金子信雄さんを相手に「待って」と言うセリフを言うだけでNGの山を築き、一日百回も云わされてついに撮影を一週間も止める体たらく。

その世界では美女とは演技ができない奴と同意語だったのです。

こうして私の美女アレルギーはずっとついて回ることになりました。

美女という評価ではない別の評価を得るにはどうする――。演技力をつけ芝居のできる役者になるしかない。

こうしてなんと向こう見ずにも民藝の宇野重吉さんの門を叩いて演技を目指したのです。

きっと日本の演劇の神様が、私を美女地獄から救ってくださるとでも思ったのでしょう。

仕事に限らず二度の結婚も含めて「思考は常に短絡し、向こう見ずで浅慮(センリョ) 」これも私の人名事典の説明には不可欠でしょう。

それにしてもこの意外な写真との出会いは、いろいろな思いを運んでくれました。

私がもし私でない顔を持っていたら、どんな人生を歩んだだろう。

最近よくそう思います。

下田の海岸で夕暮れ、浜辺に車を止めて、テーブルを出してランプを点け、海を見ながら食事をしているカップルを見ました。

つつましやかな食べもの、飲み物。

二人は本当に自然で和やかで満ち足りて見えました。

その手応えのある幸せを共有している姿を見て、ああ、私にはこんな青春はなかったなとつくづく思いました。

私の一番美しかったときからしごかれ続けて五十年。

少しは良い仕事をしたけれど、星の数ある選択肢の中で、私はねじれてからまった一本を引いてしまったのかな、と思います。

今まで私が出演した映画は七十本ばかり。

今年いい出会いがあって、あと一本この記録を伸ばすことができそうです。

題名は「夢のまにまに」。

勿論、美貌を買われて出演したわけでは決してありません。

それが妙に嬉しくて、時々昔の映画を見ては……美女だったなあ……しかし下手だったなあ……しかし良い映画だ、などと思っています。

(「文藝春秋」 2008年5月号)
25243050 映画「ワルキューレ(Valkyrie)」について - 岡田 次昭
2024/05/14 (Tue) 07:48:59
令和5年8月2日(水)午後1時40分、テレビ東京にて映画「ワルキューレ(Valkyrieドイツ語では、Walküre)」が放映されました。
この映画は、当時のドイツの状況を描いた傑作です。

この映画を私はこよなく愛しています。
それ故、当時纏めた文章を配信します。

私は、第二次世界大戦時の戦闘を描いた映画が好きです。
中でも、「砂漠の狐」「サハラ戦車隊」「ワルキューレ(Valkyrie)」「プライベート・ライアン」「眼下の敵」「永遠のゼロ」「ヒトラー最後の12日間」「ダンケルク」「男たちの大和」「シンドラーのリスト」「レマゲン鉄橋」「戦場のピアニスト」「バルジ大作戦」などの映画は放映されるたびに見逃さずに見ています。

トム・クルーズ主演のこの映画は、史実に基づいております。
この映画を理解するために、当時の事件概要を下記に記載しておきます。

1944年7月20日、国内予備軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐は、東プロイセンのヒットラー総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(Wolfsschanze狼の巣)」に赴き、爆弾をセットした書類カバンを作戦会議室のテーブルの下に持ち込みました。爆発と同時に、彼と部下のヘフテン中尉は急用を理由に、現場を素早く立ち去りました。ところが、予期せぬことが発生して、暗殺テロは失敗し、ヒットラーは奇跡的に軽症のみで生き残りました。

その理由は、次の通りです。

① 二個のプラスチック爆弾を準備するも、時間に追われて一個のみしかセットできませんでした。
② 当日の気温が高かったため、地下室で行われる予定の作戦会議は地上の会議室で行われました。そのため爆風が窓から逃げて、殺傷力が減じられました。
③ テーブルの下に置かれた書類カバンを足元が邪魔と考えて総統副官のハインツ・ブラント大佐がヒットラーの方向に向けてあったカバンを脚部に沿って奥側に押し込みました。この結果、まともに爆発を受けた4名が死亡し、一方、太い樫の木で出来た脚部が遮蔽物となり、ヒットラーは爆風から守られて、軽症を負ったに過ぎませんでした。

ヒットラーが生き残ったことにより、クーデターは失敗し、ナチ政府による反逆者狩りが始まりました。
軍人・官僚・聖職者・民間人の逮捕者は、約1,500名に達し、うち200名は銃殺及びピアノ線による絞首刑によって、処刑されました。
勿論、シュタウフェンベルク大佐は即日逮捕され、同日夜に銃殺されました。
9ヶ月後の1945年4月16日からソ連軍の猛攻撃が開始されました。もはやドイツ軍はなすすべもなく、ベルリンは陥落しました。
4月30日、ヒットラーはエヴァ・ブラウンと共に拳銃にて自殺しました。
5月1日、ヒットラーの後継者として大統領に指名されたカール・デーニッツ提督はアルフレート・ヨードル大将に全権を委任しました。
彼は連合軍最高司令官アイゼンハワー将軍と会談し、5月7日、ドイツ国防軍全軍の無条件降伏文書に著名しました。
5月9日の零時にそれが発効しました。
かくして、ヒットラーの「第三帝国(Das Dritte  Reich)」は脆くも(モロクモ)崩壊したわけです。

この映画は、上記の事実に沿って、シュタウフェンベルク大佐を中心にして描かれております。
トム・クルーズほかの登場人物は、実際の映画ではすべて英語で会話しております。
この放映では、すべて日本語の会話となっています。
一方、命令書等はドイツ語にて記載されております。
何となく私は、違和感を覚えました。
迫力のあるドイツ語で映画が進行すればよりよい効果があったと考えるのは私のみではないでしょう。

映画のあらすじは次の通りです。

1943年1月、シュタウフェンベルク大佐は北アフリカの最前線に赴いておりました。
彼は「良心」と「忠誠心」の葛藤に苦しんでおりました。
国家に忠誠を誓ったドイツの誇り高い軍人にとって、反逆は実質不可能の状態にありました。
それはドイツ国防軍の最高司令官に就任したヒットラー総統が、国防軍全軍に対し、ドイツ国民や憲法ではなくヒットラー個人に対して忠誠の誓いを立てさせたからであります。
その新しい宣誓は次の通りです。「私は、ドイツ国民およびドイツ国民の総統であり、国防軍最高司令官であるアドルフ・ヒットラーに対して無条件の忠誠をささげ、勇敢な兵士としていつでも自らの命を捧げる用意のあることを、この神聖な宣誓をもって神に誓います。」
しかしながら、悪行を重ねるヒットラー独裁政権に絶望した彼は、ドイツ祖国の未来の為に何らかの手を打たなければならないという使命感に燃えていました。
この無謀な戦いから部下たちの命を救おうとして上官に対し、撤退を進言し、ようやく撤退を聞き入れられたちょうどその時、連合軍の戦闘機や爆撃機の機銃掃射や爆撃に晒されて、上官は戦死、彼は負傷して、左目と右手首を失いました。
本国に送還された彼は生死をさまよいながらも、ヒットラーの独裁政権は放置できないとの信念は全く揺るぎませんでした。
彼の戦傷が癒えるのに3ヶ月もかかりました。
その後、ヒットラー暗殺を企てるレジスタンスの秘密会議にも彼は出席しました。
ある日のこと、シュタウフェンベルク大佐は自宅でワグナーの「ワルキューレの騎行」を偶然耳にし、大胆な計画を思いつきました。
それはドイツ国内での有事の際に反乱勢力を鎮圧する「ワルキューレ作戦」という既存のオペレーションを利用して、ヒットラー暗殺後のベルリンを掌握し、ナチス政権の転覆までも一気に成し遂げるという遠大な計画でした。
レジスタンスの主要メンバーであるトレスコ陸軍少将、ベック元参謀総長、オルブリヒト国内予備軍副司令官たちは、彼の大胆な計画に耳を傾けながらも、二つの問題点も存在することを指摘しました。
第一に、「ワルキューレ作戦」の文書を都合よく改竄した上で、ヒットラーの著名が必要であること。
第二は、「ワルキューレ作戦」の発動権を持っているフロム国内予備軍司令官をレジスタンス側に抱き込む必要があることでした。
シュタウフェンベルク大佐とオルブリヒト国内予備軍副司令官はフロム国内予備軍司令官の執務室を訪れ、出世欲の強い彼の腹を探りましたが、彼は聞き入れようとはしませんでした。
フロムは、聞かなかったことにして、この場をおさめました。
シュタウフェンベルク大佐は回復後、国内予備軍参謀長に昇進しておりましたので、ヒットラーに直接会うことが出来、密かに改竄した「ワルキューレ作戦」の承認サインを貰うことに成功しました。
さらにヒットラー側近のフェルギーベル大将を味方に引き入れることにも成功しました。
こうして、運命の1944年4月20日を迎えました。
オルブリヒトの副官であるヴィルンハイムがブリーフケースに忍ばせた二つのプラスチィック爆弾を用意したことで、ヒットラー暗殺計画のすべてが整いました。
シュタウフェンベルク大佐と副官のヘフテン中尉は、ハインケルHe111に乗って、東プロイセンへ行き、そこから車でヒットラー総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)」に向かいました。
大本営入り口において厳重な警戒も無事通過しましたが、会議室は地下室から地上に変更されておりました。
会議室に入る前に、着替えをする為と称してトイレに入って、爆弾の準備に取りかかりました。
地上では殺傷力が弱く、しかも時間が切迫しておりましたので、二個のうち一個しかセットできませんでした。
会議室に入りますと、彼はヒットラーの近くに寄り添い、カバンを机の下に置きました。爆弾の爆発まで10分しかありません。
ちょうど都合よく、シュタウフェンベルク大佐に緊急の電話がかかってきました。
それを口実に、彼は会議室を後にしました。
車に到着したところで、会議室は大爆発を起こし、シュタウフェンベルク大佐はヒットラーが死亡したものと確信しました。
結果的には、爆弾が一つであったことと、彼の副官がカバンを奥の方に押し込めたお陰で、ヒットラーは死亡することなく、軽症のみ負うことになりました。
検問のところで、停車を命じられるも、彼は機転を利かして、カイテル元帥に電話しました。
これを見た検問の兵士は納得し、難なく無事脱出することが出来ました。
ベルリンに帰ったシュタウフェンベルク大佐は「ワルキューレ作戦」が未だ発動されていないことに驚愕しました。
彼は上官であるフロムにヒットラーの死を伝え、オルブリヒト国内予備軍副司令官が「ワルキューレ作戦」を発動しました。
国内予備軍のレーマー少佐は、この命令を受けて、部隊を動員し、SSやゲシュタポ等の主要官邸を占領しました。
シュタウフェンベルク大佐はクーデターに協力的でないフロムを軟禁して、ベンドラー街にある国内予備軍司令部から次々と指令を出していきました。
国内予備軍のレーマー少佐がゲッペルス宣伝大臣を逮捕に行ったところ、ちょうどヒットラーから電話がかかっており、代わって電話に出たレーマー少佐は、ヒットラーの肉声を聞いて、この行動がレジスタンスのものであることに気づきました。
ゲッペルスは、レーマー少佐をクーデター鎮圧の責任者に任命し、この時点でクーデターは失敗に終わりました。
かくして、シュタウフェンベルク大佐・副官のヘフテン中尉・ベック元参謀総長等レジスタンスの主要人物はすべて逮捕され、フロム国内予備軍司令官の命令によって、銃殺或いはピアノ線による絞首刑が執行されました。
映画はここで終わりです。
最後の字幕には、シュタウフェンベルク大佐の妻であるニーナ夫人は一度は逮捕されるも、終戦後に釈放され、2006年4月2日まで生存したと表示されました。
去就が定かでなかったフロム国内予備軍司令官は、暗殺計画の黙認容疑と首謀者らを即決裁判にかけて処刑したことがヒットラーの逆鱗に触れて、1945年3月に処刑されました。
余談ながら、国内予備軍司令部のあったベンドラー街はシュタウフェンベルク街に改名され、記念館も建てられております。
更に、レジスタンス記念切手も発行され、ドイツ国内での人気は高いとのことです。
死して、彼らは名を残したのです。
(了)

シュタウフェンベルク大佐の写真