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松山高女および松山南高校同窓会関東支部の専用掲示板「末広帖」です。関係者以外の投稿はご遠慮ください。

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25268934 やまなみ夏の句会 - 神野昭子
2024/07/27 (Sat) 11:15:14
今月のフォーラムやまなみ夏の句会は
潮入りの浜離宮で行われた。
連日の猛暑の中、8名の参加、11名の欠席投句で
昼食をとりながら始まった。

句会は参加して、色んな意見を出し合って一句を
作り上げていく文芸の通り、良い句会であった。

 夏神輿街道練りてひとやすみ     和夫
 遠雷や何れの雲ぞ仰ぐ空       卓
 雷の去り行く先は山向かう      政紀
 白南風ややまなみ句会十五年     道雄
 異国語を朝顔市の列の中       冨貴江
 遠雷もジャズに聞こゆる逢瀬かな   泰男
 一山の重みに滲む岩清水       環
 遠雷や独り留守居の女の子      ひろ子
 麦秋や出石の里のこうのとり     幹
 雷鳴にひきとめられし茶屋の軒    宜子 
 夏の伊豆真青の海に朱の鳥居     道夫
 雷に女の仕草見せにけり       千秋
 闘犬の唸り地を這ふ夏の浜      由美
 孑孑のツイストダンス雨上がる    人
 雷近し雨の気配や土匂ふ       誠一
 稲妻の宙をつらぬくアートかな    規志子
 遠雷や我が家の上を宇宙船      幸宏
 あはあはと雲にとけゆく朝の虹    いづみ
 流螢や木曽義仲の挙兵の地      昭子
 
本日の高点は 
  遠雷もジャズに聞こゆる逢瀬かな  泰男
  旅宿の下駄しのばせて螢待つ    宜子
  雷に女の仕草見せにけり      千秋

次回秋の句会は10月4日(木) 向島百花園
兼題は「吾亦紅」。
25268914 第11期生の武井基次さんの川柳について - 岡田 次昭
2024/07/27 (Sat) 09:42:11
第11期生の武井基次さんの川柳が「朝日川柳」に入選しました。

令和6年7月27日(土)、入選の川柳は次の通りです。

青空に浮かぶ雲にも悩みあり

今年に入って、武井さんは3回も入選しています。

過去2回の川柳は次の通りです。

どの国も病んでおりますおお神よ (2025.3.16)

雨蛙雨乞いのごと鳴き続け (2004.6.15)

第11期生の中で武井基次さんのみが朝日新聞に登場します。

彼は第11期生の誇りです。

岡田 次昭
25268901 日本博学倶楽部編『戦国武将・あの人の「その後」石田三成』について - 岡田 次昭
2024/07/27 (Sat) 08:24:35
令和6年7 月24日(水)、私は書架から日本博学倶楽部編『戦国武将・あの人の「その後」』を出してきました。

この書物は、2002年9月17日、PHP研究所から第一刷が発行されました。

244ベージの中に戦国武将の「その後」が沢山収められています。

石田三成・小西行長・安国寺恵瓊・島津義弘・直江兼続・毛利元就・黒田如水・榊原康政・山内一豊・穴山梅雪・長宗我部元親などの武将が登場します。

この書物に登場する武将たちは、歴史上有名な人たちばかりです。



今回は、そのうち、「捕らえられたが、最後まで健康に配慮!? 関ヶ原の合戦で負けた石田三成」について纏めました。



「干し柿」の話は、石田三成の処刑寸前のエピソードです。

私は石田三成の武士道の心に敬服しています。



                     記



「捕らえられたが、最後まで健康に配慮!? 関ヶ原の合戦で負けた石田三成」



関ヶ原の合戦で石田三成率いる西軍の武将たちの多くは、壮絶な討死を遂げたり、自害したが、戦場から逃げ出した者も少なくなかった。

西軍首謀者の三成、小西行長、安国寺恵瓊も戦場から逃げ出し、敗残の将となりながらも生き長らえた。

しかしほどなく東軍に捕らえられることになる。

慶長5(1600)年9月19日に行長が、つづいて21日に三成が伊吹山中でつかまった。

そして23日に恵瓊が京都に潜伏しているところを捕らえられた。

残りの首謀者として長束正家、浮田秀家がいたが、政家は既に自害しており、秀家は家康の目の届かない薩摩まで逃れ、島津氏に匿われていた。

10月1日、三成、行長、恵瓊の3人は大坂・堺・京都の町を引き回され、京の六条河原で首を斬られ、三条橋に晒された。

ここには自害した正家の首も晒されている。

合戦に敗れ戦場から逃げ出したとしても、つかまれば処刑されることが分かっていながら三成が自首しなかったのは、

「生きていれば、また家康を倒すチャンスが巡って来るだろう」との再起の表れであると同時に、生きること、命に対する独自の価値観をもっていたこともその理由の一つであろう。

そんな三成をよくいい表したエピソードがある。

3人が捕らえられ、洛中を引き回され、六条河原に用意された刑場に運ばれる途中、三成は喉の渇きを覚え、警固の侍に白湯を求めた。

しかし、侍たちは白湯など持ち合わせてはおらず、かわりに干し柿を差し出して「これならある」といったが、三成は「柿は痰の毒で体に悪い」といって口にしなかったという。

まわりの者たちが笑うと「大義を思う者は、志を遂げるため死の直前まで命を大事にするのだ」と返したとされている。

数時間後には処刑される状況にありながら、三成はなおも自らの体をいたわり、命を粗末にしなかったことがうかがい知れる。

なんと肝のすわった沈着な人物なのであろうか。

最もこのエピソード、真偽のほどは明かではない。

(了)


25268900 太田雅男編「歴史群像 春-夏号」について - 岡田 次昭
2024/07/27 (Sat) 08:22:53
令和6年7月25日(木)、私は、書架から太田雅男編「歴史群像 春-夏号」を出してきました。

この書物は、1997年5月1日、株式会社学習研究社から第一刷が発行されました。

これは、今から27年前に購入した書物です。

190頁の中に、クルスク大戦車戦、戦艦大和(CG再現)、川中島合戦の真実、「上陸作戦用 特殊船 陸軍空母 秋津丸」など私の興味を惹く記事が収められています。

今回は、そのうち、「上陸作戦用 特殊船 陸軍空母 秋津丸」について纏めました。



帝国陸軍が、空母を保有していたことは特筆に値します。

残念ながら、この船はなんら活用されないまま、米潜水艦の雷撃によってあえなく沈没してしまいました。



                          記



「上陸作戦用 特殊船 陸軍空母 秋津丸」



丙型特殊船「秋津丸」は、世界でも珍しい「陸軍が建造、運営した空母」である。

最も帝国陸軍の分類では、この船はあくまで特殊船であり、空母と呼ばれることはなかった。

また、その任務も初期のそれは現代の強襲揚陸艦に近い性質――すなわち、上陸作戦時に舟艇(戦車を載せた大発二十七隻) を発進させることが主であった。

航空機の搭載も可能だったが、着艦が考慮されていなかった点と、活用するような事態が生じなかったため、専ら輸送船として大戦の大半を過ごした。

ところが、輸送船団の損害が急増したため、陸軍は秋津丸を対潜護衛艦とする決意を固めた。

離着陸性能に優れた三式連絡機に爆雷を搭載し、対潜哨戒機として活用するのだ。

海軍もそれに協力し、艦政本部の指導の下、秋津丸は航空機の離発着が可能な船に改装された。

垂線間長140m、総トン数9,433t、最大速力21ノット。

ら号探信機と、す号聴音機をそれぞれ備え、兵装は75ミリ高射砲3門、20ミリ機関砲8門、対潜迫撃砲1門、112mの飛行甲板を持つ対潜護衛用丙型特殊船誕生である。

だが、秋津丸はこれらの装備を活用することなく、その生涯を閉じた。

昭和19年11月15日、米潜水艦クィーンフィッシュが秋津丸を雷撃……弾薬の誘爆と缶室の爆発により、船は短時間に沈んだ。

沈没位置、北緯33度17分、東経128度11分、五島列島江島京の岳北方40キロ。

船砲隊140名・乗船部隊2,093名のうち、戦死者は船員93名である。

秋津丸に対する評価は様々だ。

現代の米強襲揚陸艦との類似を指摘する旧軍関係者も多い。

なぜ、それを活かしきれなかったのか……この点を考えることこそ、秋津丸への最大の追悼かもしれない。

(了)



25268526 佐治晴夫著『宇宙のカケラ 宇宙の「はじまり」を考える』について - 岡田 次昭
2024/07/26 (Fri) 07:47:21
令和6年7月25日(木)、私は、東急田園都市線梶ヶ谷駅にて東急株式会社編「0ALUS(サルース) 」2024年8月号を入手しました。

この小冊子の28頁に佐治晴夫著『宇宙のカケラ 宇宙の「はじまり」を考える』が掲載されました。

副題は、『宇宙の中のすべての存在は、「無のゆらぎ」から生まれたのです。



佐治晴夫さんは、宇宙について文科系の人にもわかりやすく解説しています。



「宇宙が138億年前にできた」と書かれていても、殆どの人はピンとこないでしょう。



地球の誕生は、およそ45億年前です。

広大な宇宙と比べますと、地球は「「Pale Blue Dot」に過ぎません。




                   記



『宇宙のカケラ 宇宙の「はじまり」を考える』 (原文のまま)』



幼い頃から見上げてきた星座の形はずっと同じです。

そして、何千年も昔に洞窟などに描かれた星の配置図とも同じです。

現代科学の見地からいえば、その配置の違いに気づくには、少なくとも10万年が必要です。

それは、宇宙がとてつもなく広大で、星がとても遠くにあることを意味しています。

ところで、宇宙の中にある元素の重量比を調べてみると、99.9%以上が水素とヘリュウムです。

それ以外の元素、例えば、地球を作っている鉄、酸素、ケイ素や、私たちの体を作っている酸素、炭素、窒素、カルシュウムなどの総量は、0.1%にも満たないほどの量です。

これらの水素、ヘリュウム以外の元素は、星が核融合反応で輝く過程で作られます。

もし宇宙が昔から存在していたのであれば、星はたくさんあったはずですから、水素とヘリュウム以外の元素の量は0.1%を超えていたでしょう。

このことから、原初の宇宙は、星を作る暇もなく、急激に広大な領域にまで、膨張し、冷えたところで、

水素の雲ができて、そこから星が誕生したと考えられるのです。

そこで、今も膨張を続けている宇宙の時間を過去に巻き戻すと、宇宙の大きさはどんどん小さくなり、

138億年前まで遡ると、限りなく熱くまばゆい小さな光の粒として生まれたことになります。

ビッグバン理論です。

では、その前はどうだったのでしょうか。

宇宙がなかったのですから、「無」としかいいようがありません。

物理学でいう「無」とは、時間、空間、物資、エネルギーがない、あるいは定義できない状態のことです。

その一方で、一様に存在している状態も、あるかないか区別できない状態ですから、「無」であるともいえます。

仏教でいう「空」の概念に似ていますね。

たとえば、厚みが一様で、綺麗に磨いているガラス窓を通して見る外の景色がそこにガラスがあるかどうかを忘れさせます。

しかし、ガラスの厚みが一定でなく、一部が歪んで見えたり、一部が欠けて見えたりすることからガラスの存在に気づきます。

つまり「無」のゆらぎが、「有」を生み出すのです。

この事実は、限りなく真空に近い空間の中で、仮想粒子の生成消滅が起こす「ゆらぎ」の波紋として観測されています。

この微小な「ゆらぎ」が原因となって、真空から宇宙が生まれ、そして星になり、あなたになったのです。

この原初の「ゆらぎ」は、今も広大な宇宙空間を共鳴箱にして、深く静かに鳴り響いています。

宇宙開闢(カイビャク)のように。

(注)「ゆらぎ」とは、物理量が平均値のまわりで変動する現象のことです。

(了)





25268163 日本博学倶楽部編『戦国武将・あの人の「その後」島津義弘』について - 岡田 次昭
2024/07/25 (Thu) 07:38:08
令和6年7月24日(水)、私は書架から日本博学倶楽部編『戦国武将・あの人の「その後」』を出してきました。

この書物は、2002年9月17日、PHP研究所から第一刷が発行されました。

244ベージの中に戦国武将の「その後」が沢山収められています。

石田三成・小西行長・安国寺恵瓊・島津義弘・直江兼続・毛利元就・黒田如水・榊原康政・山内一豊・穴山梅雪・長宗我部元親などの武将が登場します。

この書物に登場する武将たちは、歴史上有名な人たちばかりです。



今回は、そのうち、「戦線離脱した西軍の島津義弘 しかし、それが東軍からも絶賛!?」について纏めました。



戦国時代、最強の藩は、薩摩藩でした。

残念ながら、京都や江戸とは離れていた故、天下を取ることはできませんでした。

それでも、薩摩藩は、幕末には江戸幕府を倒し、関ヶ原の戦いの恨みを晴らしました。



                      記



「戦線離脱した西軍の島津義弘 しかし、それが東軍からも絶賛!?」について纏めました。



島津義弘は、兄義久、弟歳久・家久とともに「島津四兄弟」として知られた薩摩の武将である。

優れた将器にくわえ、武芸・武勇に長じていた義弘が、天下にその名を知らしめたの文禄・慶長の役と、関ヶ原の合戦といわれている。

関ヶ原の合戦のとき、義弘は六十六歳で、石田三成、小西行長、浮田秀家らと同じ西軍で会った。

三百騎、総勢千五百の兵を率いる義弘は三成勢の右側に布陣したが、さらにその右には行長、秀家の陣があった。

午前八時、戦いがはじまった。

しかし、義弘はなぜか兵を一人も動かそうとしない。

三成の使者が戦いの要請に訪れても、理由をつけて追い返してしまった。

その後、三成自身らが訪れたが、「我々は我々の戦いをする」と、とりつくしまもなかったという。

戦いが開始されてからおよそ四時間後、同じ西軍の小早川秀秋の裏切りによって戦況が大きく変化しても、依然として義弘は動く様子はなかった。

何故、義弘は戦わず傍観していたのだろうか。

一説には、義弘は東軍の徳川家康と親しい間柄にあったのだが、三成の挙兵によりその勢力範囲に取り残され、西軍につかざるを得なくなったためだとされている。

いよいよ西軍が壊乱す後方にある伊勢路だけだった。

薩摩では、戦いで大将を討ち取られることは「最大の恥」とされていた。

やすやすと義弘を討死させるわけにはいかない。

義弘主従は一丸となって伊勢路をめざした。

家康はこれを見て、井伊直政と本多忠勝に義弘を討ち取るように命じた。

直政と忠勝は、両側から包み込むように義弘らを攻め、義弘の甥の豊久、阿多入道盛淳らによる凄まじい戦いが繰りひろげられた。

豊久は、義弘の陣羽織を着て身代わりとなり、討死した。

ついで阿多入道盛淳が「われこそは島津義弘なり」と叫び、東軍の注意を惹きつけて戦ったが、戦場に散った。

兵たちも「座禅陣」をとって東軍を阻止した。

座禅陣というのは、地面に転々と座り込んで銃を撃つ陣形で、後の兵が銃を撃っている間に、

前にいた兵が銃を撃っている兵の後につくというもので、この動作を繰り返して後退していったのである。

まさに捨て身の陣形である。

多くの犠牲を払いながら、義弘は無事に脱出を果たした。

大隈(現在の鹿児島県東部)富隈(トミノクマ)城に辿りついたときに残っていたのは僅か八十騎であった。

家康率いる東軍の中を突破した島津君の脱出劇は、「島津の背進」と称され、敵方である東軍からも絶賛されたという。

(了)



(ご参考)



その後、島津義弘は、大隅の加治木に隠居しました。

隠居後は若者たちの教育に力を注ぎ、元和5(1619)年7月21日に亡くなりました。

享年85歳でした。

このとき、義弘の後を追って13名の家臣が殉死しました。
25267822 「東京都立殿ヶ谷戸庭園のレンゲショウマを求めて」について - 岡田 次昭
2024/07/24 (Wed) 08:49:26
令和6年7月23日(火)午前10時、私は「東京都立殿ヶ谷戸庭園」を目指しました。

この庭園は、JR中央線立川駅から3駅乗車して国分寺駅にて下車します。

ここから徒歩3分でこの庭園に着くことができます。

私が訪れた時は、私以外は誰もいませんでした。

私の目的は、レンゲショウマを撮影することでした。

ここには、3輪ほどレンゲショウマが咲いていました。

私はさまざまな角度からこの可愛いレンゲショウマを撮影しました。

この花はすべて下を向いていて、上からしか撮影できません。

地上から40㎝のところに咲いていますので、下からの撮影は極めて困難でした。

ここはレンゲショウマの穴場です。

殆どの人は、この存在を知らないと思います。

熱意が籠もりますと、35度の猛暑日でも、私は自宅を出て目的地に向かいます。



残念ながら、この掲示板には、1枚の写真しか添付できません。



この庭園は、大正2年~4年にかけて江口定條(後の満鉄副総裁)の別荘として整備されました。

そして、昭和4年には三菱財閥の岩崎家の別邸となりました。

昭和40年代の開発計画に対しこの庭園を守る住民運動が発端となり、昭和49年に東京都が買収し、整備後、有料庭園として開園しました。

受付で「大人の休日倶楽部」のクレジットカードを提示しますと、65歳以上の入園料70円のところ、僅か50円で入園することが出来ました。

なお、庭園の名称は、昔この地が国分寺村殿ヶ谷戸という地名であったことに由来しています。

殿ヶ谷戸庭園は平成23年9月に国指定の文化財(名勝)となりました。

この庭園は、全長25㎞にも及ぶ「国分寺崖線(外線)と呼ばれる崖の上に造られました。このような崖のことを大昔から「ハケ」と呼んでいました。

「ハケ」からは涌き水が溢れ出し、庭の豊かな自然が守られています。

岩崎家の持ち主だった頃には、畑や田圃があり、全てこの涌き水のお蔭で成長することが出来たといわれています。

なお、開園は、昭和54(1979)年4月1日です。

開園面積は、21,123.59㎡(約64,101坪)で比較的小さな庭園です。

季節に応じて、イロハモミジ、モッコク、アカマツ、モウソウチク、レンゲショウマ、ツツジ、フジなどが咲きます。

(了)



当日の行程は次の通りです。



東急田園都市線梶ヶ谷駅・溝の口駅・JR南武線武蔵溝の口駅・立川駅・国分寺駅・東京都立殿ヶ谷戸庭園・中央線国分寺駅・立川駅・南武線立川駅・武蔵溝の口駅・東急田園都市線溝の口駅・梶ヶ谷駅

(総歩数 6,115歩)
25267471 リスト作曲「ピアノ・ソナタ、伝説、悲しみのゴンドラ」について - 岡田 次昭
2024/07/23 (Tue) 08:34:28
令和6年7月22日(月)、私は、書架からリスト作曲「ピアノ・ソナタ、伝説、悲しみのゴンドラ」のCDを出してきて纏めました。



私の所有するこのCDの明細は、次の通りです。



ピアノ・ソナタ ロ短調

伝説  1. 小鳥に語るアシジの聖フランシス

2. 波を渡るパオラの聖フランシス

悲しみのゴンドラ 第1番

悲しみのゴンドラ 第2番



ピアノ アルフレット・ブレンデル



アルフレッド・ブレンデル(Alfred Brendel)さんは、 1931年1月5日、チェコにて生まれました。

6歳からピアノを学び始め、両親とともにザグレブに移った後、ソフィア・デゼリチェというピアニストから正式なレッスンを受けるようになりました。

1943年にグラーツに移り、グラーツ音楽院でルドヴィカ・フォン・カーンにピアノを、アルトゥール・ミクルに音楽理論を師事しました。

1947年に音楽教員の資格を取得するためにウィーンへ行き、ウィーン音楽院でパウル・バウムガルトナーやエドゥアルト・シュトイエルマンに短期間学んだものの、ほぼ独学でピアノのレッスンに励みました。

1948年、グラーツで初めてのリサイタルを開催しました。

翌1949年のブゾーニ国際コンクールで4位入賞し、ウィーンでのコンサート・デビューを飾りました。

また、この年の夏にルツェルンで行われていたエドヴィン・フィッシャーのマスター・クラスに参加しました。

この後も、3回マスター・クラスを受講し、多大な影響を受けました。

1960年代以降、次第に国際的な名声を得るようになりましたが、1970年にフィリップスと専属契約を結び、リリースしたレコードでその名声を決定づけました。

彼は、1960年代にベートーヴェンの全ピアノ曲を録音した初のピアニストとなりました。

ブレンデルの演奏は、華麗さや派手さはないものの、中庸を行く知的で正統的な解釈で多くの音楽ファンを惹きつけています。

レパートリーも、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンといった、ドイツ・オーストリア音楽の王道とも言うべき作曲家の作品を得意としています。

中でもベートーヴェンとシューベルトはレパートリーの核を成し、両作曲家のピアノソナタ全集を3回にわたって録音しています。

御健在であれば、彼は満93歳です。



渡邊學而さんは、次のように解説しています。



1. ピアノ・ソナタ ロ短調   演奏時間31分17秒



楽想、ピアノ技法の面ばかりでなく、楽曲の構成面でも、ロマン主義的な特色をもっとも顕著に発揮させているソナタといえる。

そのために当時はかなりの物議を醸し出した作品であることは知られている画、ソナタ形式の形を用いた単一楽章構成の中に、ソナタの各楽章の要素も採り入れた独特の様式を持ち、

とくに主要な主題が全曲にわたって用いられる、いわゆる循環形式で書かれた典型的な作品である。



2. 伝説  1. 小鳥に語るアシジの聖フランシス  演奏時間10分21秒

  2. 波を渡るパオラの聖フランシス   演奏時間 8分44秒





リストは1861年にローマに行き、宗教的な生活に身を置こうとしたが、この曲はそうした時期に作曲した宗教的な題材による作品の一つである。

作曲完成は1963年で、どちらの曲にもその少し前に作曲した同じような題材による宗教的合唱曲からの主題の引用がある。

第1曲「小鳥に語るアシジの聖フランシス」は、森の中で小鳥たちに教えを説く聖フランシスコを音画的に描いたもので、この中には宗教的合唱曲「アシジの聖フランシスコの太陽讃歌」(1860)からの主題の引用がみられる。

第2曲「波を渡るパオラの聖フランシス」は、リストの所持していたシュタインレの絵画によったもので、矢張りかなり描写的に作曲されている。

またコーダの部分には、宗教的合唱曲「パオラの聖フランシスコに寄す」(1862)年の中の主題が用いられている。



3. 悲しみのゴンドラ  第1番 演奏時間 4分19秒

悲しみのゴンドラ  第2番 演奏時間 7分10秒



1883年2月、リヒヤルト・ワーグナーがこの世を去ったが、当時71歳であったリストは、その前後の時期にワーグナーの死と関連付けられられるような作品を4曲も作曲している。

この2曲のほか、ピアノ曲「リヒヤルト・ワーグナー~ヴェネチア」と室内楽曲「リヒヤルト・ワーグナーの墓に」(ピアノ独奏用の版も作曲)である。

この2曲の「悲しみのゴンドラ」は本来第1版、第2版という呼び方が一般的になっているようである。

第1番はやや短く、8分の6拍子の舟歌のリズムで書かれている。

1916年にキンスキーから出版されて初めて知られるようになった。

これに対して第2番の方は早くから知られていたが、この原曲はヴァイオリン、またはチェロとピアノのための二重奏曲として書かれたものピアノ独奏用に編曲したものである。

こちらの方は4分の4拍子で書かれ、第1番よりかなり長い。

なお、どちらも1882年の12月に作曲されている。

(了)

25267124 尾崎士郎著「土俵の夢」について - 岡田 次昭
2024/07/22 (Mon) 08:01:50
令和6年7月15日(月)、私は、宮前図書館から吉村昭編「日本の名随筆 相撲」を借りてきました。
この書物は、1991年4月20日、株式会社作品社から第一刷が発行されました。
240ページの中に舟橋聖一、久保田万太郎、寺田寅彦、尾崎士郎、吉屋信子、斎藤茂吉など29の随筆が収められています。
今回は、その内、尾崎士郎著「土俵の夢」について纏めました。

この文章を読みますと、尾崎士郎はかなりの相撲通であったことが分かります。
それに、鈴木信太郎の絵画2枚を頂戴したとのこと。現在ではかなりの価値ある絵画であると思います。
なお、この随筆はかなりの平仮名が使用されています。
読みやすくするために、一部を漢字に変換しました。



「土俵の夢」(全文)

去年(昭和21年)の歳末、鈴木信太郎さんがひょっこりやってきて一杯飲みながら、いろいろな画を描いていってくれた。
鈴木さんがびっこをひきながら私の住む伊東の町はずれまで来るのは並大抵のことではなかったであろう。
口に出してこそ言わなかったが私の流謫(ルタク)生活を憐れみ、私を慰めるためにやってきたのである。
(注) 流謫とは、罪になって遠方へ流されることを意味します。尾崎士郎は、自分を卑下してこの言葉を使っています。
私は感興の動くに従って鈴木さんに勝手な注文をし、いろいろな画をかいてもらった。鈴木さんはこんど帝展の審査員になったそうであるが、そんなことは鈴木さんの画家としての価値にいささかも増減を加えるものではなく、私は唯、鈴木さんのような人柄の人が審査員になったということを世間通俗の人情の上で喜ばしいことだと思っている。概して鈴木さんの画は色彩に重点がおかれているようであるが、それに童話的な線の美しさがぴったりと調和して豊かな人生味が生まれてくる。
私は今まで鈴木さんのように気楽にのびのびと画をかいている人を見たことがない。
もう少し勿体をつけたらどうかと思われるようなところでも、鈴木さんは楽々とつきぬけていってしまう。
画の好きな子供が画を描かずにいられないような素直さを鈴木さんは今なお失わないで持っている。
鈴木さんは東京へ帰るいとまもなく、国技館を題材にした画を二枚私のところへ送ってきてくれた。
正月にはいって、その画が私のところへ届き、ひろげてみると、一枚は双葉山が引退のときの土俵入で、太刀持が羽黒山、露払いが照国である。
まん中にいる双葉山が右手を胸にあて、左手をぐっとのばし、右足を心持ち前にふんばっているところであるが、少し距離をおいてみると、左に伸びた手に全身の重心が保たれ、土俵全体が手の動く方向に広がってゆくような大きさが画面を支配している。去年の秋場所に得た画題であろう。
画の横に説明がついていて「双葉山引退相撲、横綱土俵入、照国、羽黒山、双葉山の三横綱の豪華な土俵入を見る。昭和21年11月19日於国技館」と書いてある横に、「相撲とり ならぶや秋の唐錦」という俳句が書き添えてある。
もう一枚は、「国技館丸天井のなつかしい思い出」という題のついている画で、天井の上には電灯が輝き、全勝力士の掲額が両側を埋めている。
その下の見物席には人の顔が葡萄の房のように連なって、背景が黒くぼかしだされているので人の輪廓がくっきりと浮かびあがり、土俵の上には行司が立ち、明るい照明の下に幕内の土俵入が始まろうとしているところである。
天井に交錯されている国旗と海軍旗の配合も懐かしく、土俵入の列が土俵に近づこうとするところで、最初から四番目に恐ろしく丈の高い猫背の男がいるのは昔の出羽ヶ獄であろう。過去の思い出を浮かべた和やかな情趣が漂っている。
この二つの画を額に入れて眺めているうちに私は久しく見たことのない土俵を思い出し、佗しく切ないばかりの感慨を覚えた。終戦以来、相撲は依然として賑わっているであろうが、しかし相撲はすでに現在のものではなくなった。興行としての相撲が今後も存立を全うするかどうかということは今日の問題ではない。このことは相撲が民族意欲の象徴として民衆の情熱を湧き立たせていたような時代的魅力を失いつくしていることを意味する。精神の伝統を今日から明日につなぎ止めてゆくということも、考えようによっては必ずしも困難なことではあるまい。また途方もない大力士が出て、天才的な名力士が出て観衆を湧き立たせるということもありそうなことである。しかし、国技館全体の雰囲気が時代の夢を反映して、楽しく盛り上がってゆくというような大きな調和が土俵の上に華やかな幻影を描きだすということは再びありそうにも思われない。私は大正の末年から昭和12年頃まで、毎場所ほとんど一日も欠かさずに相撲を見て来たが、その間にも土俵の上には幾度となく隆替変遷があらわれ、相撲は内部的な矛盾と外から来る重圧によってしばしば時代の外へはじきとばされてしまいそうな危機に当面したが、しかし、その度毎に独自の伝統的精神に立ちかえることによって困難な状態を切り抜けてきた。天竜、大ノ里を首班とする脱退事件のごときは、親方制度に対する時代的な合理感が大きな批判となって浮かび上がり、外形的には相撲の封建制が根こそぎに打ち倒されるのでないかと危ぶまれたが、しかし結局、脱退した力士団も封建制の枠を離れることができず、それがために再び旺然ともり返えしてきた封建制の波に抗すべくもなく捲き込まれてしまったのである。
理窟はともかくとして、相撲をして相撲たらしめていたところのものは飽くまでも土俵の形式であり、そのような古来の伝統を支える時代的な雰囲気が、力士の生活する環境だけを特殊なものとしてその存立を許したことが、民族の伝統につながる美しさに永遠性を賦与したのである。あらゆる近代的な要素を否定した相撲の形式が古典化することによって存立を保ったということは決して一つや二つの理由からではない。国技館という競技場の残されていたことは土俵をめぐる民衆の興味を一つの雰囲気によって統合することのできたもっとも重大な原因でもあろう。毎場所、相撲の季節に入ると、両国界隈は俄かに色めきたって、橋の袂から街筋一帯の空気には古風なざわめきが、しっとりと流れてきたものである。裏通りにある相撲部屋の賑わいはもとよりであるが、柳橋から浜町にかけての夜を彩る大川端の風景は水に映る灯のかげもなまめかしく、打ち止め櫓太鼓が鳴りわたると国技館の門から溢れ出す人の波が幾つかの層をつくって両国橋の雑踏はさんざめく三絃の音の沸くがごとき巷の露地に吸い寄せられてゆく。国技館の内部では観覧席の改造説なぞがよほど以前から頭をもたげていたが、土俵の古典美というものはこれをめぐる雰囲気の調和なしには決して保つことのできないものである。大髻(オオタブサ)に結った力士が色とりどりの化粧廻しをしめて東西の花道から繰りこんでくると、呼び出しの鳴らす拍子木が、しいんと高い丸天井にひびいて、今日を晴れの関取衆が順々に土俵にのぼってくる。
この色彩につながるところに雛壇の悠長極まる赤毛氈の観覧席があり、座敷着を着て、細い通路を行ったり来たりする芸妓の姿があった。やがて息詰まるような静寂の空気が一遍に切って落されると、四階、五階の大衆席からどっと割れかえるような歓呼のさけびが起り、四囲の壁から壁に反響する声が中空にぶつかって、交錯する外光が土俵の周囲に靄のように立ち迷うのである。この混沌たる色彩の、沁み入るばかりに絢爛たる光縞が描きだす一種幻怪な官能の世界に聳え立つものは古色蒼然たる土俵なのである。
素っ裸の肉体が示すグロテスクな美しさもこの雰囲気の背景を俟ってこそはじめて古典の完成に導かれるのである。
今日、土俵の精神的要素がどのように重んぜられたとしても、古典美を完成する生活様式――土俵につながる雰囲気は到底望むべくもないであろう。かりに何ものかの力、土俵を懐かしむ民衆の愛情によって、ある時期、これを支え得ることができたとしても、崩壊すべきものの運命には自からにして限界がある。今日の国技館はすでに昨日の国技館ではない。相撲はやがて没落し、分裂し、その精神と原始的な形式だけが民衆の生活の中に陥没して、そこから再び新しい形式を築きあげてくるであろう。私が相撲への関心を失ったのは、太平洋戦争勃発とともにフィリピンに向かう宣伝部隊員として徴用を受け、一年を戦場にすごして帰ってから胃潰瘍のために起臥の自由をうしない、その後数年間、土俵を見る機会もなく過ごしているうちに時間的な脈絡を断たれたことに起因する。時間的な脈絡というのは、土俵の過去、現在、未来をつなぐ土俵の動きに対する微妙な認識である。土俵は一つの生命体であって、これほど過去につづく現在、現在から発展する未来が今日を決定する土俵の上に形を残しているものはない。従って、今日の視野に映ずる土俵の現実だけをきりはなして相撲の動きを把握することは絶対に不可能なことと言わねばならぬ。今日、唯一の相撲通であるとも言われる彦山光三君なぞが終始一貫して生活の情熱を土俵に託していることのできるのは、もちろん、彼の批評眼の天稟にして卓越することと並んで相撲に対する愛情の深さによることはもちろんであるが、しかし、それにも増して重要なことは、一日たりとも土俵の微妙なる動きを見逃がすことなく土俵の永遠につながる今日を生活しているということではあるまいか。
ある時期、私も相撲批評家として自他ともに許したこともあり、都新聞(今日の東京新聞)に相撲観戦記を数年間つづけて書いたりしたこともあって、一応は私の流儀によって土俵心理を生活理論に結びつけたりしたものであるが、今や時間的な脈絡を失うことによって相撲へのつながりは次第に稀薄なものになろうとしている。それだけに情熱を相撲に傾けてすごした十数年間の生活を私はひとしお懐かしく思い描くのである。先日、個人的に親しかった笠置山の断髪式があり、病床にいた私はその式場にも臨むことができなかった。それにしても私がまだ盛んに相撲批評を書いていた頃はようやく入幕したばかりの青年力士であった笠置山が力士としての異例的に長い相撲生活から離れようとしているのを見て流れ去る時の流れを今更のごとく感じないではいられなかった。土俵に親しんだ十数年間に私がもっとも精魂を打ち込んでその将来を注目していたのは大関として引退した清水川(年寄名、追手風)であるが、私は彼が青年時代に協会から破門をうけて、痛ましき放浪生活を体験し、ふたたび十両に返り咲いた時から土俵にのぼる彼を見るごとに胸が高鳴り心のひきしまるのを覚えた。「大関清水川」という随筆作品は土俵を題材として私の書いた文章の中でおそらく唯一のものであろう。その後、個人的に好きにもなれば親しくもなった力士は相当の数にのぼっているが、清水川だけは今日にいたるまで一度も会ったことがない。彼の土俵の美しさは現実にふれることによってけがしたくなかったからである。清水川が引退したとき少なくとも土俵に対する私の興味と魅力は半減した。私はもはや「観戦記」の筆をとる勇気がなかった。私はむしろ受身の態度で毎日の土俵を眺めていたと言い得るであろう。新しい時代は次現れてきたが、清水川のいない土俵は私にとってはあまりにも佗しく空虚であった。今鈴木さんの送ってくれた国技館丸天井の画を見つめていると、はなやかな土俵の幻が切れ切れに浮かんでくる。
(昭和22年1月26日)

(ご参考)

「鈴木信太郎」の略歴

彼は、明治28(1895)8月16日、鈴木金蔵、テルの次男として誕生しました。
明治39(1906)年、白馬会洋画研究所に入り黒田清輝に師事。
大正2(1913)年、東京府立織染学校(現東京都立八王子工業高等学校)に入学し、 織物図案を2年間学びました。
大正13(1924)年、第11回二科展に入選しました。
昭和30(1955)年、二科会を退会し、高岡徳太郎らと一陽会を結成しました。
昭和35(1960)年、日本芸術院賞を受賞しました。
昭和44(1969)年、日本芸術院会員となり、勲三等瑞宝章を受章しました。
昭和63(1988)年、文化功労者になりました。
平成元(1989)年5月13日、日本赤十字社医療センターにおいて老衰により亡くなりました。
享年95歳でした。

25266840 大野雅弘編「幕末維新を歩く 会津鶴ヶ城の籠城戦」について - 岡田 次昭
2024/07/21 (Sun) 08:25:59
令和6年7月19日(金)、私は、書架から大野雅弘編「幕末維新を歩く」を出してきて、纏めました。

この書物は、2004年6月15日、 JTBから第一刷が発行されました。

159頁の中に幕末の出来事が詳細に収められています。

この中に、幕末の事件と登場人物のほとんどを知る事が出来、まことに有益です。

今回は、そのうち、「会津鶴ヶ城の籠城戦」について纏めました。

会津藩の人物で最も印象に残るのは、中野竹子です。

その壮烈な死を思うと涙を禁じ得ません。



                      記



「前置」関東から奥州へ、官軍は進撃の手をゆるめない。

朝敵の汚名を着せられながらも、奥州、北陸の列藩とともに空くまで戦い続ける会津藩だが、次第に戦いの収束は近づいていた。



「本文」



上野彰義隊を掃討したことで、官軍は関東全域の平定を成し遂げた。

残るは奥州、中でも最大の敵は松平容保率いる会津であった。

大総督府は仙台藩(藩主・伊達慶邦)に会津藩追討令を、秋田藩(藩主・佐竹義堯)に庄内藩(藩主・酒井忠篤)追討令を発する。

会津・庄内両藩は徹底抗戦する意志を固め、慶応4年(1868)4月10日、軍事同盟を結んだ。

一方、会津追討令を受けた仙台藩は、区月の閏4月11日、米沢藩(藩主・上杉斉憲)らとともに14藩連著になる会津藩士処分軽減の嘆願書に調印、奥羽鎮撫総督に提出する。

しかし、参謀の長州藩士・世良修蔵がはねつけたため、世良を暗殺。

会津藩に同情的な奥羽諸藩の自由心が白石城に集まって協議し、5月3日、会津・庄内を除く25藩による奥羽列藩同盟が成立した。

北越では、長岡藩家老の河井継之助が「万国公法」に則った局外中立の立場を官軍軍監の土佐藩士・岩村精一郎に主張、長岡藩を避けて進撃するよう要求した。

紳士、岩村は万国公法に通じておらず、この要求を一蹴。 そのため長岡藩は中立の立場を捨て、他の北越5藩とともに列藩同盟に参加、同盟は奥羽越列藩同盟へと拡大する。

5月9日、官軍との戦闘を開始した長岡藩は、小藩ながらガトリング機関銃など優秀な銃砲を備えており、官軍を相手に善戦するが、7月29日、長岡は制圧され、河井は会津へ転戦する途中戦死した。

新政府との和平を主張して藩内で河井と対立した小林虎三郎は、佐久間象山塾で河井と同門であったが、敗戦後、藩の行く末を誤らせたとして河井を激しく批判し、子弟の教育を通して長岡藩の再建に尽力する。

同じ29日、二本松藩霞ケ城が落ちたことで官軍は2面からの会津攻撃が可能となった。

8月20日、官軍は会津総攻撃を開始し、二本松藩と会津藩の境にある母成峠に本軍が進出、21日早朝、戦闘が始まった。

官軍は薩摩藩の伊地知正治、土佐藩の板垣退助(甲州勝沼の戦いで、乾から改姓)両参謀以下3,000名、迎え討つ会津軍は、大鳥啓介、土方歳三以下800名。兵力の差は如何ともしがたく、支えかねた会津軍は敗走に移った。

23日、官軍は一気に会津盆地に侵入して城下を焼き払い、会津軍は全軍が若松城(鶴ヶ城)に入城し、籠城戦に入る。

この籠城に先立ち、多くの藩士家族は、戦いの足手まといにならぬよう先んじて自刃した。

会津藩の軍事奉行として戊辰戦争を指揮した家老・西郷頼母の家でも、女子どもを含めた21人の親族が、屋敷内で一夜にして自刃している。

総動員体制で戦いに臨んだ会津藩では、16、17歳の少年たちも白虎隊として戦力の一翼を担った。

23日、炎に包まれた若松城下を飯盛山からみて城の陥落と誤認した彼らは、その場で20名が自刃した(のち、飯沼貞吉が蘇生し、死亡者は19名) 。

籠城1ヶ月。

9月8日に改元されて明治元年(1868)9月22日、遂に会津は降伏した。

8月28日には米沢藩が降伏しており、会津藩に続いて庄内藩も9月26日に降伏。

こうして、奥羽での戦争は終結したのであった。

(了)



(ご参考)



「中野竹子」について



中野竹子は江戸常詰勘定役の中野庄内と足利藩士の娘・こう子の長女として江戸上屋敷で誕生しました。

竹子は、5歳で百人一首を諳んじ、7歳の頃から会津藩士・赤岡大輔のもとで剣術を学びました。

薙刀につきましても、国許で近隣の者に師範するほどの技倆を有していました。

記録によりますと、竹子は妹の優子とともに容姿端麗な女性であったと伝えられております。

20歳頃の竹子を知る会津人の二瓶吉民は、「容顔佳麗、其の儔(トモガラ)を罕(マレ)にし、文武二道を学び、和歌を能くし」と伝えております。

つまり、竹子は文武を修得し、和歌に優れた比類ないほどの美貌を持った女性だったのです。

慶応4(1868)年の春、竹子は江戸から会津に戻りました。

そして、慶応4(1868)年8月23日、母のこう子と妹の優子とともに鶴ケ城に向かいましたが、既に城門は閉ざされておりました。

その後、懇意にしていた依田菊子ら3人の女性たちと合流した竹子は、会津婦女薙刀隊を結成しました。

しかしながら、城下の柳橋において、長州藩・大垣藩との戦闘中に竹子は胸に銃弾を受け、重傷の身となりました。

その時の竹子は、紫縮緬の着物に濃淺黃の袴姿でした。8月25日、妹の優子は「姉の首を敵に渡すわけにはいかない」と、竹子を介錯して、その首を持って落ち延びました。

冒頭で述べたとおり、竹子が倒れた際に、その手に握られていた薙刀に結ばれていたのが辞世の句でした。

福島県会津若松市の中心部から少し離れた神指町(コウザシマチ)を流れる湯川のほとりに、薙刀を手に持った一人の女性の白い石像がひっそりと建っています。

かって、この湯川にかかる柳橋の付近は、戊辰戦争で激しい戦いが行なわれた場所でした。

会津城下で激戦が行われる中、猛々しい武士達に交じり、女性たちの集団が薙刀を手に持ち、激しい戦いを繰り広げました。

それが、竹子を中心に結成された「会津婦女薙刀隊」、通称「娘子隊」と言われる一隊でした。



中野竹子の辞世の句



もののふの 猛き心に くらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも



中野竹子の薙刀姿