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松山高女および松山南高校同窓会関東支部の専用掲示板「末広帖」です。関係者以外の投稿はご遠慮ください。

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25233321 藤井康男著「右脳天才モーツアルト なぜ、日本人に心地よいか」について - 岡田 次昭
2024/04/19 (Fri) 08:56:12
令和6年4月17日(水)、私は書架から藤井康男著「右脳天才モーツアルト なぜ、日本人に心地よいか」を出してきました。
この書物は、1991年4月12日、同文書院から第一刷が発行されました。241頁の中に、モーツアルトの曲が沢山紹介されています。
今回は、その内、末尾の「モーツアルトのメニュー」について纏めました。

藤井康男さんは、昭和5(1930)年8月14日、東京都千代田区東神田にて生まれました。
彼は、昭和29年に千葉大学薬学部を卒業し、大阪大学大学院理学研究科生物化学専攻を終了しています。
昭和30年に龍角散に入社しました。昭和32年に子会社のヤトロンと血清トランスアミナーゼ測定試薬(GOT・GPT)を自ら開発しました。昭和38年、三十代の若さで、龍角散の7代目社長に就任しました。昭和42年~52年まで北里大学助教授を務めました。
彼は、クラシック音楽にも精通し、自らピアノ、フルートを演奏しました。龍角散室内管弦楽団の定期演奏会ではソリストを務めました。文筆家としても知られ、著書に「病気と仲よくする法」「創造型人間は音楽脳で考える」「右脳人間」「文科的理科の時代」「仕事と遊びは掛け算でいけ」「カラヤンの帝王学」「ビジネスマンの父より愛をこめて」などがあります。
平成8(1996)年11月10日、彼は亡くなりました。
死因は不詳です。享年67歳でした。

主な著書は、次の通りです。

『右脳型情報人間が「歴史」を変える』ダイヤモンド社 1990年
『多能人間のすすめ 90年代型自己実現の知恵』史輝出版 1990年
『カラヤンの帝王学 頂点を極めた男の愛と野望』経済界 1991年
『雑学社長のおもしろ読本 役に立たない話』同文書院(快楽脳叢書) 1991年
『ビジネスマンの父より愛をこめて 竜角散社長藤井康男が贈る12章』光人社 1991年
『右脳天才モーツァルト なぜ、日本人に心地よいか』同文書院(快楽脳叢書)1991年
『意表をつく話 びっくり、どっきり、キテレツ談議』サンマーク出版 1992年
『イメージ優先の社長学』情報センター出版局 1992年
『藤井康男の平成おやじ講座』講談社 1992年
『本物志向のすすめ 個性化経営の社風と社格』日本規格協会 1992年
『できる人間はよく遊ぶ いい仕事を生み出す"ムダ"の効用』大和出版 1993年
『21世紀の曖昧論』佼成出版社 1996年

私は、モーツアルトのクラリネットに関するCDを4枚持っています。
末尾に明細を記載しておきます。
悲哀に満ちた『クラリネット協奏曲 イ長調 K622』は、モーツアルト晩年の名曲です。優劣を付けがたいところ、藤井康男さん同様、モーツアルトの626曲中、私はこの曲が一番好きです。
次に、好きな曲は、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク(Eine kleine Nachtmusik) k525』です。 (Eine kleine Nachtmusik)を直訳しますと、一つの小さな夜の音楽となります。
この曲が日本に入ってきたときに、これを「小夜曲」と訳した人は、正に天才です。
今では、この曲はドイツ語の『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』で親しまれています。



「モーツアルトのメニュー」 (全文)

全作品の中から一曲だけ選ぶとしたら何を持ってくるか。これは大変むずかしいが、敢えて決めれば、『クラリネット協奏曲 イ長調 K622』ということになろう。
死の年の10月のクラリネット奏者・シュタードラーのために作曲したものである。このあとモーツアルトはフリーメイスン小カンタータ『われらが喜びを高らかに告げよ K626』と有名な未完の大作『レクイエム K626』しか残していないから、器楽曲、協奏曲の最後の作品ということになる。この曲は疑いもなくこの世にクラリネットのための最高の作品である。『クラリネット五重奏曲 イ長調 K581』も永遠の名曲で、こちらの方を推す人も少なくない。
しかし作品番号が示すようにクラリネット協奏曲は実質的にモーツアルトの遺作と言える。
そして形式内容ともに頂点に達した最高傑作である。
そして、もう一つの理由は、クラリネットはモーツアルトの時代に楽器として完成されモーツアルトの作品の中で重要なところに登場する。
前述の二曲のほか『管楽器のためのシンフォニア・コンチェルタンテ K297b』、
偽作という説もあるが、名曲である。
九柱戯をやりながら作曲したという『ケーゲルシュタット・トリオ 変ホ長調 K498』、
『39番シンフォニー 変ホ長調 K543』の「メヌエット」、その他オペラの中で美しい調べを随所でうたい上げる。
当然、彼の初期中期の作品にはクラリネットはまだ登場しない。
クラリネットは晩年の頃に改良され今日のような音色になった。
モーツアルトは特にA調のクラリネットを偏愛といえるほどに好んだ。
シュタードラーという名手との出会いによってこの傾向は更に強まった。
クラリネットというと昔はチンドン屋を連想したが、この楽器は名手が奏でると天来の妙音を出す。
一説によるとクラリネットは楽器の中で一番人の声に近い音を出すという。
ウィーンフィルでは木管楽器にはできるだけクラリネットに近い音色が要求されるという。
次にベスト・スリーのメニュー選んでみよう。
まず、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク K525』。モーツアルトは一生の間に実用音楽つまり貴族の館で食事や舞踏会のために多くの短い娯楽的な音楽を残した。
それはほとんど注文によるものだが、とてもいやいや書いたとは思えない美しい曲がたくさんある。
中でも『ドイツ舞曲 k605』、『ハフナーセレナード ニ長調 K250』、『ポストホルン・セレナード ニ長調 K320』は有名である。「アイネ・クライネ」と愛称されるこの弦楽セレナードは晩年の作曲で、父レオポルトの死後、誰の注文でもないのに書かれている。
余りにも有名でモーツアルトといえばすぐこの曲が出てくる。
いささかうんざりだが、その大衆性にもかかわらず、改めて聴くとモーツアルトの神髄ともいうべきあの天上の音楽の調べがいたるところに出てくる。
私は中学生の時、ウィーンフィル、ブルーノ・ワルターによるSPの名盤でこの曲を聴き、全身がしびれる感動に酔ったことがある。
これだけ有名な曲に何のエピソードもないし、晩年に突然この種の実用音楽がでてくるのも不思議である。
もしかすると、この曲はモーツアルトに最大の影響を与えた偉大な父親の想い出に捧げたのかもしれない。曲想も何となくレオポルド的と言えなくもない。
これは古今の名曲中の名曲であろう。
第二番目は歌劇『フィガロノ結婚 K492』より第一幕、アリア「もえ飛ぶまいぞ」。
突然歌曲が飛び出した。モーツアルトの歌劇はどれをとっても素晴らしい。特に『魔笛 K620』『ドン・ジョバンニ K527』『コシファントッテ』『フィガロ』は美しい歌と音楽の宝石戦箱である。その中からあえて一つを選ぶのは無茶であるが、オペラ全曲は選べないので心を鬼にして一つを選んだ。このアリアは正にモーツアルトそのものである。モーツアルトもこのメロディを別の小品に仕上げている。歌曲、アリアとしても名曲だが、人の声を巧みに楽器として用い、大成功している典型なのである。
第三番目は、『ピアノ・ソナタ 変ロ長調 K570』である。
若い頃、SPレコードを聴き漁っていた頃、ワルター・ギーゼキングの吹き込んだこの曲に出合った。どういうわけかその頃レコードでは、モーツアルトの独奏曲はほとんど聴けなかった。ギーゼキングのハ短調の『幻想曲とソナタ』、フィッシャーのイ長調『トルコ行進曲ソナタ』くらいであった。モーツアルトのピアノ・ソナタは子供のレッスン用によく使われるが、プロの演奏家がリサイタルでとり上げることが少なかった。
音を出すのは簡単だが、音楽的にちゃんと弾くことは逆に大変難しい。ギーゼキングはのちにLPで62曲全ての全集を出すが(世界最初)、これこそ不滅の録音であろう。それ以後リリークラウス、ヘブラー、バレンボイム、ブレンデル、バックハウスなどが盛んにモーツアルトのソナタを弾くようになった。モーツアルトのピアノ・ソナタを世に出したのはギーゼキングではないかと考えている。そのギーゼキングがどういうわけか当時余り有名でなかったこの曲を最初に選んだのである。『ピアノ・ソナタ 変ロ長調 K570』はたまたまバイオリンのパートも書かれており、バイオリン・ソナタとしても演奏される。
しかも第三楽章は未完で他人の手が入っているという研究もある。
モーツアルト弾きといわれたギーゼキングは18曲の中からこの曲を第一番に吹き込んだのだろう。理由は今となっては分からない。しかし、最近ではこの曲はよく取り上げられる。弾いてみると非常にピアニスティックなのである。レガート、スターカット、フォルテ、ピアニシモを自在に駆使すると正に現代のピアノの響きをすべて引き出してくれる。私も好んでというより一番この曲をよく弾く。何か日本的なわび、さびのようなものさえ感じられる時がある。モーツアルトのピアノ協奏曲ではこの曲と『ピアノ・ファンタジー ニ短調 K397』をためらうことなく日本人の好きなもとしてあげることにする。
さて、次にこれらベスト・スリーに続く、ベスト・ファイブを選んでみよう。

① 『フルート協奏曲第二番 ニ長調 K314』
② 『弦楽五重奏曲 ハ長調 K515』
③  モテット『踊れ・ヨロコベ・汝幸いなる魂よ K165』
④ 『二台のピアノ・ソナタ K448』
⑤ 『シンフォニー 第39番 変ホ長調 K543』

これらについては細かく触れない。3曲のソプラノのための美しい曲は、はじめから終わりまで祈りの言葉アレルヤだけを唱える小品で、映画『オーケストラの少女』の中でデアナ・ダービンが歌い空前のヒットをした曲である。
更にベスト・テンといきたいとろだが、実はモーツアルトという作曲家はこういうことが大変やりにくいところに特色がある。
どれをとっても美しい。
ここではできるだけ俗ウケしていないものの中からえらんだつもりだが、それでも何曲かポピュラーなものが入ってしまう。ポピュラリティーと芸術性が全くいっしょになってしまったのが名作「魔笛」て、それは、実はモーツアルトの本質でもあるのだ。

(ご参考)

「私の所有しているクラリネットに関するCD」

1. モーツアルトのクラリネット五重奏曲 イ長調 K581
ブラームスのクラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115
クラリネット アルフレート・プリンツ
楽団     ウィーン室内合奏団

2. クラリネット五重奏曲 イ長調 K581
クラリネット協奏曲  イ長調 K622

クラリネット ホセ・オストランク
  指揮     アルベルト・リッツィオ
  楽団 モーツアルト・フェスティヴァル管弦楽団

3. クラリネット協奏曲  イ長調 K622
クラリネット五重奏曲 イ長調 K581

クラリネット エルンスト・オッテンザマー(Ernst Ottensamer)
  楽団     Wiener Virtuosen

4. フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 k299
クラリネット五重奏曲 イ長調 K581

 フルート   スーザン・パルマ
ハープ    ナンシー・アレン
楽団     オルフェウス室内管弦楽団

25233203 「三越本店の6階で開催されている瀬戸毅己曜変天目展」について - 岡田 次昭
2024/04/18 (Thu) 20:42:26
令和6年4月17日(水)東京メトロ東西線竹橋駅近くにあるKKRホテル12階「竹橋」にて銀行の同期会が開催されました。
これの配信は、銀行同期生に限定しました。
午後1時30分、同期会の解散後、同期生のSさんと大阪から参加したAさんと私の3人で三越本店の6階画廊の「瀬戸毅己曜変天目展」を訪れました。
受付で訊ねたところ、撮影可能はここのみで、他は全て撮影禁止でした。
年金生活者の私には高嶺の花でした。

作者の瀬戸毅己さんは、世界に3碗しか存在しない国宝、曜変天目の再現に成功した陶芸家です。
彼は、茶碗の再現に留まらず、曜変盃でも曜変天目の再現に成功した非常に素晴らしい技術を有しています。

簡単な略歴は、次の通りです。

1958年 神奈川県小田原市にて生まれました
1981年 東京造形大学彫刻科卒
1982年 愛知県立窯業訓練校修業
1996年 初個展開催、以後、各地で個展開催
2004年 曜変天目が朝日新聞に掲載されました。

曜変天目は、天目茶碗のうち、最上級とされるものです。
曜変天目と略称されています。
これは、焼き上げる過程で黒釉が変化して斑紋が生じているのが特色です。
南宋時代に作られたと推定されています。
漆黒の器で内側には星のようにもみえる大小の斑文が散らばり、斑文の周囲は暈状の青色や青紫色で、角度によって玉虫色に光彩が輝き移動します。
「器の中に宇宙が見える」とも評されます。
曜変天目は、現在の中国福建省南平市建陽区にあった建窯で作られました。
現存するものは世界でわずか3点しかなく、その全てが日本にあり、3点が国宝、1点が重要文化財に指定されています。

その4ヶ所は、次の通りです。

聖嘉堂文庫(国宝 東京都世田谷区岡本2丁目)
藤田美術館(国宝 大阪府大阪市10-32)
龍光院  (国宝 京都府京都市北区紫野大徳寺町14)
MIHO MUSEUM (重要文化財 滋賀県甲賀市信楽町田代桃谷300)

写真は、1枚のみ添付します。
(了)
25232943 曽野綾子著「人生の終わり方も自分流」について - 岡田 次昭
2024/04/18 (Thu) 08:46:32
令和6年4月14日(日) 、私は、宮前図書館から曽野綾子著「人生の終わり方も自分流」を借りてきました。
この書物は、2019年8月20日、株式会社河出書房新社から第一刷が発行されました。251頁の中に沢山の随筆が収められています。
今回は、そのうち、「ルールなしの人生――人生は旅に過ぎない。旅は必ずいつか終わる――」について纏めました。
曽野綾子さんは、昭和6(1931)年9月17日生まれです。
今年の9月17日に満93歳になります。
いつまでもお元気で活躍されんことを私は祈念します。

曽野綾子さんは、「旅は必ずいつか終わるのである。」と書いています。
つまり、死のみが人々に平等に与えられています。
いつかは黄泉の世界に旅立つことは疑いの余地はありません。
だからこそ、この世は仮初めとしても、一日一日を大切に生きて、人生を楽しまなければなりません。

私は、メメント・モリ( memento mori ラテン語)と言う言葉が好きです。「自分がいつか必ず死ぬことを忘るな」「死を忘ることなかれ」という意味の警句です。
古代ローマでは「将軍が凱旋式のパレードを行なった際に使われた」と伝えられています。
将軍の後ろに立つ使用人は「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」ということを思い起こさせる役目を担当していました。
そこで、使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていたのです。



「ルールなしの人生――人生は旅に過ぎない。旅は必ずいつか終わる――」(全文)

かつては人並みな若者で、それから長くしぶとい中年を生き、今後期高齢者になった世代の人々は混沌を生きることに馴れていて、少しも変だとはいないのではないか、と思う。
なぜなら彼らの生涯は、まさに混沌そのものだったのだから、誰もがそれを生きぬくノウハウを知っているのである。
戦後やや復興のきざしが見えかけた頃、一人の若者が私の家へ来て言った。
「全く、秀才なんて、どうしようもありませんね。もし日本が東京大学法学部だけの社会になったら、議会と裁判所ばかり作って国民は飢え死にしますよ。もし慶応大学の卒業生ばかりになったら、キャバレーと喫茶店だけやたらに作って、これもあまりうまくないでしょう。しかし、我が日本大学の卒業生だけだったら、頭が柔軟だから、盛大にあちこちに闇市つくって復興に役立つんですよ」
この発言には、いささか時代的解説が要るだろう。こう言った人は、学校秀才ではなかったのだろうが、本当に彼自身がしなやかな意識の持ち主だった。
つまり人間が生きるということには、素朴な方から考えていって、何がどういう順序で必要かをきちんと知っていたのである。
戦後やぼな田舎学生が多かった中で、慶応には洒落た都会的な学生がたくさんいると思われていた。
長く暗かった戦争後のキャバレーと喫茶店の心理的重要性は、今の非ではない。
心理的に締めつけられていた戦争がやっと終わって、キャバレーと喫茶店に象徴される華やかな世界は現在でも中小企業まで入れると一番沢山の社長を輩出している大学だと思う。
混沌とした時代には、――それが不景気で荒れ、世界中に局地戦がやたらに起きて、経済の変動が激しい年月であれ―― もはや長年通用していたルールが一切通じなくなる今、何をすべきか自分で考えるほかはないという時代は、戦後がそうだったが、何時でもあり得るのだ。ただ60年以上も、日本人はそういう不運を体験しなかった。だからいつでも、一応の規則に従って生きていれば非難されることはなかった。余計なことをしでかして怒られるより、今まで通りのことをしていればよかったのだ。
電気と水が滞りなく供給されている限り、すべてのものに「規則通り」が存在し、それが通用したのだ。しかしそういう生活がいつまでも続くという保証はない。死がだれにでも訪れるように、突然の運命の変化は必ずくる。それも誰に責任をとらせようともしない、天災という形でやって来ることを関西の大震災でも東日本大震災とその直後の津波の被害でも、私たちは痛烈に教えられたのだが、それに備える方法は、全く教えられていなかった。
混沌の時代を生きるために、私は幼いときから実にいい学校にいたのである。
私は幼稚園から大学まで、カトリックの学校で育ったのだが、そこでは常日頃、政治、社会、会社、親など、今仮初めに与えられているものの形態は、いつ取り上げられても仕方がないものだ、というふうに教えられたのである。
通俗的な世界にも、「いつまでもあると思うな親と金」という言葉があるのだそうだ。しかしそんな物質的名事だけではない。自分の健康も、もちろん年金も貯金も、愛も、親子の信頼も、必ずしも続くとは思わないで暮らす心構えの必要を教えられたのである。
初代キリスト教会を作るのに功績のあった聖パウロは「コリント人への第一の手紙(7.29)」以下で次のように言っている。
「定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、関わりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」
これほど明確に簡潔に具体的に、現世の虚しさを言い表している文章はない。
私が習ったシスターたちは、何時も、
「この世のことは全て仮の姿です」と言っていた。いま、権勢を得ている人も、明日はどうなるかもわからない。たとえ生き続けていても、現在の自分の意識が明日にはなくなるかもしれないという危惧は、私の年になるとひしひしと強くなってくる。
「人生は単なる旅に過ぎません」
という言葉も幼い時から、度々耳にした。旅は必ずいつか終わるのである。こんな素晴らしい教育は、いい意味でませた子供を作った。「皆がいい子」とか、誰にも「公平と平等」が与えられるなどということ信じさせるのは、どちらも幼稚なことだ。なぜなら「皆がいい子」でないことは明瞭で、「公平と平等」に対する幻想は、自身と津波が来ただけで簡単に崩れ去る現実を知らされるからである。
もちろんだからこそ、私たちは公平や平等を永遠の悲願とする。しかし誰にも公平に与えられているのは、この混沌とした空しい人生なのだ、と腰を据えて認識する時、かえって私たちは落ち着いて、現世を楽しむことができるように思う。
(了)
25232584 古川薫著「幕末長州の女たち」について - 岡田 次昭
2024/04/17 (Wed) 08:05:13
令和6年4月14日(日)、私は、宮前図書館から古川薫著「維新の長州」を借りてきました。
この書物は、昭和63((1988)年2月20日、株式会社創元社から第一刷が発行されました。253頁の中に、31の明治維新前後の歴史が書かれています。
今回は、「幕末長州の女たち」について纏めました。

古川薫さんは、大正14(1925)年6月5日、山口県下関市にて生まれました。
彼は、1952年に山口大学教育学部を卒業しています。
そして、教員を経て山口新聞(みなと山口合同新聞社)に入社しました。
編集局長を経て、1965年から作家活動を始めました。
直木賞に10回も候補になりました。1990年藤原義江の伝記小説『漂泊者のアリア』で第104回直木賞を受賞しました。
受賞年齢65歳は最高齢で佐藤得二の記録を破り、25年越しでの受賞でした。

古川薫さんは、日野富子を悪女と書いていますが、令和元年9月18日(水)午後10時30分、NHK歴史秘話ヒストリアについて「私はなぜ悪女になったのか。 最新研究 日野富子」に放映された日野富子はそうではないとしています。
最期のところで、常念寺自性院の住職・掛島行範さんは、「日野富子に対し、悪女というイメージを持たれている方も多いでしょうけれども、一生懸命に幕府の財政を守ってきた人です。ご主人・子どものために頑張ってきました。日野富子は母性の強い方ではないかと感じました。しっかりした女性で、頑張ったんですよということをこれから広めていきたいなと考えています。」と語っています。
それに古川薫さんは、最後のところで、「少なくとも幕末長州の女たちは、日本のどの地域の女よりもしたたかに歴史に拘わったからである。」と書いています。
同感です。



「幕末長州の女たち」(全文)

歴史に女が登場する時は、ロクなことがないなどといえば、女性の怒りを買いそうだが、昔から中国ではこのことを「女禍(ジョカ)」と称した。
唐の玄宗皇帝を迷わせた楊貴妃の物語をはじめ、権力欲のため我が子を殺した則天武后(ソクテンブコウ)、専制政治で国を誤らせた清の西太后、近くは例の四人組追放でヤリ玉にあがっている江青女史なども今の中国では女禍ということになるのかもしれない。
日本史にも「女禍(ジョカ)」が見られる。
その最たるものは日野富子だ。
自分の産んだ子を将軍にしたいばかりに策謀をめぐらして、ついに細川と山名の抗争を引き起こし、十年間の戦火で京都を廃墟にしてしまった。
いわゆる応仁の乱の元凶である。
その後は「淀君」といった女性も登場する。
女禍といえるほどの災厄をもたらしたわけではないが、この人の名を代名詞として使う場合は、権力をカサにきた女の怖しさをあらわしている。
しかし、それもこれも男たちの立場で勝手なことをいっているのに過ぎず、このごろのような女権拡大の時代には通用しない見方と反発されそうだ。
もう少なくとも過去はそうであったという点だから、もうちょっと続けなければならないが、江戸時代になると幕府の権力組織も安定、固定して、政治の中に女性の力が大きく作用することはなかった。
徳川幕府の成立から、幕末、明治維新を通じて、女性は一応歴史の表面から、まったくといってよいほど姿を消してしまうのである。
歴史の主役は男性であって、「則天武后」も「淀君」もそこにはない。
父・母・夫・姑によく仕え、家政を治めるのが女の本分であると教える「女大学」が女子一般の修身書として知られ、しかも現実の強制力を持った時代である。
社会の第一線に立つ機会が、女性に与えられなかったのは不思議なことではない。
だが、歴史というものが、ひとにぎりの人たちによってのみ動かされると信じられていたとすれば、それは大きな誤解である。
歴史が、その時代に生きる人間の意志の総体であるということなら、「表面」に現れない人々も、確実に歴史の展開に参加しているのだと思わなければならない。
つまり「一応歴史の表面からまったくといってよいほど姿を消して」しまったとしても、女性が歴史の創造に参加しなかったわけではないのである。当然といえば当然だが、幕末の長州藩で、それがどのように実行されたかを考えてみるのも無意味なことではないダウ。
幕末は、歴史が激しく屈折するときで、この激動の時代を先駆した長州には、多彩な人物が登場した。
吉田松蔭、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋、多彩な人物とはそのような人々を指すのだろうが、彼らの栄光を影で支えている者たちの存在を、長州藩においては特に忘れてはならない。
たとえば、奇兵隊を初めとする諸隊に結集された農民のエネルギーなくして、倒幕の達成はあり得なかった事情を、あらためてここで説明する必要もないだろう。
そして、維新史への長州藩民の貢献を、諸隊にだけ限るわけにはいかないのである。
それは次のような理由だ。
諸隊の入隊資格があった。
だれでも無制限に入れたのではない。
その条件の一つは、長男でないこと、つまりは農事の責任を持つ者を避け、専ら二男、三男を集めた。
新しい軍事組織を形成すると同時に、農村での成算も重視したからである。
戦時体制下における生産の重要性は、この間、長州藩に限ったことではないが、戊辰戦争の時点で長州では約五千人の民兵が倒幕戦に参加した。
労働力が薄くなった農村では、それを補うものとして当然のように女性の負担が大きくなったはずである。
幕末長州の農村婦人たちにのしかかった労苦の実態は、しかし記録として表面に出てこない。
これは民衆史の側から今後の課題として取りあげられてもよいものであろう。
ところが長州の女の健気さは、萩の女台場にかかわる伝説めいた話にすり替えられている。
文久3(1863)年6月、萩の武士団は攘夷戦のため下関に出動した。
そこで菊ケ浜の土塁構築には、留守をまもる武士の妻が従事したというのである。
る。
「男ならお槍かついで‥‥」の民謡は、そうした武士階級に属する婦人の行為を賛美するもので、それはそれで結構なことであり、意義を差し挟むのではないが、一麺の虚構性を帯びていることを指摘しておかなければならない。
菊ケ浜の台場工事に駆り出されたのは、武家の妻女たちばかりではなく、近在所村の農町民の労働力提供が、むしろその主たるものであった。
それでなければ、記録にある一万三千七百人、一万七千五百人、といった連日の稼働人員数の説明がつかない。
出家・山伏・老婆にいたるまでというから、当然働き盛りの農村婦人が活躍したのは想像に難くない。
このときは献納も行われ、武家や諸寺院からの金品提供があったが、農村も積極的だった。奥阿武郡宰判の諸村殻は銀二十貫五十匁、山代宰判諸村から銀十一貫三百目が差し出された。
ちなみにこの当時、銀一貫で米およそ百石が買えた。
また先大津川尻の「百姓・浅次郎妹きく」は作業に出られないからといって縄一束を出した。
先大津渋木村の「為蔵祖母しん」が、鏡一面を供出したのも印象的に女性の協力だった。
長州藩で暮らす人々の気質を山陰側と山陽側に分けて考えるというのは、いくぶん図式的だが、興味ある観測だ。
したがって女性のタイプも大人しくしてしっかり者の山陰側と、快活で働き者の瀬戸内型に見立てるのである。
そして、山陰と山陽の海が関門海峡で合流する下関あたりでは、その二つのタイプが混じり合う女性が住むということになるのだが、ここでは主として華街が舞台となる。
高杉晋作や伊藤俊輔(博文)と馬関の女とのロマンスはよく知られている。
生命を危険にさらして活躍する志士に愛情を捧げるのも幕末に生きる女性にとって、歴史参加のひとつの形だったかもしれない。
瀬戸内方面の女性は第一に生産の担い手であった。
ここは長州藩が最も頼りにした生産地で、内海航路とも直結した農民的商品経済が早くから発達した地域である。
時代に目覚めた農民の多くが住むところだった。
奇兵隊の人員構成を分析すると、瀬戸内海出身の農民が多い。危機に対する敏感な反応、
郷土防衛意識の高揚が、この生産地の若者を駆りたてたのであろう。
そこで農村婦人の役割もまた大きかったに違いない。
第二騎兵隊の本陣は、慶応元(1865)年に創設当時、熊毛郡の石城(イワキ)山頂に置かれた。
入隊した恋人をしたって、夜の山道を登り、「面会」に出かける女性も多かったというのは、さすが周防女の快活さを物語る話である。
輝かしい聴衆の維新史を支えているのは、ひとにぎりの英雄たちではなく、おびただしい無名の人々である。
無名の男女である。
「一将功成って万骨枯る」と嘆く前に、歴史を作った民衆のたくましい足跡を誇らしく見つめるのがよいのだ。
女についていえば、「則天武后」や「淀君」はいなくても長州の女性は、とくに農村婦人は、歴史への無言の参加を果たした。
これも男性社会における不当な女性抑圧の状況下ではあったが、現代への新しい女性史展開への自信を深めるには足りる教訓だろう。
少なくとも幕末長州の女たちは、日本のどの地域の女よりもしたたかに歴史に拘わったからである。
(了)
25232200 楽書ブックス編集部編「さわりで癒される 天才! モーツアルトの名曲25選」について - 岡田 次昭
2024/04/16 (Tue) 08:24:22
令和6年4月14日(日)、私は、書架から楽書ブックス編集部編「さわりで癒される 天才! モーツアルトの名曲25選」を出してきました。
この書物は、2004年11月25日、株式会社樂書館から第一刷が発行されました。
111頁の中にモーツアルトの25曲の解説が収められています。

今回は、そのうち、「トルコ行進曲」に続いて、「クラリネット協奏曲」について纏めました。

私の所有しているCDは、次の通りです。

クラリネット協奏曲  イ長調 K622
クラリネット五重奏曲 イ長調K581

クラリネット エルンスト・オッテンザマー Ernst Ottensamer
演奏者    ウィーン・ヴィルトオーゼン Wiener Virtuosen

モーツアルトの曲の中で一番好きな曲は何かと問われますと、私は返事に戸惑います。
モーツアルトの曲はすべて名曲で親しみやすい故、一番を選ぶことは難しいからです。
敢えて選ぶとすれば、この「クラリネット協奏曲」k622、交響曲第40番 K550、ピアノ協奏曲第24番 K491です。
いずれも甲乙つけがたい永遠の名曲です。



クラリネット協奏曲イ長調 K622

――モーツアルト最晩年の作品、終焉を彩る名旋律――

※ 貧乏同士、仲がいい

1791年、それはモーツアルトの最後の年である。
フランス革命でルイ16世とマリー・アントワネットがオーストリアへ逃亡をたくらんだが失敗。
その知らせがモーツアルトの耳に入ったかどうかはわからないが、もし聞いていたら、小さい頃に彼女にプロポーズしたことなどの回想が彼に感慨をもたらしたかもしれない。
あの幸せな時期から一転、激しい動乱を伴いながら、ヨーロッパは「平等」へと着実に変わり始めていた。
モーツアルトの生活は相変わらず苦しかった。
妻のコンスタンツェの療養費、子供の養育費などのために借金を重ねた。
曲は作り続けるが、なかなか実にならない。
そんな中、9月に上演した「魔笛」は好評を博し、人気上昇の兆しとなった。
そのオペラ「魔笛」の後の10月にクラリネット協奏曲が書きあげられた。
これはまたクラリネット奏者アントン・シュタードラーのために作ったものだ。
しかもタダで!
自分の家計が火の車なのに何をしているのだ、と言いたいところだが、モーツアルトはアントン・シュタードラーの演奏にそれほど魅了されていたのである。
そしてモーツアルトから借金するアントン・シュタードラーも、彼の音楽を深く愛していた。
以前にもなぜそんなに完璧な曲が作れるのか、と聞いたほどである。
お互い尊敬しあって仲がよいのは構わないが、もう少し違うところに目を向ければ、現実も変わっていたのでは? と思ってしまうところだ。

※ 永遠に奏でられる音楽

第一~三楽章で構成されたこの曲で、今回のCDには第三楽章が収録されている。
聞いてみると非常に明るい。
「本当に大曲を仕上げた後の疲労困憊している時の曲だろうか?」
「彼は本当にこの二ヶ月後に死ぬのだろうか?」などという疑問が湧きだしてくる。
それはこの曲が純粋で無邪気で、余りにも美しいからだ。
こんな素晴らしい曲を作ったモーツアルトは、その後フリーメースンのために一曲書いたが、体調が優れない日が続いており、11月20日、ついに起きあがれなくなってしまった。
それでも「レクイエム K626」という大曲を、弟子に手伝ってもらいながら書き進めていた。
しかい、12月5日、夜中の零時55分、昏睡状態になり、遂にそのまま二度と目を開けなかったのである。
直後、周囲は悲しみで混乱し、コンスタンツェにいたっては痛いにしがみついて泣き、倒れてしまった。
彼女に葬式の手配などできるはずもなく、スヴィーテン男爵が代わりをつとめたが、お金があまりなかったため簡素なものしかできなかった。
そして6日、葬儀が行われモーツアルトの遺骸は共同墓地へ埋葬された。
彼が運ばれた聖マルクス墓地は市街地からとても離れた所にあった。
しかもこの日は悪天候だったといわれており、そのためか埋葬まで彼を見送る人は一人もいなかった。
よって、実は現在でも埋葬された場所は確実にはわかっていない。
モーツアルトの訃報が広がるにつれ、彼を惜しむ声が強くなっていった。
作曲家ヨーゼフ・ハイドンは、あのような天才はこの先出てこないだろう、とまで言い涙を流して悲しんだ。
後の14日にプラハで行われた追悼ミサは盛大で、音楽家が彼のために演奏し、死を惜しむ人が4,000人も集まったのである。
そして死ぬ直前まで気にかけていた「レクイエム」は、弟子によって完成されたのだった。
彼は、音楽を通じてこんなにも人から愛されていたのだ。
そして時代が移り代わり遠く離れた東の国でも愛されるようになった。
「聴いたことがある」という言葉は、彼の曲がいつ間にか世界中に浸透している証拠だろう。
この先、何世紀たとうとも人の中で彼は生き続けるのだ。
(了)

(ご参考)


1. モーツアルトの死因とケッヘル番号

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト( Wolfgang Amadeus Mozart )は、1756年1月27日に生まれ、 1791年12月5日に亡くなりました。
ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされています。
実際の死因は「リューマチ性炎症熱」でした。
僅か35歳で、626の曲を遺したモーツアルトは真の天才でした。
このような人物はもう現れないでしょう。

モーツアルトの曲は、ルートヴィヒ・フォン・ケッヘルによって編集され、それはケッヘル目録( Köchelverzeichnis)と呼ばれています。
ケッヘルは時系列的に作品を並べようとしましたが、のちの研究によって作品の成立時期が見直されたり、作品が新しく発見されたりしました。
そのため、ケッヘル番号は何度か改訂され、最新のものは第8版となっています。
特にアルフレート・アインシュタインの第3版(1937年)と、フランツ・ギーグリング (Franz Giegling)、ゲルト・ジーベルス (Gerd Sievers)、アレクサンダー・ヴァインマン (Alexander Weinmann) による第6版(1964年)では大幅な訂正が行われました。

「モーツアルトの25曲の明細」

01. デイヴェルティメントK136
02. アレルヤ K165
03. セレナード第四番 K203
04. ヴァイオリン協奏曲第三番 K216
05. ヴァイオリン協奏曲第五番 K219
06. フルート協奏曲第2番K314
07. フルートとハープのための協奏曲 K299
08. ピアノ・ソナタ第八番 K310
09. ヴァイオリンとヴィオラのための協奏曲 K364
10. 幻想曲 K397
11. トルコ行進曲 K331
12. 弦楽四重奏曲「狩」 K458
13. ピアノ協奏曲第20番 K466
14. ピアノ協奏曲第21番 K467
15. ロンド ニ長調 K485
16. ピアノ協奏曲第23番 K488
17. 「フィガロの結婚」より序曲 K492
18. ロンド イ短調 K511
19.. アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク K525
20.. ピアノ・ソナタ第十五番 K545
21. 交響曲第四十番 K550
22. 交響曲第四十一番 K551
23. クラリネット五重奏曲 K581
24. 「魔笛」より序曲
25. クラリネット協奏曲 K622

私は、アレルヤ K165を除いて、すべてのCDを持っています。

ここには掲載されていないピアノ協奏曲第24番 K491を私はこよなく愛しています。
ピアノ協奏曲の中では最高傑作と自己判断しています。





聖マルクス墓地にある記念墓碑(像は、嘆きの天使)
25231876 新井満著「自由訳 方丈記」について - 岡田 次昭
2024/04/15 (Mon) 08:18:30
令和6年4月4日(木)、私は高津図書館から新井満著「自由訳 方丈記」を借りて来ました。
この書物は、2012年6月9日、株式会社デコから第一刷が発行されました。
今回は、そのうち、「河は無常に流れゆく」について纏めました。
著者の新井満は、昭和21(1946)年5月7日、 新潟県新潟市にて生まれました。彼は新潟明訓高等学校を経て、上智大学法学部を卒業しています。卒業後、電通に入社し環境ビデオ映像の製作に携わるかたわら、小説・歌などの創作活動をしました。
平成18(2006)年5月末日に定年退職しています。
昭和52(1977)年、カネボウのCMソングとして自ら歌唱した『ワインカラーのときめき』(作詞:阿久悠 作曲:森田公一)がヒット曲となりました。
昭和62(1987)年、『ヴェクサシオン』で第9回野間文芸新人賞を受賞しました。昭和63(1988)年の『尋ね人の時間』で第99回芥川賞を受賞しました。
平成13(2001)年、妻をガンで亡くした故郷の友人を慰めるために、彼は『千の風になって』を作曲しました。作曲にあたって原詩である 『Do not stand at my grave and weep(直訳:私のお墓で佇み泣かないで)』 を訳して自ら歌い、CDに録音したものを30枚作成し、友人や希望者に配布しました。しかし、曲を聴きたいという希望者が膨れあがり、2003年に朝日新聞の天声人語で取り上げられると問い合わせが殺到しました。
急遽ポニーキャニオンからCDが発売され、訳詩を掲載した本も講談社から発売されました。この曲は秋川雅史、加藤登紀子、スーザン・オズボーン、新垣勉、ウィーン少年合唱団などプロの歌手たちにカバーされ、100万枚を越える大ヒットになりました。
同曲によって、平成19(2007)年、第49回日本レコード大賞作曲賞を受賞しました。

主な小説・絵本は、次の通りです。

『ヴェクサシオン』文藝春秋、1987年
『尋ね人の時間』文藝春秋、1988年
『サンセット・ビーチ・ホテル』文藝春秋、1988年
『海辺の生活』文藝春秋、1991年
『カフカの外套』文藝春秋、1991年
『オンフルールの少年』マガジンハウス 1992年
『朝のパンセ』ラウル・デュフィ絵 ティビーエス・ブリタニカ 1993年
『エッフェル塔の黒猫』講談社 1999年
『黒い傷のある部屋』集英社 2000年
『カメラマンと犬』集英社 2002年
『月子』PHP研究所 2004年
『朱鷺のキンちゃん空を飛ぶ』佐竹美保絵 理論社 2005年

主な随筆は、次の通りです。

『美女が来た! 男に勝とうとは思わないだから負けもしない』CBS・ソニー出版 1983年
『足し算の時代引き算の思想 対談集』PHP研究所 1990年
『環境ビデオの時代』主婦の友社 1990年
『サティ紀行 ノルマンディー・パリ音楽の旅』主婦の友社 1990年
『幸福論』PHP研究所 1992年 「幸せさがし」
『森敦-月に還った人』文藝春秋 1992年
『新井満の人間交響楽』講談社 1995年
『私の小さな美術館』文藝春秋 1996年
『そこはかとなく』河出書房新社 1997年
『星になったサン=テグジュペリ』文春ネスコ 2000年
『千の風になって』講談社 2003年
『結婚おめでとう』PHP研究所 2004年
『死んだら風に生まれかわる』河出書房新社 2004年
『死んだら星に生まれかわる』河出書房新社 2004年
『新井満と語る風のごとく、自然体で』新風舎文庫 2004年
『新井満と語る威厳をもった老後と哀れな老後と』新風舎文庫 2004年
『お墓参りは楽しい』朝日新聞社 2005年 「お墓めぐりの旅」文庫
『この街で』黒井健絵 PHP研究所 2006年
『子どもにおくる般若心経』朝日新聞出版 2008年
『希望の木』大和出版 2011年

方丈記の冒頭の部分は、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」です。
新井満さんは、この箇所を自由訳にしています。
原文に沿って忠実に現代文に訳しています。対比して読みますと、一層興味が湧いてきます。高校時代、声を出して原文を読んだことが懐かしく思い出されます。



「河は無常に流れゆく」(全文)

河が流れてゆく。
きのうと同じように今日もまた、たえることなく流れてゆく。河岸に立って眺めて見よう。しかし、眼をこらしてよく良く見ると、面白いことに気がつく。たった今流れてゆく河の水は、さっき流れて行った河の水とはぜんぜん違う。
全く別の、新しい水なのだということ。
河が流れてゆく風景は、いつ見ても同じように見えるけれど、流れを成している水そのものは刻々と変化して、常に新しい水に入れ変わっているのである。
今度は、河のよどみに眼を移してみよう。水面に、たくさんの水泡が浮かんでいる。生まれては消え、消えてはまた生まれてくる水泡立ち。そんな水面の風景は、いつ見ても同じように見える。しかし、眼を凝らして良く見ると、面白いことに気がつく。たった今、生まれたばかりの水泡は、さっき生まれた水泡とはぜんぜん違う。全く別の、新しい水泡なのだということ。
水泡を浮かべた水面の風景は、いつ見ても同じように見えるけれど、水泡そのものは刻々と変化して、常に新しい水泡に入れ替わっているのである。
考えてみると、日々、世の中を生きている私たち人間も、私たちが住み暮らしている住居というものも、河の水やよどみに浮かぶ水泡と、似たようなものかもしれない。
世の中の風景が昔と同じ様に見えたとしても、世の中を成している人間そのものは、たえず変化し、常に新しい人間に入れ替わっているではないか。
同様に、沢山の住居が建ち並ぶ街の風景が、昔と同じように見えたとしても、街を成している住居そのものは、たえず変化し、常に新しい住居に入れ替わっているのである。
宝石を突きつめたように美しく、華やかな京の都。身分の高い人々の家屋敷から身分の低い人々の家まで、形も大きさも種々雑多な住居がところ狭ましと建ち並んでいる。遠くから眺めるとその風景は、昔と少しも変わらないように思われる。しかし、
「本当に、そうなのだろうか……?」
と改めてよく見ると、昔から変わらずに建っている住居などは、めったにないことがだんだんわかってくる。
「去年、火事で全焼してしまいましてね。この家は今年、建てなおしたものなんですよ」
とか、
「あそこには以前、もっと大きなお屋敷があったのだが、没落して今は、こんな小さな家に建て変わってしまった……」
とか、実際のところは、たいした変わりようなのである。
住居がこんな具合であるから、その中に住み暮らす人間たちの変わりようは、もっと激しいと言ってよいだろう。住居は昔と同じ場所に建っているし、そこに住んでいる人間の数も同じくらい大勢いるのだが、いざ確かめてみると、昔からの人間は、二、三十人のうち、せいぜい一人から二人くらいしかいなかったりするのである。
朝、死んでゆく人間がいる。
夕方、生まれてくる人間もいる。
あちらで生まれ、こちらで死に……、こちらで生まれ、あちらで死んでゆく……。人間の顔ぶれはたえず入れ替わり、常に変化している。まるで、よどみに浮かんでは消えてゆく水泡そのままではないか。
生まれてきては死んでゆく、いとも不思議な存在、人間……。われら人間とは、いったいどこからやってきてどこへ去ってゆくのだろう。いくら考えても、私にはわからない。さらに、もっとわからないのは、住居のことである。
しょせんは人間が死ぬまでの、大して長くもない時間を過ごす仮の宿りであろう。そんなかりそめの住居を、いったいだれのために苦労して建てようとしているのか。更に、出来上がった住居を見て大喜びするのは、いったいどういう料簡なのか、私にはどうしても分からないのだ。
人間も住居も、永遠ではない。
つかのまこの世に生きて、あっというまに亡んでしまう、まことにはかない存在である。ところで、人間と住居とは、どちらが先に亡びるのだろう。まるで「無常」を競いあっているようなその様子は、朝顔と、その花びらに宿った朝露との関係に似ているかもしれない。
朝顔と、朝露……。露が先に落ちて、花が残ることがあるだろう。しかし、残ったとしても、朝日が昇れば、開いた花はすぐに枯れてしまう。
また、花が先にしぼんで、露が残る場合もあるだろう。しかし、残ったとしても露が夕方まで残ることは、まずありえないのである。
(了)

(ご参考)

「方丈記」序の原文

ゆく河のながれは絶えずして、しかもとの水にあらず。流れのよどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と栖(スミカ)と、またかくのごとし。たましきの[玉を敷いたような立派な]みやこのうちに、棟をならべ、甍をあらそへる、高き・卑しき人のすまひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。あるいは去年(コゾ)焼けて、今年つくれり、あるいは大家(オオイエ)ほろびて、小家(コイエ)となる。
住む人もこれにおなじ。ところも変はらず、人も多かれど、いにしへ[過ぎ去った遠い過去]見し人は、二、三十人がうちに、わづかにひとりふたりなり。あしたに死に、ゆふべに生るるならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、現世においての仮の宿り、誰がためにか心をなやまし、何によりてか、目をよろこばしむる。
そのあるじとすみかと、無常をあらそふさま、いはば、あさがほの露にことならず。あるいは露おちて、花のこれり。のこるといえども、あさひが出た頃に枯れぬ。あるいは花しぼみて、露なをきえず。消えずといえども昼には蒸発して、ゆふべを待つことなし。

25231515 朝永振一郎著「見える光、見えない光」について - 岡田 次昭
2024/04/14 (Sun) 09:21:11
令和6年4月4日(木)、私は高津図書館から朝永振一郎著「見える光、見えない光」を借りてきました。
この書物は、2016年10月7日、株式会社平凡社から第一刷が発行されました。
219頁の中に沢山の随筆が収められています。
今回は、そのうち、「十年のひとりごと」について纏めました。

朝永振一郎さんは、明治39(1906)年3月31日、東京生まれで、少年時代以降は京都育ちでした。
彼は、京都一中(現京都府立洛北高等学校・附属中学校)、第三高等学校を経て、京都帝国大学理学部物理学科を卒業しました。
卒業後は京都帝国大学の無給副手に着任しました。湯川秀樹(旧姓:小川)とは中学校、高等学校、帝国大学とも同期入学・同期卒業でした。
1947年、量子電磁力学の発散の困難を解消するための繰り込み理論を形成し、繰り込みの手法を用いて、水素原子のエネルギー準位に見られるいわゆるラムシフトの理論的計算を行い、実測値と一致する結果を得ました。
この業績により、1965年にジュリアン・シュウィンガー、リチャード・ファインマンと共同でノーベル物理学賞を受賞しました。
しかし肋骨を折っていて、12月のストックホルムでの授賞式には出席できませんでした。
1976年、彼は、勲一等旭日大綬章を受章しました。
昭和54(1979)年7月8日、喉頭癌が悪化してこの世を去りました。
享年74歳でした。

私は、文科系の人間ですから、超多時間理論・D函数とかΔ(デルタ) 函数・C中間子の言葉を理解できません。
それでも私はこの随筆を読んで、物理学者の考え方を学ぶことができ、大いに参考になりました。



「十年のひとりごと」(全文)

戦争は終わったが、食料もなく家もなく、交通も大混雑で時々死人が出るほどであった。こんな時には体も頭もあまり使わない仕事をやるに限ると考えたので、まずやり始めたのは、戦争中日本文で纏めてあった研究を欧文になおすことだった。
超多時間理論や、場の反作用とか、中間結合から始めて、磁電管の理論や、立体回路のSマトリックスなど、毎日、毎日タイプを打って暮らした。
紙がないので古い原稿用紙の裏を用いた。
そのうち、この仕事も終わったが、食料不足が身に沁みたせいか、こんな抽象的な理論にうきみをやつすよりも、もっと役に立つことをやろうかとも考えた。
戦後一時は誰も彼も夢のようなことを考えたものだが、我々もご多分に漏れず、理研の連中と光合成の勉強などを始めた。
田宮先生の論文なども読み合って、本気で食料問題解決に資するつもりだった。
しかし、これはものにならず、またもとの商売にもどった。
そうこうするうちに、ぼつぼつ大学の連中も集まってきたので、理研や文理大でゼミナールを始めた。
まず超多時間理論の一般化を若い連中とやり出した。
当時、交通状態が悪く、仮住まいから通勤に2時間もかかったが、バスの中で積分可能条件をどうやって満足させるかに気がついたりした。
そのうち朝日賞をもらったが、これは大助かりであった。
このお金を注ぎ込んで畳を10枚買い、学校の大久保分室の焼け残り小屋に居を構えた。これで住居の問題が一応片付いたので、場の反作用の問題を考えるのに、たっぷり時間ができることになった。
まず、場の反作用の無限が一部は質量にくりこめそうだと考えた。
しかし、くりこんだ残りが有限になるあてはなかった。
一方では、坂田先生のC中間子の理論があったので、これを反作用の問題に用いたらと考えた。
ゼミナールでいろいろ議論してみたが、計算を間違えたりして少しモチモタしていた。しかし、結局C中間子の考えで無限大反作用の一部は救われることが分かった。
ところが、この計算をよく見ると、前から頭の中にあったくりこみの考えで無限大がすっかり分離できることが分かった。
この時分は外国文献も入手難であったが、ある意味では、その方が好かった。
外からいろいろのニュースが聞こえてくると、とかく時分の仕事から眼をそらされる。大体日本の物理屋は外の状態でふらふらしすぎるものだが、時には意識的に外のことに知らん顔することも大切なのではないだろうか。
しかし、風のたよりでラムの発見や、シュウィンガーが似たようなことをしていることが聞こえてきた。そのうち、1949年に、オッペンハイマーからプリンストンへの招きがきた。
そこでアメリカに出かけたが、くりこみ理論も鼻に付いてきた。
誰も彼もがファィンマン・グラフばかり書いているし、誰の論文を見てもD函数とかΔ(デルタ) 函数ばかり出てくる。
あまりにも個性がなさ過ぎるので、すっかり食欲を失った。
そこで少しつむじをまげて、多粒子問題というあまり人気のない方面に手をつけた。
この問題は実は10年ぐらい前から頭の一部にあって、いつかいじってみたいと思っていたのだが、ちょうどプリンストンで十分な暇ができたのでまとめ上げた。
当時、何かにつけて不自由な日本からアメリカに行くと、始めはなにもかも極楽のように思われた。
しかし、半年もいると味気なくなってきて、雨漏りの音や便所の匂いが恋しくなり、結局10ヶ月ばかりで帰ってきた。
こうして、戦後の5年間は相当アカデミックな生活を送っていた。
ところが、1951年の1月に仁科先生が亡くなられた。
そうすると、先生の引き受けていたいろいろな仕事の一部を引き継ぐことになった。
まず学術会議の原子核研究連絡委員会(後の原子核特別委員会の前身)の委員長という役がふりかかってきて、原子核、宇宙線、素粒子論の一筋縄でいかない猛者たちのまとめ役をやることになった。
その後は、科研や阪大のサイクロトロン建設に口利きをしたり、基礎物理学研究所を作るために文部省を口説いたり、そういう仕事に追われ始めた。
乗鞍の宇宙線観測所の予算をもらいに大蔵省へも出かけねばならなかったし、原子核研究所を作るについては、田無の町の人から猛反対を受けて、夜中の12時近くまで町の公民館でつるし上げを食うという結構な体験も持った。
現在は、近ごろやかましい原子力問題にまき込まれて右往左往している。
こんなにして、戦後10年、ひとかどの学界名士ということになったせいであろうか、今日は、ある雑誌の創刊10周年記念号を出すというまことに有意義な企てに一筆求められて、あまり意味のない原稿を書いたりしている。
それもこれも、こんな貧弱なやせ男にも、時勢の波はようしゃなく押し寄せてくるということであろうか。
(1956年 50歳 ノーベル賞受賞は、9年後の1965年)
(了)
25231514 川北義則著「60歳から下手な生き方はしたくない」について - 岡田 次昭
2024/04/14 (Sun) 09:18:54
令和6年4月4日(木)、私は高津図書館から川北義則著「60歳から下手な生き方はしたくない」を借りてきました。
副題は、「老いを愉しめる人、愉しめない人」です。
この書物は、2013年8月10日、大和書房から第一刷が発行されました。
238頁の中に参考になる随筆が沢山収められています。今回は、そのうち、「プラス思考のクセをつけなさい」について纏めました。

川北義則さんは、昭和10(1935)年に大阪府で生まれました。
彼は、慶応義塾大学経済学部を卒業しています。
雑誌記者を経て、東京スポーツ新聞社に入社し、文化部長、出版部長を歴任しました。彼は、昭和52(1977)年にこの新聞社を退社しています。
その後、日本クリエート社を設立しました。
現在、出版プロデューサーとして活躍するとともに、生活経済評論家として常に消費者の立場に立った評論で、新聞や雑誌、講演などで活躍しています。
『3年間、家を買うのを止めなさい!』(ダイヤモンド社 1990年)は、ベストセラーになり各界で話題になりました。
私は、彼の著書「みっともない老い方」を愛読書の一つにしています。

下記の文章を読みますと、セシル・ジョン・ローズ(Cecil John Rhodes)の「So little done, so much to do.」(.(達成したことはあまりにも少ない。すべきことがあまりにも多い。)
という言葉を思い出します。「後悔先に立たず」です。
私は、生きているうちにできるだけのことをして、満足した人生を送れることが理想と考えます。
そのためには、プラス思考が必須条件です。



「プラス思考のクセをつけなさい」(全文)

私自身、七、八年前に膵臓がんの手術を受けた。
超音波診断で、何かおかしいとなったとき、「矢っ張り切ったほうがいいのでは……」という医師の判断で、思い切って手術を受けることにしたのだ。
本人は痛くも痒くもないのに、切腹はかなわないと思ったが、ここは専門家の判断に任せるべきだと覚悟した。
結果、矢張り小さなガンがあったそうだが、それでもいまは、その医師の判断に任せてよかったと思っている。
私は生来、プラス思考である。
物事の解釈には、二通りあるものだが、よい方へ解釈するのがプラス思考の考え方だ。あなたは、どちらに解釈するタイプか。
もし悪いほうへ解釈するクセがあったら、今からでも直しておく必要がある。
「どうせダメだろう」「うまくいかないに決まっている」など、マイナス思考は損をする。
楽しい人生のためには、その逆のプラス思考に限る。
そのほうが確実に都合がよいからである。
なぜか。人間の脳がそのようにできている。
物事を悲観的に考えるよりも、楽観的に考える人の方が、間違いなく望む人生を手に入れやすく、幸福感も大きいのだ。
このことは、「楽観主義バイアス」という考え方を提唱する神経生理学者ターリー・シャーロット女史が、概略こう述べている。
「人は好ましいことが起きる確率を過大評価し、好ましくないことが起きる確率を過少評価します。八割の人がそうです。これは基本的によいことです。なぜなら、その方が人々を成功に導き、幸福度も増すからです」
だが、この考え方には落し穴もある。
現実はそれほど甘くはないからだ。
そのばあいはどうすればいいのか。
簡単なことだ。
現実を踏まえて、思い通に行かない場合の備えを用意しておけばいい。
「そうすればペンギンだって、タカのように空を舞うことができます」
いささか論理の飛躍があるように思えなくもないが、彼女が言わんとするのはこういうことだ。
ある高齢者夫婦、妻のために夫がクルマで買い物に出かけたが帰りが遅い。
妻は「事故に遭ったのではないか」と心配になる。
一時間後、夫は帰宅する。妻はホッとする。この場合「事故に……」と考えるのではなく、「何かの理由で寄り道でも……」と考えることもできる。
前者の考え方はマイナス思考であり、後者の考え方がプラス思考である。
高齢社会は、私たちに二つの人生を与えてくれた。
だが、人生第一幕と第二幕の間には大きな違いがある。第一幕は、リハーサルなしのぶっけ本番で始まる。気がついた時は「もう始まって」いて、一定の枠にはめられている。
本人の努力にかかわらず、運に左右される部分が相当ある。たとえば、親を選べないとか、教育のされ方がまずいなど、年を重ねてから「こうすればよかった」と気づいても後の祭りである。
そこで多くの人たちは、イギリスの詩人のように「もし人生に第二版があるなら、私は校正したい」(ジョン・クレア)と思うようになる。
以前は、人生の第二版などかなわぬ夢の夢だったが、いまはそれができるのである。
「ああすればよかった」「こうすればよかった」と思うことを、実際にやり直してみればいいのだ。
思えば私たちは、過去の人間が憧れながら果たせなかった「不老長寿」の時代を生きている。
ただし、人生第二幕を生き甲斐に満ちた充実人生にするためには、プラス思考が欠かせないということ。
「人の言葉は善意にとれ。その方が五倍も正しい」(ウィリアムシェークイピア:イギリス)
(了)
25231063 古川薫著「吉田松陰 留魂録」について - 岡田 次昭
2024/04/13 (Sat) 08:02:51
令和6年4月11日(木)、私は、書架から古川薫著「吉田松陰 留魂録」を出してきました。
この書物は、2002年9月10日、株式会社講談社から第一刷が発行されました。
217頁の中に、吉田松陰の素晴らしい言葉が収められています。
この書物は、私の愛読書の一つです。

『留魂録』(リュウコンロク)は、長州藩の思想家である吉田松陰が、安政6(1859)年に処刑前に獄中で松下村塾の門弟のために著した遺書です。
この遺書は松下村塾門下生の間で回し読みされ、松門の志士たちの行動力の源泉となりました。
安政5(1858)年、松陰は藩に対し、幕府の老中であった間部詮勝暗殺計画のために武器の提供を申し入れました。
驚いた藩の重臣たちは松陰を野山獄に収監し、翌5月、幕府に上申のうえで江戸に向けて松陰の身柄を転送しました。
幕府の評定所で、悲劇的なボタンの掛け違えが起こりました。
上記の経緯により松陰自身は当然幕閣も松陰の計画を承知していて、その嫌疑取調べのために東送されたものと思い込んでいました。
しかし事実は異なっていました。
幕府が松陰を召喚した目的は、安政の大獄で召喚された梅田雲浜との交友などの嫌疑についての取調べでした。
従って、暗殺計画には一切触れることなく、松陰の評定所での詮議は終了し、長州藩邸に戻ることを許されようとしていたのである。
しかし、自身が萩の野山獄に投獄された経緯から、松陰は老中暗殺計画を自白するという挙に出たため、一転して嫌疑は重罪に変わり、小伝馬町に投獄されました。
その後の取調べで自身の処刑を察知した松陰が、10月25日から26日にかけて書き上げたのがこの「留魂録」です。
この「留魂録」は、獄中の囚人である松陰が門弟たちに宛てた書物で、何とか塾生たちに伝わるようにと、松陰は直筆の書を2通作成しています。
1通は、松陰の処刑後、門弟の飯田正伯の手に伝わり、萩の高杉晋作らの主だった塾生に宛てて送られました。
もう一通の正本自体は行方不明になっています。
今日、萩の松陰神社に伝わる本書は、もう1通の方の正本です。
これは松陰と牢中で起居をともにした沼崎吉五郎が持っていたものです。
沼崎は、小伝馬町の牢から三宅島に遠島となり褌の中に隠したまま携え、そこで維新を迎えました。
明治7(1874)年に沼崎は東京に戻り、その後、明治9(1876)年に、沼崎は松陰門下ゆかりの人物で、神奈川県権令となっていた野村靖を訪れました。
そして、初めて別本の存在が明らかになったのです。
なお、松陰は「留魂録」とともに、「諸友に語ぐる書」において、門人たちに「・・・我れを哀しむは、我れを知るにしかず。我れを知るは、吾が志を張りてこれを大にするにしかざるなり」と書いています。

全十六章全てを紹介することはできませんので、第一章と第二章に限定しました。



古川薫さんの解説は、次の通りです。(一部)

『留魂録』の冒頭には、その標題と和歌一首が、やや大きめの字で書き留められている。

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ぬとも 留置かまし 大和魂 十月念五日 
二十一回猛士」
(注) 念五日とは、二十五日の事です。

肉親にあてた「親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん」

と並ぶ有名な辞世の歌です。

「二十一回猛士」とは、吉田という漢字を分解して「二十一回」と読み、死ぬまでには全力を挙げて二十一回の行動を起こすと誓い、この号を好んで使いました。
(注)吉田の吉を分解すると、十、一、口となります。田は十と口になります。十と十を足して、二十になります。口と口で回となります。よって、二十一回になります。

安政元(1854)年11月、萩の野山獄中で、松蔭はそのことに触れ、「猛を成すことおよそ三たびなり」とし、あと十八回残っていると述懐した。
それまでの三回の猛とは、脱藩の罪で士籍を削られることになった東北旅行、浪人の身で藩主に『將及私言(ショウキュウシゲン)』を上書してとがめられたこと、ペリーの軍艦による密航計画などを指している。
松蔭はその後、間部詮勝暗殺計画をはじめ何度の猛を起こしただろうか。
十八回に至らない前に処刑されたとも言えるし、考え方によっては、残された以上の猛を発する激しい生きざまを見せたともいえるだろう。

『留魂録』本文に入ろう。
全文は十六章に分けられている。
「一、余、去年已来心蹟百変、あげて数へ難し」というのが第一章の書き出しである。
猛を発して、さまざまに試行錯誤した自分を振り返っている。
「至誠にして動かざる者はいまだ之有らざるなり」という孟子の言葉を信念として動いたが、「終に事を為すこと能わず、今日に至る」。
これは自分の徳が薄かったためで、誰を怨むこともないと、処刑に臨む安心の境地を述べている。
第二章は、江戸送りとなり評定所で取り調べを受けた経過を簡単に説明した部分である。
松蔭を呼び出した幕府の目的は、梅田雲浜(ウンピン)との関わりを訊ねることだった。
それと京都御所内で発見された反幕的な言辞を連ねた落文(オトシフミ)が松蔭の作ではないかという疑惑。
訊問に対し松蔭は明快に釈明した。
評定所の役人も納得して、それて終わったのである。
(なんだ、そんなことか)と松蔭は思った。
「余、ここにおいて六年間幽囚中の苦心するところを陳じ、終に、大原公の西下を請ひ、鯖江侯を要する等のことを自首す。」
自ら進んで勤王派の公家・大原重徳(シゲトミ)を長州に招いて反幕の旗揚げをさせようと策したこと、鯖江公(老中・間部詮勝)の暗殺を企てた事を役人に告げる有名な場面である。
松蔭自身は書いていないが、喋っているうちに、思わず口を滑らせたということだったかもしれない。
また考えられるのは、以前に下田密航事件のとき幕府の役人は、親切な態度で松蔭が長々と述べる意見を聴いてくれた。
松蔭は法廷を通じて幕府に諌言(カンゲン)できると思ったらしい。
だがことときの役人は、重大な自白を聴いてあおざめるほどに驚き、もはや松蔭の陳述には耳も貸さなかった。
どう処理すべきか。
その問題だけが残ったのである。
「誠を尽くせば」という松蔭の信念がここにも現れているが、やはり失策というほかないだろう。

最後のところで、松蔭は、「かきつけ終わりて後、次の歌を遺しています。

心なることの種々かき置きぬ思い残せることなかりけり
呼び出しの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
十月二十六日黄昏書す 二十一回猛士
(以下略)
25231061 中村明著「日本の一文 30選」について - 岡田 次昭
2024/04/13 (Sat) 08:00:06
令和6年4月4日(木)、私は高津図書館から中村明著「日本の一文 30選」を借りてきました。
この書物は、2016年9月21日、株式会社岩波書店から第一刷が発行されました。
189頁の中に30の文章が収められています。
今回は、そのうち、幸田文著「鏡の余白は憎いほど秋の水色に澄んでいる」について纏めました。

幸田文さんは、明治37(1904)年9月1日、作家の幸田露伴、母・幾美(キミ)の次女として東京府南葛飾郡寺島村(現在の東京都墨田区東向島)にて生まれました。
1928年、24歳で清酒問屋三橋家の三男幾之助と結婚し翌年娘の玉(青木玉)が生まれました。
しかし、結婚から8年後、家業が傾き廃業を余儀なくされました。
1936年、築地で会員制小売り酒屋を営みましたが、1938年に離婚しました。
彼女は若い娘の玉を連れ父のもとに戻りました。
1955年より連載した長編小説『流れる』で1956年に第3回新潮社文学賞受賞、1957年に昭和31年度日本芸術院賞を受賞しています。
また、『黒い裾』で1956年に第7回読売文学賞受賞、『闘』で第12回女流文学賞を受賞しました。
1988年5月に脳溢血により自宅で療養しました。
療養の甲斐なく、1990年10月31日心不全のため亡くなりました。享年87歳でした。

中村明さんは、1935年9月9日、山形県鶴岡市にて生まれました。
彼は、山形県立鶴岡南高等学校、早稲田大学文学部国文科を経て、1964年同大学院修士課程修了しています。
彼は、国際基督教大学、成蹊大学教授、国立国語研究所員を経て、早稲田大学日本語研究センター教授を務め、2006年に定年を迎えました。
現在、早稲田大学名誉教授に就任しています。

主な著書は、次の通りです。

『美しい日本語』 (青土社 2014)
『日本語のニュアンス練習帳』 (岩波ジュニア新書 2014)
『日本の一文 30選』 (岩波新書 2016)
『日本語の作法 しなやかな文章術』 (青土社 2018)
『ユーモアの極意 文豪たちの人生点描』(岩波書店 2019)
『五感にひびく日本語』(青土社 2019)
『日本語の勘 作家たちの文章作法』(青土社 2020)
『日本語名言紀行』(青土社 2022)

中村明さんは、幸田文さんの文章を絶讃しています。
蓋し、同感です。
次回、図書館を訪れたときに、幸田文さんの書物を借りてきます。



「鏡の余白は憎いほど秋の水色に澄んでいる」(原文のまま)

年齢を加えるとともに、むしろ清楚な感じの際立つ、あの和服姿から、自ずとこの作家のしなやかな立ち居振る舞いが想像された。
それに、あの表現。
幸田文愛用のオノマトペで形容すれば、ぴんぴんした感覚で、ぴしりと描ききる、しゃっきとした文章である。
(注)オノマトペとは、擬音語と擬態語の総称です。擬音語は人、動物、物が発する音を表現し、擬態語は音がない雰囲気や状態を表現します。
あの作家訪問の連載企画の折りに、ぜひともこの幸田文の話を聞きたいと思いながら、その夢の遂に叶わなかったことが、今でも残念でならない。
『幸田文全集』の月報にも記したとおり、体調すぐれず、また、自分の文章について格別話すこともないから勘弁して欲しいとの返事だったらしいが、ことばにまつわる気楽な雑談でいいからと、再度お願いしていたら、あるいは、と今にして思う。
が、若かった当時の自分にそんな芸当は思いつくはずもなかった。
『蜜柑の花まで』という随筆は、酒の仕度をした思い出をたぐりつつ、「季節感」を掬い、父の幸田露伴を偲ぶ一編である。
雪の降る日に温かい鍋ものをと思うのは人情だし、実際うまいに違いないとしながら、この作家は、雪の日だからこそ、「むしろ潔く青い野菜などが膳へつけたかった」という。
「潔く」と感じるあたりに人となりがちらつく。
三月末の山形への旅についても、「あたらはまだ梅の蕾がようやく膨れ」と書き、「桜の幹もいくぶんてりを持ちはじめたかな」という気候と続ける。
桜の木が蕾をつけ、それがふくらみ始める直前に、幹に照りが現れるといた微かな微候を、こんなふう敏感に感じ取るというのも驚くべきセンスだ。
同じく随筆『えんぴつ』には、「朝飯のまえに飲むお茶の茶碗の、いかにも使いなれてつるんとしているなあなどと思わせられると、秋」とある。
読んでいて、こういう季節の感じ方に読者はすごみさえ感じるが、結局は感覚的に納得する。
冒頭に一文を抜き出した作品『余白』は、こんな随筆である。
大柄な自分の全身を写すために、並外れて大きな姿見を購入して嫁入り道具とした。
ところが大きすぎて、引っ越しのたびに不器用にはみ出すため、「まぬけ鏡」と呼び、そこに映る季節を楽しんでいる。
今度、部屋を少し広げて、ちらかっているがらくたを片付け、やっとスッキリしたと思って部屋を眺めると、部屋の中に大きな鏡が残っている。
寸法まで測っておきながら、ついその置き場を失念したうかつな主のせいで、またもやはみ出すこととなり、かわいそうな感じもする。
鏡面いっぱいに姿を写してきた大柄な主人公も、年齢と共にその量感が少しずつ失われてきたらしく、気がつくと、自分の映像の周囲に思わぬ隙間ができている。
それを画面の「余白」に見立てて眺めると、思いがけずそこに秋の空が映っている。
そこまで読んできた読者は、その空が「水色に澄んでいる」ことを伝える前に、作者が「憎いほど」と書いたことにはっとする。
余白の目立つほど、いつのまにか肉体の衰えが進んでいたことに気付いて複雑な思いのよぎる女性が、澄みきった秋空の余りの美しさに、思わず軽い嫉妬を覚える。
その奇妙な反発の気持とともに、見事に季節感を掬いあげた、それこそ、「憎いほど」の一文である。
(了)