末広帖 画像掲示板


松山高女および松山南高校同窓会関東支部の専用掲示板「末広帖」です。関係者以外の投稿はご遠慮ください。

69744
● 投稿フォーム
エラーメッセージが表示されたらブラウザーの戻るで戻って修正してください
25236486 やまなみ春の句会 - 神野昭子
2024/04/27 (Sat) 13:26:50
今回は10年ぶりの北高との合同句会。
前回合同句会をしたのち
有志が集まって句会を始められたとか。
場所は清澄庭園の池に突き出た涼亭。

北高からは5名のご参加。
南高からは9名の参加と、欠席投句11名松山3名含む。

今回の渾身の一句をご覧ください。

 川端の川のアーチに風薫る       永二
 春雨に大社の甍煙りけり        博道
 桜舞う畦道緑ただ一人         良
 啓蟄や飛べど進まぬ小さき羽      真智子
 庭園に揺らぐ炎や牡丹の芽       小百合
 同好の集いて謡う梅若忌        和夫
 春筍の穂先の節を数へけり       卓
 青絨毯空に広がるネモフィラよ     政紀
 水温む北と南の出合橋         道雄
 野遊や松葉相撲の勝抜戦        冨貴江
 うららかや医師の言葉の異常なし    泰男
 紅幾重巧みに畳む牡丹の芽       環
 踏青や海見はるかすところまで     ひろ子
 八重椿青葉の森の人出かな       幹
 やはらかな色に染まれり山笑ふ     宜子
 山羊の群れ右へならへの長閑なり    道夫
 肩先の一片梅見帰りかな        千秋
 牡丹の芽内に秘めたる艶やかさ     由美
 桜蘂降る陋屋の人無きに        人
 牡丹の芽菰を破りて空青し       豪騎
 雪柳小諸城址の空青し         誠一
 初虹や山懐の宿の朝          幸宏
 まさおなる空に牡丹の芽立ちかな    いづみ
 千年を桜蘂降る三春かな        昭子  
        
本日の最高点は
 春筍の穂先の節を数へけり   卓
 藁屋根の柱の歪み牡丹の芽   幸宏

十七文字という世界で最も短い詩である俳句は
季語、定型、切れという制約により想像が広がり人に感動を与える事が出来る文學。
吟行と句座が大切で、ものを深く見つめて句を作り
人の選をする事が、車の両輪のように大切で、
俳句の上達には欠かせません。

次回夏の兼題は「雷」です。
25236398 株式会社レッカ社編著『「戦国武将」がよくわかる本 井伊直政」』について - 岡田 次昭
2024/04/27 (Sat) 07:36:21
令和6年4月25日(木) 、私は書架から株式会社レッカ社編著『「戦国武将」がよくわかる本」』を出してきました。
この書物は、2008年8月18日、株式会社レッカ社から第一刷が発行されました。
317ベージの中に私の好きな戦国武将が登場します。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の他に、前田慶次、鍋島直茂、本多忠勝、島津義弘、加藤清正、加藤嘉明、吉川元春、後藤又兵衛、服部半蔵、山中鹿之助、大谷吉継、石田三成、島左近、蒲生氏郷、井伊直政、榊原康政、荒木村重など戦国時代の武将のことを読みますと、往時のことが偲ばれます。
今回は、そのうち、「井伊直政」について纏めました。
井伊直政は、徳川家康の四天王の一人でした。
徳川家康の四天王とは、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政を指します。
この書物は、戦国時代の武将について、よく調べて書かれています。
これ一冊あれば、ほとんどの武将の略歴を知ることができます。



「井伊直政(1561 ~1602)」(全文)

徳川家康に仕え、戦国最強の一人に数えられる井伊直政であるが、その人生のはじまりは波瀾に満ちたものであった。井池は代々、遠江(現在の静岡県西部)の国人領主を務めており、今川氏に仕えていた。しかし、直政の祖父が今川義元と共に「桶狭間の戦い」で散ると、直政の父は謀叛の嫌疑をかけられて処刑された。幼い直政も今川氏から命を狙われる身となった。
この境遇にあった直政を拾ったのが、隣国三河(現在の愛知県東部):の大名であり、後に直政が終生をかけて仕えるになる徳川家康である。直政は、家康の小姓として仕えつつ、武田氏との抗争で戦果をあげていく。22歳にしてようやく元服すると旗本に昇進。武勲のみならず政治手腕も発揮するようになり、家康からの信頼は日に日に増していくのであった。
その後、武田氏が滅亡すると、なお直政は武田旧家臣を束ねる任を受け、猛将で知られた山縣昌景の「赤備え」を継承。
自身の才能と鍛え上げられた部下とで、戦国屈指の精鋭部隊として、「井伊の赤備え」は一躍天下に知られるところとなったのである。
「小田原征伐」でも「関ヶ原の戦い」でも、戦場では常に赤い部隊が先陣を切って躍動した。
何しろ、直政は陣で大人しく指揮するタイプではなく、過激な性格そのままに自ら前線で戦うことを好んだ。
おかげで重武装でありながら生傷が絶えなかったが、こうした戦い方で功をあげたからこそ異例のスピードで出世を果たしたのである。
もっともその代償であったか、戦場での傷が原因で病にかかり、42歳の若さで死亡。
まさに身を削って家康の天下取りに尽くした男である。
(了)
25236034 黒井千次著「老いの味わい」について - 岡田 次昭
2024/04/26 (Fri) 08:39:19
令和6年4月14日(日)、私は宮前図書館から黒井千次著「老いの味わい」を借りてきました。
この書物は、2014年10月25日、中央公論新社から第一刷が発行されました。
237頁の中に参考になる随筆が収められています。この書物は、讀賣新聞夕刊連載「時のかくれん坊」を書籍化したものです。
今回は、その内、「老いとは生命のこと」について纏めました。

黒井千次さんは、昭和7(1932)年5月28日、東京の高円寺にて生まれました。
彼は、都立西高校から1955年東京大学経済学部を卒業後、富士重工業へ入社しました。サラリーマン生活のかたわら、創作を行いました。
新日本文学会に入り、1958年に『青い工場』を発表し、当時の労働者作家の有望株として、八幡の佐木隆三、長崎の中里喜昭たちとともに注目されました。
また、『文学界』に『メカニズムNo.1』を執筆しました。
労働現場の矛盾を心理的な側面から描く手法で注目されました。
1968年に『聖産業週間』で芥川賞候補となりました。
1970年に『時間』で芸術選奨新人賞を受賞しました。
同年に富士重工を退社し、作家活動に専念しました。
その後、1984年に『群棲』で谷崎潤一郎賞、1995年に『カーテンコール』で読売文学賞(小説部門)、2000年日本芸術院会員、2001年に『羽根と翼』で毎日芸術賞、2006年に『一日 夢の柵』で野間文芸賞をそれぞれ受賞しました。
彼は、1987年から2012年まで芥川賞の選考委員を務めました。現在、毎日芸術賞、伊藤整文学賞選考委員、文化放送番組審議会委員長を務めています。
現在、満92歳です。

主な作品は次の通りです。

『横断歩道』潮出版社 2002
『日の砦』講談社 2004
『石の話 自選短篇集』講談社文芸文庫 2004
『一日 夢の柵』講談社 2006
『老いるということ』日本放送出版協会 2006
『高く手を振る日』新潮社
『時代の果実』河出書房新社 2010
『散歩の一歩』講談社 2011
『老いのかたち』中公新書 2010
『老いのつぶやき』河出書房新社 2012
『生きるということ』河出書房新社 2013
『漂う 古い土地 新しい場所』毎日新聞社 2013
『老いの味わい』中公新書 2014
『老いへの歩み』河出書房新社 2015
『流砂』講談社 2018
『老いのゆくえ』中公新書 2019

災害が発生しますと、高齢者が真っ先に不幸に遭います。東日本大震災においても、多くの高齢者が亡くなりました。残された時間を有効に使うことも出来ず、残念だったことと推察します。ご冥福をお祈りします。
黒井千次さんは、末尾に「老いとは生命のことなのだ。」と書いています。
全く同感です。



「老いとは生命のこと」(全文)

玄関で靴を履こうとして屈み込み、ぐらりと足許が揺れるのを感じた時は、まさかこんな大事になろうと予想もしなかった。
地震は大きかった。震度が二とか三とかいうレベルを超えるものであり、いつになく横揺れが長く続くことに驚き、怯えた。しかしこれまでの経験から、しばらく堪えていればやがて揺れは収まるものだ、と自分に言い聞かせた。そして事実、少し時が経つと横の振動は静まり、道に出て歩けるようになった。電線はまだ大きく波打っていたけれども、どこかで切断された様子はなく、家から外に出て周囲を見回していた人々もまた屋内に戻っていくようだった。
大きな地震となれば津波や火事の起こることは多いかもしれないが、深夜でも明け方でもない昼間なのだから、もし何かあっても適当な対処が出来るだろう、と考えた。つまり心身の動揺は時の経つに従って平静に復し、元の日常が戻ってくるに違いない、と予想した。それがとんでもなく甘い見通しであることを教えられたのが、3月11日(2011年)の東日本大震災だった。
直接はまだニュースがないために、強い地震があった、ということのほかは何も分からなかった。余震があるかもしれないから気をつけよ、という家人の言葉を聞き流し、予定通りに日課の午後の散歩にも出かけた。
その後、東北方面の地震の規模や被害、ついで大津波の襲来をテレビで知るにつれ、とんでもないことが起こってしまっているのに動転した。更に加えて、東京電力の福島第一原子力発電所の被害が報じられると、天災と人間の営みの上の事故とが重なりあったことによって受ける傷の大きさと深さに圧倒されるしかなかった。時が経てば日常に戻る、などといった認識を超える事態に向き合わされていることを痛感した。
テレビ画面などいつ見ても感じるにだが、学校の講堂や公共施設のホールのような広い場所の床に直接身体を触れるに近い状態で避難の時を耐えている人々の姿は痛ましい。自分にそんな苦境を乗り越えることが出来るだろうか、と考えると全く自信がない。
地震の発生から十日ほど経った日の夜中、眠れぬままにラジオを聞いているとニュースが流れた。震災に関わる報道にのなかに、被災地の介護老人保健施設などで入所者の避難が必要となり、施設ごと移動を余儀なくされたのだが、その途中のバスの中で95歳と80歳の女性2人が心肺停止状態となって死亡した、との知らせがあった。劣悪な条件下での緊急の移動であり、やむを得ぬことが重なったのかも知れないが、この報道には暗い衝撃を受けた。翌日の新聞には、同じような施設間の移動で体力消耗のためか15人の高齢者が亡くなった、と報ずる記事もあった。こんな風にしても年寄りは亡くなるのか、とあらためて感じた。
今回のような不意の大災害の場合、老若男女を通じて様々の命が失われた。その中に年寄りが含まれること自体は避けようがない。そこでふと気づいたのは、これまで人間の老いについて考える場合、災害のような不慮の死は視野に入っていなかったのではないか、との発見と反省であった。
老いについて様々に思いを巡らす際、それは自然に進行する微視的な動きの老いと、その結果やがては行き着くであろう終着点としての死を巡る考察が中心であった。しかし、今回のような大規模な災害を前にすると、ただ順路の如き自然の道筋としての老いだけを考えていたのでは足りないのではないか、との苛立ちに似た気分が湧いてくる。
残された歳月という視点から考えれば、子供の生命と老人の生命とは異なる。前者には未来が含まれ、後者にはそれが乏しい。しかし、人が生きているということ自体は同じである。残された大切な命をせっかく一度は救われながら避難中に失うのは何とも無念である。失われた数知れぬ命のことを思いながら、いささか混乱した頭で、老いとは生命のことなのだ、と改めて考える。
(了)


25235664 新井満 作曲・歌唱・文「石川啄木 ふるさとの山に向かいて」について - 岡田 次昭
2024/04/25 (Thu) 08:06:59
新井満 作曲・歌唱・文「石川啄木 ふるさとの山に向かいて」について纏めました。


       岡田 次昭



令和6年4月23日(火)、私は書架から新井満 作曲・歌唱・文「ふるさとの山に向かいて」を出してきました。

この書物は、2007年4月30日、日本放送出版協会から第一刷が発行されました。

100頁の中に有名な短歌が沢山収められて射ます。



この書物を読みますと、新井満さんは、石川啄木に心酔しています。

それに5曲も作曲しています。

素晴らしいことです。



新井満さんは、「はしめに」のところで、次のように書いています。



『夭折の詩人にして歌人、石川啄木は26年と2ヶ月の生涯で約4千首の短歌を遺しました。

その一つ、一つには映像的なドラマ性があり、まるで短編小説のようだ、と評する人もいます。

私は文章を書くかたわら、作曲もいたしますが、ある時、啄木の短歌を眺めているうちに、ふと思いつきました。

(もし啄木の短歌にメロデイーがついたなら、いったいどんな歌になるだろう……)

たぶん一首だけでは、余りに短かすぎて歌にはならないでしょう。

そこで私は、啄木が残した2册の歌集『一握の砂』と『悲しき玩具』のある頁から一首、また別のある頁から一首という具合に4首から6首を選び出し、配列して一つのかたまりを作りました。

そのかたまりにメロディーをつけたのが、本書におさめた5曲の歌です。

これによって啄木の生涯と足跡を、ほぼ辿ることができます。

本書には作曲のために選び出した啄木短歌の全て、全5曲の楽譜と歌詞を掲載し、啄木のふるさと旧渋谷村と、青春の地である盛岡市への訪問記(50枚)を書き下ろしました。

同時期に発表したCDシングルとアルバム『ふるさとの山に向ひて』(ポニーキャニオン)

と共に、本書が、懐かしい啄木の世界探訪のガイドブツクとしてお役に立てていただけるならば、これ以上のヨワ路コビはありません。 著者』



                         記



第1章 ふるさとの山に向ひて



ふるさとの山に 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな



やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに



かにかくに 渋民村は 恋しかり おもひでの山 おもひでの川



ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく



第2章 一握の砂



東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる



潮かをる 北の浜辺の砂山の かの浜薔薇(ハマナス)よ 今年も咲けるや



いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ



大といふ字を 百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて 帰り来れり(キタレリ)



?(ホ)につたう なみだのごはず 一握の 砂を示しし 人を忘れず



第3章 啄木 さすらい



何事も 思ふことなく 日一日 汽車の響きに こころまかせぬ



みぞれ降る 石狩の野の 汽車に読みし ツルゲエネフの 物語かな



忘れ来し 煙草を思ふ ゆけどゆけど やまなほ遠き 雪の野の汽車



さいはての 駅に下り立ち 雪あかり さびしき町に あゆみ入りにき



しらしらと 氷かがやき 千鳥なく釧路の海の 冬の月かな



今夜こそ 思ふ存分 泣いてみむと 泊りし宿屋の 茶のぬるさかな



第4章 啄木慕情



石狩の 都の外の 君が家 林檎の花の 散りてやあらむ



わかれ来て 年を重ねて 年ごとに 恋しくなれる 君にしあるかな



かのときに 言ひそびれたる 大切の 言葉は今も 胸にのこれど



君に似し 姿を町に 見る時の こころ躍りを あはれと思へ



第五章 東京銀座午前二時



春の雪 銀座の裏の 三階の 煉瓦造りに やはらかに降る



夜(ヨ)の二時の 窓の硝子を うす紅く(アカク) 染めて音泣き 火事の色かな



もしあらば 煙草恵めと 寄りて来る あとなし人と 深夜に語る



赤赤と 入り日うつれる 河ばたの 酒場の窓の 

白き顔かな



曠野(アラノ)より 帰るごとくに 帰り来ぬ 東京の夜(ヨ)を ひとりあゆみて

25235661 川上弘美選「精選女性随筆集 幸田文」について - 岡田 次昭
2024/04/25 (Thu) 08:01:38
令和6年4月14日(日)、私は、宮前図書館から川上弘美選「精選女性随筆集 幸田文」を借りてきました。
この書物は2012年2月10日、株式会社文藝春秋から第一刷が発行されました。
253頁の中に沢山の素晴らしい随筆が収められています。
今回は、そのうち、「いのち」について纏めました。

幸田文さんは、明治37(1904)年9月1日、作家の幸田露伴、母幾美(キミ)の次女として東京府南葛飾郡寺島村(現在の東京都墨田区東向島)にて生まれました。
1928年、24歳で清酒問屋三橋家の三男幾之助と結婚し翌年娘の玉(青木玉)が生まれました。しかし、結婚から8年後、家業が傾き廃業となりました。1936年、築地で会員制小売り酒屋を営みましたが、1938年に離婚しました。彼女は若い娘の玉を連れ父のもとに戻りました。
1955年より連載した長編小説『流れる』で1956年に第3回新潮社文学賞受賞、1957年に昭和31年度日本芸術院賞を受賞しています。また、『黒い裾』で1956年に第7回読売文学賞受賞、『闘』で第12回女流文学賞を受賞しました。
1988年5月に脳溢血により自宅で療養しました。
療養の甲斐なく、1990年10月31日心不全のため亡くなりました。
享年87歳でした。

幸田文さんは、女性らしいタッチで竹のことを書いています。
男性ではこのような細かいことは書けないと思います。
さすが幸田露伴の娘さんです。
観察力に優れた文章は素晴らしい。



「いのち」(原文のまま)

竹のようにすくすくと成長する、ということを言う。
まったく勇ましく伸びるのが竹である。
でもあんまり勢いがよすぎると、勇ましいのを通り越した凄さ、おっかなさを感じる。
始めは誰も竹の凄さなどを知らない。
あの姿のよさ、葉ずれの音の爽やかさなどに惚れ込んで、うっかり経験者の言うことを上の空に聞き流して、つい手狭なわが家の庭を忘れて植えてしまう。植えて二、三年は春の筍が頭をもちあげると、すっかり満足で、筍だけは値切らずだなどと悦に入る。
が、そのあとが大変だ。
その土地に定着してだんだんと勢いを増してきた竹は、やがて凄さを発揮せずにはいない。
あるお宅では、真夜中にふと「もの」の気配に御主人が目覚めた。
闇の中に家族の寝息は正常である。
しばらく窺っていると、きききと床の間の見当がきしんだ。
はっとすると音はやんでいる。
しかし、そちらからうすと冷たい風が来て、枕の上の額を撫でた。
冷たい風は間歇的に来る。
と、又、きききときしんだ。
たまりかねて起きてみたら、筍が床の間の畳を二寸も持ちあげていて、ちぇっと思ったという。
ところが、こんな話もある。
あるお宅では前年の玄関の三和土(タタキ)を破られたので、根を切ってそれでいいと思っていた。
すると今年も例年通り、たくさん親根のそばへ筍が出たので、方々へお裾分けなどして喜ばれた。
食べきれない分はすくすく伸びてそれはもう竹の子ではなく竹の若い衆、竹の青年に成長し、清々しく葉をゆすった。
今年竹の美しさだ。
旬の季節は過ぎたのである。
そこの老婦人は夜、風呂へ行って帰りは素足になって来た。帰ってきた。
玄関の畳を一ト足踏むと、なにか畳が浮いている感じがした。
気をつけるとたしかに変だ。
六畳の畳もでこぼこな感じだ。
湯上がりの素足が敏感だったのだ。
やっと筍だと、それでもまだのんきで、畳を上げてみた。
床板がお盆ぐらいな円さにずっぷり濡れていた。
見ると畳の裏もぐっしょりだ。
釘を抜くと板がひとりで持ちあがった。
頭が平べったく潰れた筍がにゅっと濡れて立っていた。得体のしれない生きものに出会った思いであった。
六畳はさらに凄かった。
床下は未来永劫のような暗さと湿りけと冷たさである。
懐中電灯を向けると、おぼろな灯のなかにその不気味なものは、五ッも六ッも、あるいはとんがり、あるいはねじくれて、「生きてるぞう」と無言でいた。
声も出せないくらいぞっとしたという。
死ぬことも恐いが、これは誰も教えてくれた人がない。
竹は、生きる命の不気味を知らせてよこす植物だ。
(了)

25235308 佐治晴夫著『宇宙のカケラ レタス畑の向こうに見えてきたこと』について - 岡田 次昭
2024/04/24 (Wed) 07:48:46
令和6年4月22日(月)、私は、東急田園都市線梶ヶ谷駅にて東急株式会社編「0ALUS(サルース) 」2024年5月号を入手しました。
この小冊子の24頁に佐治晴夫著『宇宙のカケラ 「宇宙のカケラとして生きる」』が掲載されました。
副題は、「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」です。

宇宙の中での地球は、「Pale Blue Dot」に過ぎません。
(注) Pale Blue Dotは、1990年に約60億キロメートルのかなたからボイジャー1号によって撮影された地球の写真です。
太陽系家族写真の1枚として撮影されたこの写真では、広大な宇宙に対して地球は0.12ピクセルの小さな点でしかありません。
ボイジャー1号は当初の目的を達成して太陽系を離れるところでしたが、カール・セーガンの依頼を受けたアメリカ航空宇宙局 (NASA)の指令によってカメラを地球に向け、この写真を撮影しました。
撮影された地球が淡く青い点(a pale blue dot)であったことからこの写真自体が「ペイル・ブルー・ドット」(Pale Blue Dot)と名付けられました。

佐治晴夫さんは、「地球人たちは、自分たちが極めて弱い存在であることを自覚した上で、領土やエネルギー資源を少しずつでも分かち合い、ゆずりあって、相手の尊厳を認め、共存する方向を目指すしかありません。」と書いています。
これを読めば、戦争をしている場合ではないことを当事国の人たちは認識するはずですが、残念ながらこの言葉は彼らには届きません。



『宇宙のカケラ 「宇宙のカケラとして生きる」』 (原文のまま)』

私たちの地球を宇宙から眺めれば、それは漆黒の闇の中に、かすかに光る針の先ほどの青い光の点「Pale Blue Dot」でしかありません。
その地球のすべての営みは太陽が生み出すエネルギーの22億分の1に支えられています。
といっても地上1㎡あたりおよそ500Wですから、太陽のエネルギーがいかに大きいか分かりますね。
そのエネルギーによって温められた地表上や海面から放出される温かい赤外線は、雲の成分である水蒸気(H2O)や空気中の二酸化炭素(C2O)、亜鉛化窒素(N2O)の働きで大気中に蓄積され、地球を温めます。
「温室効果」です。
これらのガスや大気がないと、地球の平均表面温度はマイナス14度くらいになってしまいます。
温室効果ガスは地球が纏っているオーバーコートなのです。
これらのガスは、もともと地球にあったものに加えて、ものの燃焼や地上にまかれた窒素肥料、下水処理などから発生しますが、植物や海を介して吸収され、循環しながら全体量はバランスがとれていました。
しかし、近年の急速な文明化が過剰な温室効果ガスを排出してきたことでバランスが崩れ、地球温暖化をもたらしました。
これは干ばつ化や森林の破壊、森林火災などによる温室効果ガスの増大などの悪循環を起こし、地球の気候変動を生み出していきます。
さらに星が超新星爆発して最後を迎えたときに発生する銀河宇宙線が、地球の上層大気を分解して雲を作ることで温暖化を促進したり、逆に太陽光を遮って寒冷化させたりします。
その度合いは、太陽から放出される太陽風の強弱に左右されるので、人類にとっては不可抗力です。
その一方で、人類による大量の地下水のくみ上げが、ここ20年間で、地球の気候を左右する地軸の傾きを東寄りに80㎝ほど増大させたことが分かっています。
現時点では些少であるとはいっても、人類の営みが、地球の傾きにまで影響を及ぼし初めているという事実は重大です。
かつて、カール・セーガン博士が言ったように、地球が存続の危機にひんするような状況になったとしても、どこからの救援も期待できません。
だからこそ、地球人たちは、自分たちが極めて弱い存在であることを自覚した上で、領土やエネルギー資源を少しずつでも分かち合い、ゆずりあって、相手の尊厳を認め、共存する方向を目指すしかありません。
そのときにこそ、「宇宙のカケラ」としての地球人が、善なる銀河系の一員として認められることになるのでしょう。
宮沢賢治の声が聞こえてきそうです。
――われらに要るものは銀河を含む透明な意志「巨きな(オオキナ)力と熱である。
(了)

(ご参考)

佐治晴夫さんは、昭和10(1935)年、東京にて生まれました。
彼は、立教大学理学部物理学科卒業後、東京大学大学院にて物理学を専攻しました。
東京大学物性研究所、松下電器東京研究所、横浜国立大学、NASA客員研究員、玉川大学教授、県立宮城大学教授などを経て、2004年より2013年まで鈴鹿短期大学学長を務めました。
その後、鈴鹿短期大学名誉教授、鈴鹿短期大学名誉学長に就任しています。
佐治晴夫さんは、今年米寿を迎えられました。
このお歳で立派な文章を書いています。
尊敬すべき人です。
現在88歳です

主な著書は、次の通りです。

『宇宙の不思議』(PHP研究所)
『宇宙のゆらぎ・人生のフラクタル』(PHP研究所)
『宇宙はすべてを教えてくれる』(PHP研究所)
『宇宙の風に聞く』(セルフラーニング研究所)
『宇宙日記』(法研)
『おそらにはてはあるの』(玉川大学出版部、イラスト:井沢洋二)
『星へのプレリュード』(黙出版)
『二十世紀の忘れもの』(雲母書房)
『「わかる」ことは「かわる」こと』(養老孟司との共著)(河出書房新社)
『からだは星からできている』(春秋社)
25234877 「神木山 等覺院訪問記」について - 岡田 次昭
2024/04/23 (Tue) 08:37:37
令和6年4月22日(月)午後2時30分、私は自宅を出て等覺院に向かいました。
私は、梶が谷駅前のバス停から乗車し、神木不動のバス停で下車しました。
この院は、ここから徒歩3分の所にあります。
この神木山 等覺院のツツジは川崎市で最も有名です。
満開の時には、その魅力に引き込まれて、多くの人が撮影と鑑賞を楽しむことが出来ます。
この日は、朝から雨が降っていましたが、午後から曇りになりました。
一部雨滴のついたツツジを撮影できて、私は大いに満足しました。
ここのツツジは本当に美しく、何回訪れても、私は飽きることはありません。
なお、この神木山 等覺院は、喘息を患った方、癌、難病で苦しんでいる方が遠近を問わず参拝することでも有名です。
毎年9月15日に喘息平癒のご祈願を行っています。
なお、写真は撮影順になっています。
残念ながら、写真については、僅か1枚しか添付できません。
(了)
25234873 池田清彦著「騙されない老後 権力に迎合しない不良老人のすすめ」について - 岡田 次昭
2024/04/23 (Tue) 08:32:35
令和6年4月14日(日)、私は、宮前図書館から池田清彦著「騙されない老後 権力に迎合しない不良老人のすすめ」を借りてきました。
この書物は、2021年1月1日、株式会社扶桑社から第一刷が発行されました。
213頁の中に沢山の随筆が収められています。
今回は、そのうち、『何歳から「老後」なのか?』について纏めました。

「老後」の言葉が頭に浮かびますと、それは心身共に「老人」なのです。
そうならないよう、私はよく歩き、パソコンを使って両手で文章を入力しています。
毎日これを実践しますと脳の活性化を図ることができますので、「老人」という言葉は頭に浮かんできません。
それに、12年前から、私は、ロート製薬の「極潤ヒアルロン酸液」を顔使っています。
お陰さまで、シワもシミもありません。
これも若返りのひとつです。

私は、サミュエル・ウルマン(1840年~1924年 ドイツ出身のアメリカの詩人)の詩「青春」をこよなく愛しています。
これを読みますと、若返ったような気持になります。
末尾にその素晴らしい詩を記載しておきます。

池田清彦さんの経歴は次の通りです。

1947年 東京都足立区に生まれる
1963年 足立区立第四中学校卒業
1966年 東京都立上野高等学校卒業
1971年 東京教育大学理学部生物学科動物学専攻卒業。
1977年 東京都立大学大学院理学研究科博士課程(生物学専攻)単位取得満期退学
1978年 東京都立大学から理学博士の学位を授与される
1979年 1981年 : 山梨大学教育学部講師
1981年 1990年 : 山梨大学教育学部助教授
1993年 1994年 : オーストラリア国立博物館客員研究員
1990年 2004年 : 山梨大学教育学部(1998年より教育人間科学部に改組)教授。
2004年 早稲田大学国際教養学部教授、山梨大学名誉教授
2015年 TAKAO 599 MUSEUM名誉館長。
2018年 早稲田大学名誉教授
彼は、日本の生物学者(構造主義生物学・理論生物学)、科学・社会・環境問題評論家です。
専門の生物学をはじめ、進化論、科学論、環境問題、脳科学などを幅広く論じています。
構造主義を生物学に当てはめた構造主義生物学の支持者のひとりとして知られています。

主な著書は、次の通りです。

『本当のことを言ってはいけない』KADOKAWA〈角川新書〉、2020年
『環境問題の噓 令和版』エムディエヌコーポレーション〈MdN新書〉、2020年
『騙されない老後 権力に迎合しない不良老人のすすめ』扶桑社〈扶桑社新書〉、2020年
『どうせ死ぬから言わせてもらおう』KADOKAWA〈角川新書〉、2021年
『平等バカ-原則平等に縛られる日本社会の異常を問う-』扶桑社〈扶桑社新書〉、2021年



『何歳から「老後」なのか?』

「老後」と聞いてイメージするのは、55歳で定年を迎えたあと、ひたすら毎日大好きな釣に出かけていた叔父のことだ。
当時まだ子どもだった僕に55歳を過ぎた叔父は立派な「叔父さん」で、55歳まで頑張って仕事をすれば、「老後」は好きなことをして生きていけるのだなと思っていた。
しかし、1994年の法改正(高年齢者の雇用の安定に関する法律)で、1998年からは60歳未満定年制が禁止された。
その後、2012年には改正高年齢者雇用安定法が成立し、定年を迎えても本人が希望すれば、65歳まで継続雇用することが企業に義務付けられた(施行は2013年4月) 。
公的年金の支給開始も段階的に引き揚げられ、昭和36(1961)年4月2日生まれの男性、昭和41(1966)年4月2日以降生まれの女性は全額65歳からの支給となることが既に決まっている。
これらの状況に鑑みると、65歳以降辺りを「老後」と呼ぶのが昨今の社会的な感覚なのかもしれない。
一方で、個人的な感覚としての「老後」、つまり自分を「老人である」と自覚する年齢は人それぞれのようだ。
60歳になった瞬間から「ああ、いよいよ自分は老人になったのだな」と考える人もいれば、80歳になっても老人と呼ばれるのを嫌がる人もいる。
ただ、ある年齢に達した時に、その時の自分がどのように感じるかは、実際にその年齢になってみないとわからない。
今から20年ほど前、友人で解剖学者の養老孟司を誘い、当時、勤めていた山梨大学の教え子たち数人と一緒にベトナムの田舎に虫採りにいった。
その時、宿の裏手の畑でせっせと虫を探すベトナム初心者の養老さんの姿を見て、既に何度もベトナムを訪れてその畑にはたいした虫がいないことを知っている私たちは、「裏の畑の養老さんは、今年60のおじいさん。年は取っても虫採る時は、元気いっぱい綱を張る」なんて歌いながら笑っていた。
当時50歳そこそこだった私からすれば、60歳の養老さんは立派な「おじいさん」だったので、若い人たちと一緒になって笑っていたのだが、いざ自分が60歳になった時には「なんだこんなもんか」と拍子抜けした。
自分が想像していた60歳のイメージとは大きく異なり、心身共に衰えたという感覚はなかったからだ。
もちろん若いころと同じではないものの、「若くはない」ことと「 老人」は、イコールではない。
僕も「もう若くはないのだな」と葉薄々感じていたけれど、だからといって「老人」に足を踏み入れたいという実感は全くなかった。もしも20年前の養老さんのように年寄り扱いされるようなことがあれば、かなり心外な気分になったに違いない。
そう考えると、あのとき養老さんには悪いことをしたな、と思う。
その後、65歳を越えても年を取ったという感覚はあまりなく、「なんだ、年を取るったってたいしたことねえな」と思っていた。
ところが、70歳で早稲田大学を退官して暫くたった頃から、「若くはない」ではなく、「ああ、年を取ったなあ」というふうに感じることが増えてきた。
虫を捕まえようにも追いつけず、逃げられてしまうことが増えたのだ。
山に登る時も長い階段を見るとうんざりするようになった。
登山口で杖が貸し出されているのが目に止まり、一緒に行ったカミさんからの「途中で絶対邪魔になるから」と言う忠告を聞かずについ手を出してしまったこともある(結局、やはり邪魔になり、カミさんの言うことを聴いておけばよかったと後で後悔したのだが)。
さらに73歳になった今年はコロナ禍で外出もままならなくなり、ぐーたら過ごしていることでさらに体が衰えとしまったような気がしている。
もちろん、それでも80になった時に振り返れば(生きて入ればの話だが)、「あの頃はまだまだ若かったなあ」と思うのだろうが、いずれにしろ僕は既に「老後」を生きているのだと認めるほかない。
(了)

(ご参考)

青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心
安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ

年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる
歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ
苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、
精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か

曰く「驚異えの愛慕心」空にひらめく星晨、その輝きにも似たる
事物や思想の対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く
求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。

人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大そして
偉力と霊感を受ける限り、人の若さは失われない
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、
皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ
人は全くに老いて神の憐れみを乞う他はなくなる

英文

【YOUTH Samuel Ullman 】

“Youth is not a time of life-it is a state of mind;
it is a temper of the will,
a quality of imagination,
a vigor of the emotions,
a predominance of courage over timidity,
of the appetite for adventure over love ease.

No body grows only by merely living a number of years;
peoples grow old only by deserting their ideals.
Years wrinkle the skin,
but to give up enthusiasm wrinkles the soul.
Worry, doubt ,self-distrust,
fear and despair-these are the long ,
long years that bow the head and turn the growing spirit back to dust.

Whether seventy or sixteen,
there is in every being’s heart the love of wonder,
the sweet amazement at the stars and the starlike things and thoughts,
the undoubted challenge of events,
the unfailling childlike appetite for what next,
and the joy and the game of life.

you are yang as your faith,
as old as doubt ;
as young as your self-confidence,
as old as your fear;
as young as your hope,
as old as your despair.

So long as your heart receives messages of beauty,
cheer,
courage,
grandeur and power from the earth,
from man and from the Infinite so long as your young.

When the wires are all down and all the central place of your heart is covered with the snows of pessimism and the ice of cynicism,
then you are grown old indeed and may God have mercy on your soul.”
25234454 杉浦日向子著「隠居の日向ぼっこ」について - 岡田 次昭
2024/04/22 (Mon) 08:48:19
令和6年4月14日(日)、私は宮前図書館から杉浦日向子著「隠居の日向ぼっこ」を借りてきました。
この書物は、2005年9月15日、株式会社新潮社から第一刷が発行されました。
179頁の中に沢山の随筆と絵が収められています。今回は、そのうち、「浮世絵」と「手拭」について纏めました。
杉浦日向子(スギウラ ヒナコ)さんは、昭和33(1958)年11月30日、東京・日本橋で開業する呉服屋の娘として港区芝にて生まれました。
日本大学鶴ヶ丘高等学校時代に大相撲が好きになり、特に魁傑のファンになる(のちに魁傑の弟子の大乃国の大ファンにもなっています)。
そのうえ、数学や物理が好きな理系少女でもありました。
高校卒業後、アート・ディレクターを志望して日本大学芸術学部にエスカレーター入学しました。
しかし講義に興味が持てず、1年で中退しました。
家業を手伝いながら、手描きの友禅の勉強をしました。
やがて、独学で勉強できる「時代考証」に興味を抱き、朝日カルチャーセンターでの稲垣史生の「時代考証教室」に通い、その熱心さに稲垣に正式な「弟子」として認められ、稲垣の川越の自宅に3年間通いました。
22歳の時、雑誌『ガロ』1980年11月号で、吉原を題材にした『通言・室之梅』(ツウゲン・ムロノウメ)で漫画家としてデビューしました。
時代考証が確かな作品で、その作風は文芸漫画と呼ばれました。
同じ『ガロ』出身のやまだ紫、近藤ようこと「ガロ三人娘」と呼ばれました。
彼女は、徐々に他の雑誌等でも執筆するようになり、1980年代の「江戸ブーム」も追い風となり、人気を集めました。
浮世絵を下地にした独特な画風に特徴があり、江戸の風俗を生き生きと描くことを得意としました。
漫画家としての代表作には、実業之日本社の雑誌「漫画サンデー」で1983年11月15日号から連載の葛飾北斎と浮世絵師たちの世界を描いた連作短編集『百日紅』、月刊誌小説新潮で1986年から1993年まで、99話の怪談を描いた『百物語』があります。
1986年から1988年まで、小学館の雑誌「ビッグコミックオリジナル」に挿絵入りのコラム「一日江戸人」を連載(38回、その後単行本化。)、同誌1984年度の増刊号には漫画「閑中忙あり」(3回)を寄稿しています。
1993年に漫画家引退宣言をし、「隠居生活」をすると発表しましたが、実際は骨髄移植以外に完治する方法のない血液の免疫系の病を患っていました。
体力的に無理が利かないために漫画家引退を余儀なくされていたことが、死後明らかにされました。
『コメディーお江戸でござる』(NHK総合テレビ)では江戸の歴史、風習についての解説コーナーを担当していました。2004年春に『コメディー道中でござる』へ番組がリニューアルしたのを期に、作家の石川英輔に解説役をバトンタッチしました。
2005年7月22日、彼女は下咽頭癌のため死去しました。享年47歳でした。

私は、文章そのものよりも、浮世絵を下地にした独特な画風に興味を持ちました。
私は、よくぞここまで描けたものと感心いたしました。



「隠居の日向ぼっこ」(一部)

1. 浮世絵

写真が発明される以前の日本では、浮世絵が唯一のビジュアルメデイアだった。
今では立派な美術品扱いだが、そもそも浮世絵は、複製を多部数刷ることを前提にして、なりたつ情報媒体であり、ウケることならなんでもやる、テレビのバラエティ番組ばりのノリが、身上なのだ。
色彩、構図、描線等の、芸術的評価は、後世の人間のおせっかいというもの。当時は、世間の評判を得て、一気にたくさん売って、勝ち逃げするのが、最高の栄誉だった。
政治諷刺から、天災、事件、事故、芸能情報、際どいスキャンダルまで俎上に載せ、エンターテインメントとして組み立て、鮮やかに魅せる。粋で、お洒落で、贅沢な、プロ集団のお手並みが、存分に発揮される。絵画として見てしまうと、絵師の名ばかり云々されるが、実際は共同作業の工房だ。プロデューサーである版元を核に、絵師、彫り師、刷り師がヒットを狙って画策する。浮世絵からは、いつも時代の最先端の風が吹いてくる。浮世絵は「江戸錦絵」と呼ばれ、江戸の特産品でもあった。重くなく嵩張らず、故郷への土産にうってつけだ。いま江戸で何が流行しているのか、一目で分かるから、帰郷の際の話にも花が咲く。人気のスターやアイドルのファッション、話題のスポット、噂の数々がてんこもりに詰まっている。
ただし、タブロイドとは違い、それは愛蔵され、長く記憶を反芻させた。繰り返し再生されるビデオのように、作品として確立していたのだ。すっぱ抜きスクープ映像の生硬さとは比較にならない、成熟したメデイアだ。

2. 手拭

祖父に続いて祖母が亡くなった後、箪笥や行李を母と整理していたら、のし紙のかかったもの、未使用の古い手拭が山と出てきた。酒屋、米屋、信用金庫、銀行、記念品、落成式、開店、お稽古会、冠婚葬祭、すべて「粗品」か「志」の頂きものだ。
手拭が、いかに、誰にあげても喜ばれて、いくらあっても邪魔にならない日用品であったかがわかる。今主駄句の手拭は、頂きものはごくわずか。殆ど好みで購入した十数枚。それも額に入れたインタリアや、半分に切ってランチョンマットやおしぼりにしたり、キルティングしてボットウォーマーにしたりといった、「和風小物」でしかなく、日用品というより趣味色が濃い。
かつて、手拭は万能の布だった。名前通りの水気をとるための機能にとどまらず、頭に被れば、頭巾や帽子や鉢巻に、肩や膝にかけてケープやナプキン、腰に巻けば簡単な帯、首ならマフラーやスカーフ、縦四つに折って肩に縫い合わせれば、祭礼のときに一際目立ついなせなファッション。たくさん集めて縫い合わせれば、個性的な浴衣になる。
江戸に「たなひくあはせ(手拭合わせ)」という催しがあった。手拭デザインを公募して優劣を競うもので、各界の著名人も挙って参加した。見目の良さだけではなく、機知に富むひねりがなければ入賞できない。ブランドのネームバリューや流行とは無縁の、ひそやかな通の楽しみがある。「他所行き」にではなく、「普段」にこそお洒落をする。手拭は、その最先鋒だった。ハンカチでもタオルでもスカーフでもなく、お気に入りの手拭一枚しのばせて、街へ繰り出そう。
(了)
25234019 添田清美著「仏門に入るために生まれたような人」について - 岡田 次昭
2024/04/21 (Sun) 09:17:40
令和6年4月14日(日) 、私は宮前図書館から添田清美著「今ある自分にありがとう 高野山に生きて97歳 」を借りてきました。
この書物は、2017年5月26日、株式会社宝島社から第一刷が発行されました。
191頁の中に彼女の素晴らしい言葉が収められています。
今回は、そのうち、「仏門に入るために生まれたような人」について纏めました。
巻末に彼女のプロフィールが次のように記載されています。

『添田清美さんは、大正9(1920)年4月に和歌山県にて生まれました。
旧姓・土生川です。
高野山で生まれ幼少期を過ごし、尋常小学校、橋本高等女学校を経て昭和11(1936)年に東京女子大学英文学部に入学しました。
卒業後は横浜正金銀行に勤めた後、高野山に戻り、昭和21(1946)年に25歳で真田家ゆかりの蓮華定院(レンゲジョィン)に嫁ぎました。
以来72年間に亘り「英語の話せる宿坊の奧さん」として国内外からの参拝客をもてなし続けています。』

この書物は、彼女の97歳の時に書かれました。
このお歳で文章を書くことができる人は稀です。
普通の人であれば、90歳を越えますと、三度の食事と寝ることを楽しみにして生活していると思います。
添田清美さんは、尊敬すべき素晴らしい女性です。
残念ながら、添田清美さんは、2021年12月11日、老衰により亡くなりました。
享年102歳でした。

余談ながら、私の母も、享年102歳でした。
亡くなるまで、1合のお酒を1時間ほどかけて毎日飲んでいました。
飲むというよりも、「舐める」という表現の方が正しいと思います。



「仏門に入るために生まれたような人」(全文)

現在の蓮華定院の住職の父親、そして、私の主人はとても心穏やかで理知的で、俗気のない、仏門に入るために生まれてきたような人でした。
主人と縁があって伴侶となれたことはとても幸せなことでした。
私が蓮華定院に嫁いだのは1946(昭和21)年のことでした。戦時中の高野山は参拝者もめっきり減ったのですが、海軍航空隊が賃借したことで、その賃貸料でどうにかやりくりしていたようです。
戦後になると、経済政策のひとつの大きな出来事として新円切り換えがありました。
蓮華定院でも信者様から恵みの心づけとして、為替が送られてきました。
その為替を随分貯めていたのですが、新円切り換えの際に紙切れ同然になってしまいました。それでも主人は笑って「ほら、これやるわ」と話していたほどです。
主人とお金にまつわるエピソードは他にもあります。
昔は、高野山の住職には高野山で利用される公共交通である南海電鉄やバス会社の定期券が発行されていました。
あるとき、大雨が降っている日にひどい暴風雨になってきて当時は自家用車もありませんから、バスに乗っていくほかありません。
そのとき、主人は運賃に現金を持って行こうとしたわけです。私は、「あら、現金を持って行かなくてもパスがあるでしょう」と尋ねると、たまたま発行の合間だったのか、定期券がないから現金で乗ると言うのです。
私は家計も宿坊の財布も預かる身ですから、些細な額ですけれども、滅多に乗らないバスでわざわざ現金を使う必要もないでしょうと思ったのです。主人のことはバス会社の人が知っているわけですから、おかしな話、運転手さんに事情を話せばそれで済んだと思うのです。
そういうやり取りをするうち、主人は「それなら歩いていく」と大雨のなか、家を出て行ったのです。
直接話したわけではないですけれども、お金に対して無頓着であり、私から見ると、一方で金欲を忌避していたのだと思います。
さすがに息子である今の住職や、その息子である私の孫たちの金銭感覚は幾分か現代的になってはいます。
しかし、心意気と言いましょうか、性分なんかは主人のものを受け継いでいるように見えます。皆心穏やかで優しいです。他者に対する攻撃性のようなものはまったくありませんでした。主人も息子も宗教家になるために生まれてきたような人です。
本当によい縁に恵まれたと思います。
(了)