令和6年11月11日(月)、私は書架から「HARP of BURMA」を出してきました。
原作者は、竹山道雄です。翻訳者は、Howared Hibbettです。
この書物は、1966年、CHARLES E.TUTTLE CO.から第一刷が発行されました。
この書物は132頁で構成され、易しい英語で書かれています。
高校生以上の学力があれば、容易に読むことができるでしょう。
中には、難しい英単語が登場して、翻訳するのに困る場合があります。
たとえば、disembarked (上陸した) 、frivolous(くだらない)、iridescent(にじ色の、玉虫色の)等の英単語がそれです。
英和辞典を引いてこれらの意味を確認すれば問題は解決します。
この書物は1946年の夏から書き始められ、童話雑誌『赤とんぼ』(実業之日本社)に1947年3月から1948年2月まで掲載されました。
1948年10月に中央公論社から同題の単行本として出版されました。
この小説は、ビルマ(現在のミャンマー)を舞台としています。
市川崑の監督によって、1956年と1985年に2回映画化されました。
そして、各国語にも訳されています。
竹山道雄さん、1903年7月17日、大阪市にて生まれました。
幼少期は父の転勤に伴い、1907年から1913年まで京城(現在のソウル)で過ごしました。東京府立第四中学校、
第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科に入学し、1926年に同大学を卒業しました。
太平洋戦争後、彼は、第一高等学校が学制改革によって新制東京大学教養学部に改組されることとなり、改組後間もない1951年に東京大学教授を退官しました。
上智大学など諸大学での講師を務めつつ、ヨーロッパ各地やソ連を度々訪問しました。
創作活動の面では〈生成会〉同人として、機関誌『心』(月刊誌、1948-81年)に大きく参与しました。
晩年の1983年に日本芸術院会員になりました。
彼は、戦前のナチズム・軍国主義と戦後の左翼的風潮には同質性(専制と狂信)があるとして嫌悪し、自由主義者としての立場を堅持しました。
1984年6月15日、彼は肝硬変のため東京厚生年金病院にて亡くなりました。
享年82歳でした。
没後、叙正四位、勲三等瑞宝章を追贈されました。
主な著書は、次の通りです。
『ビルマの竪琴』中央公論社(ともだち文庫) 1948
『日本人と美』新潮社 1970
『乱世の中から 竹山道雄評論集』読売新聞社 1974
『みじかい命』新潮社 1975
『歴史的意識について』講談社学術文庫 1983
『主役としての近代』講談社学術文庫 1984
『尼僧の手紙』講談社学術文庫 1985
『昭和の精神史』講談社学術文庫 1985
『昭和の精神史』中公クラシックス 2011
記
「あらすじ」は、概ね次の通りです。(インターネットより引用)
1945年7月、ビルマ(現在のミャンマー)における日本軍の戦況は悪化の一途をたどっていました。
物資や弾薬、食料は不足し、連合軍の猛攻になす術がありませんでした。
そんな折、日本軍のある小隊では、音楽学校出身の隊長が隊員に合唱を教えていました。
隊員たちは歌うことによって隊の規律を維持し、辛い行軍の中も慰労し合い、さらなる団結力を高めていました。
彼ら隊員の中でも水島上等兵は特に楽才に優れ、ビルマ伝統の竪琴「サウン・ガウ」の演奏はお手の物で、部隊内でたびたび演奏を行い、隊員の人気の的でした。
さらに水島はビルマ人の扮装もうまく、その姿で斥候に出ては、状況を竪琴による音楽暗号で小隊に知らせていました。
ある夜、小隊は宿営した村落で印英軍に包囲され、敵を油断させるために『埴生の宿』を合唱しながら戦闘準備を整えました。
小隊が突撃しようとした刹那、敵が英語で『埴生の宿』を歌い始めました。
両軍は戦わないまま相まみえ、小隊は敗戦の事実を知らされました。
降伏した小隊はムドンの捕虜収容所に送られ、労働の日々を送りました。
しかし、山奥の「三角山」と呼ばれる地方では降伏を潔しとしない日本軍がいまだに戦闘を続けていました。
彼らの全滅は時間の問題でした。
彼らを助けたい隊長はイギリス軍と交渉し、降伏説得の使者として、竪琴を携えた水島が赴くことになりましたが、、彼はそのまま消息を絶ってしまいました。
収容所の鉄条網の中、隊員たちは水島の安否を気遣っていました。そんな彼らの前に、水島によく似た上座仏教の僧が現れまし。
彼は、肩に青いインコを留らせていました。隊員は思わずその僧を呼び止めましたが、僧は一言も返さず、逃げるように歩み去りました。
大体の事情を推察した隊長は、親しくしている物売りの老婆から、一羽のインコを譲り受けました。
そのインコは、例の僧が肩に乗せていたインコの弟に当たる鳥でした。
隊員たちはインコに「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」と日本語を覚えこませました。
数日後、隊が森の中で合唱していると、涅槃仏の胎内から竪琴の音が聞こえてきました。それは、まぎれもなく水島が奏でる旋律でした。
隊員たちは我を忘れ、涅槃仏の胎内につながる鉄扉を開けようとしましたが、固く閉ざされた扉はついに開きませんでした。
やがて小隊は3日後に日本へ復員することになりました。
隊員たちは、例の青年僧が水島ではないかという思いを捨てきれず、彼を引き連れて帰ろうと毎日合唱しました。
歌う小隊は収容所の名物となり、柵の外から合唱に聞き惚れる現地人も増えたが、青年僧は現れない。
隊長は、日本語を覚えこませたインコを青年僧に渡してくれるように物売りの老婆に頼みました。
出発前日、青年僧が皆の前に姿を現しました。
収容所の柵ごしに隊員たちは『埴生の宿』を合唱しました。
ついに青年僧はこらえ切れなくなったように竪琴を合唱に合わせてかき鳴らしました。
彼はやはり水島上等兵だったのです。
隊員たちは一緒に日本へ帰ろうと必死に呼びかけました。
しかし彼は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』を弾きました。
日本人の多くが慣れ親しんだその歌詞に「今こそ別れめ!(=今こそ (ここで) 別れよう!)いざ、さらば。」
と詠う別れのセレモニーのメロディーに心打たれる隊員たちを後に、水島は森の中へ去って行きました。
翌日、帰国の途につく小隊のもとに、水島から1羽のインコと封書が届きました。
そこには、彼が降伏への説得に向かってからの出来事が、克明に書き綴られていました。
水島は三角山に分け入り、立てこもる友軍を説得するものの、結局その部隊は玉砕の道を選びました。
戦闘に巻き込まれて傷ついた水島は崖から転げ落ち、通りかかった原住民に助けられました。
ところが、実は彼らは人食い人種でした。
彼らは水島を村に連れ帰り、太らせてから儀式の人身御供として捧げるべく、毎日ご馳走を食べさせました。
最初は村人の親切さに喜んでいた水島でしたが、水島は事情を悟って愕然としました。
やがて祭りの日がやってきました。
盛大な焚火が熾され、縛られた水島は火炙りにされるところでした。
ところが、不意に強い風が起こり、村人が崇拝する精霊・ナッの祀られた木が激しくざわめきだしました。
村人たちは「ナッ」のたたりを恐れ、慄きました。
水島上等兵はとっさに竪琴を手に取り、精霊を鎮めるような曲を弾き始めました。
やがて風も自然と収まり、村人は「精霊の怒りを鎮める水島の神通力」に感心しました。
そして生贄の儀式を中断し、水島に僧衣と、位の高い僧しか持つことができない腕輪を贈り、盛大に送り出してくれました。
ビルマ僧の姿でムドンを目指す水島が道々で目にするのは、無数の日本兵の死体でした。葬るものとておらず、無残に朽ち果て、蟻がたかり、
蛆が涌く遺体の山に衝撃を受けた水島は、英霊を葬らずに自分だけ帰国することが申し訳なく、この地に留まろうと決心しました。
そして、水島は出家し、本物の僧侶になりました。
水島からの手紙は、祖国や懐かしい隊員たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意で結ばれていました。
(了)
(ご参考)
「HARP of BURMA」
1. 最初のところ
We certainly did sing. Whether we were happy or miserable, we sang.
Maybe it's because we were always under the threat of battle, of dying, and felt we wanted to do at least this one thing well as long as we were still alive.
Anyway, we sang with all our hearts.
2. 最後のところ
We sang together softly.
The sound of the waves enveloped our ship. We could almost hear the music of a harp rise out of the flying spray.
The ship sailed slowly on, day after day.
Morning and evening we gazed into the clouds ahead of us, wondering how soon we would see Japan.