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松山高女および松山南高校同窓会関東支部の専用掲示板「末広帖」です。関係者以外の投稿はご遠慮ください。

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25307333 神谷美恵子著「美しい老いと死」について - 岡田 次昭
2024/11/19 (Tue) 08:28:16
令和6年11月16日(土)、私は高津図書館から神谷美恵子著「本、そして人」を借りてきました。

この書物は、2005年6月27日、株式会社みすず書房から第一刷が発行されました。

349頁の中に彼女の随筆が沢山収められています。

今回は、その内、「美しい老いと死」について纏めました。

著者の神谷美恵子さんは、大正3(1914)年1月12日、岡山市にて生まれました。

彼女は、昭和15(1940)年2月からコロンビア大学医学進学課程に入学しました。

翌年太平洋戦争の勃発を危惧した一家は、父を残して帰国し、美恵子は東京女子医学専門学校本科に編入学しました。

昭和19(1944)年秋に女子医専を卒業すると、彼女は東京帝国大学精神科医局へ入局して、内村祐之教授のもとで、精神科医としての教育を開始しました。

昭和20(1945)年3月11日の東京大空襲によって、東中野の実家は全焼し、家族がみな疎開するなか一人で精神科病棟に移り住んで患者の治療に当たりました。

昭和20(1945)年8月に日本はポツダム宣言を受諾しました。

父の前田多門は東久邇宮内閣において文部大臣に抜擢され、美恵子はその仕事を手伝うために父の秘書としてGHQとの折衝および文書の翻訳作業などに従事することになりました。

戦時中の新潟県知事としての勤務を大政翼賛会に関係していたとして咎められた多門は翌年1月に辞職しましたが、

美恵子はその後も後任の安倍能成大臣の要請で文部省における仕事を続け、事務嘱託の身分でGHQ教育情報部との折衝にあたりました。

語学の才が他に代え難かったことから、大臣よりも高額の俸給を受け取っていたと言われています。

昭和21(1946)年7月に、彼女は、東京帝国大学理学部の講師を務めていた植物学者神谷宣郎と結婚しました。

二人は世田谷に新居を構えた後、上北沢へと転居し、ここで長男の律が誕生しました。

結婚後十年ほどの間の暮らしは戦後の物資不足や次男の粟状結核などもあり、極めて苦しいものでした。

昭和24(1949)年に夫の宣郎は大阪大学教授に招聘され一家は大阪へと移りました。

12月には次男の徹も生まれ、主婦として多忙な生活を送る一方で、以前愛読したマルクス・アウレリウスの『自省録』の翻訳書を創元社から出版しました。

昭和29(1954)年に初期のガンが発見され、ラジウム治療を受けました。

昭和32(1957)年に、長島愛生園におけるハンセン病患者の精神医学調査を開始しました。

この業績をもとに昭和35(1960年)に大阪大学で学位を取得し、神戸女学院大学の教授に任命されました。

さらに昭和38(1963)年からは母校の津田塾大学教授に就任しました。

精神医学およびフランス文学などの講義を担当しており、芦屋の家から岡山県と東京を往復する生活を続けていました。

昭和40(1965)年からは、長島愛生園の精神科医長に就任し、自宅から療養所へと通って治療にあたりました。

昭和47(1972)年に心臓を悪くして以降は、心身に大きな負担を強いていた愛生園での仕事を辞め、家庭と執筆を中心として生活していましたが、

晩年の数年は十数回にわたる入退院を繰り返し、昭和54(1979)年10月22日、心不全のため、65歳で亡くなりました。

彼女は、「戦時中の東大病院精神科を支えた3人の医師の内の一人」、「戦後にGHQと文部省の折衝を一手に引き受けていた」、

「美智子皇后の相談役」などの逸話でも知られています。



神谷美恵子さんは、星野あい、田島道治、三谷降正など著名人と知り合いになり、様々恩恵を蒙っています。

凡人では到底望めない素敵な出会いを経験しています。



                          記



「美しい老いと死」(全文)



生まれ落ちると間もなく大病を患い、それから約二十年ごとに「死に到りうる病」にかかってきた私は、今年還暦を迎えてなお生かされているのを不思議に思う。

多くの優れた知人・友人が夭折しているのに、どういうわけだろう、と訝しく感じると同時に、生きるのを助けてくれた母を始め、多くの人やものごとに感謝の念が湧く。

病が癒されるたびに、その後の生命を「余生」と呼んで人に笑われたこともあるが、今はこういう言葉を使ってもおかしくないだろう。

ようやく暑さが去って、澄んだ静かな秋を迎えようとするとき、いつものように「敬老の日」が巡って来る。

どうか一日だけの行事に終わることなく、多くの恵まれない老人のために、できる限りの助けがさしのべられるようにと願う。

老いも死も美しく、みごとなものであり得ることを、私はいくたりかの恩師に身をもって示された。

ここでは二人の方のことを述べてみよう。

一人は津田塾大学の二代目学長・星野あい先生。

1972年に88歳で亡くなられたが、晩年、おからだが不自由になられてからは、東中野のお宅で歌など作って静かに過ごされていた。

時々お尋ねすると、いつもふくよかな笑みをたたえて、こちらの近況や大学のことなどをたずねて下さり、少しも過去の思い出話などなさらなかった。

「私はね、一生独身できたので子どももいないけれど、その代わり大勢の卒業生がみな私の子どもで、

皆さんよく訪ねて下さるので、幸せですよ」と明るく言われたことがある。

年と共に偉大なる慈母と呼ぶに相応しい存在になっていかれたように思う。

亡くなられる少し前、聖ルカ病院にお見舞いすると、先生は両鼻腔に管を挿入されて酸素吸入をしておられたが、

意識ははっきりしており、いつもの微笑みをたたえ、麻痺していない方の手で私の手を握り、「ありがとう」と言われた。

私は胸が一杯になり、何を言ったらいいかと一瞬戸惑ったが、ふいにこんな言葉が飛び出してきた。

「先生、今度また集中講義に出てきたのですけれど、講義の後で話にくる学生さんたちは、とてもかわいいのですよ」

「そう、よくかわいがってやってちょうだいね」と先生は嬉しそうに言われた。

これがこの世で先生との最後の別れだった。

もうひとりは田島道治先生。

晩年に六年間宮内庁長官を務めてから勇退され、さらに十二年間、野に在って、種々の重い任務につかれてから1970年に亡くなられた。

先生とのご縁と言えば、私が生まれる前に遡る。

先生と父(前田多門)とは一高で一緒だったし、ともに新渡戸稲造先生に傾倒していたから、父にとって先生は生涯の大切な友であられたのであろう。

先生は「何もかも見抜いてしまう」鋭い頭脳の持ち主だ、と父は常に言っていた。

優れた銀行家であられたばかりでなく、早くから孔子を深く研究しておられ、その道義感覚は研ぎ澄まされていた。

そのためか、先生は父を含めて、わが家全体の隠然たる「目付役」であられたように思う。

それで私は長い間、先生のことを何となく「こわい人」と思っていた。

先生は名利をきらうこと甚だしく、いろいろな重要な事柄の縁の下の力持ちになるほうを好まれたようだ。

戦争で焼き出されてからは目白の徳川家の一隅に仮住まいをしておられた。

銀行を引退され、野に在られた頃であろうか。何かのことで先生のところへ使いに行ったとき、

広くがらんとした座敷に端然と座って机に向かい、書きものをしておられた。傍らには分厚い書物がうず高く積まれていたのを思い出す。

その後、外国人の孔子研究書を訳して出版されたから、あるいはその時、そういう仕事をしておられたのかも知れない。

敗戦で混乱を極めている時代だったから、大木の茂る庭に面して静かに思索しておられる先生のお姿は、何か別世界のもののように思われた。

「こわい先生」がいつのころからか「やさしい先生」に変貌されたのは、どういうことだったのだろう。

終戦直後の十ヶ月間、私は文部省で手伝いをさせられていたが、そのころ先生はちょいちょい私の部屋に立ち寄られ、言葉少なに貴重な忠告や励ましを与えてくださった。

その時はすでに「やさしい先生」であった。

やがて先生は宮内庁の仕事につかれ、麻布に新しい家を建てられた。この長官という役目の内容や意味を私は少しも知らないのだが、

ともかく「かしこきあたり」に出入りされるようになっても、先生は少しも変わらず、それまでと同じように謹厳で、やさしさに満ちておられた。

友人の娘に過ぎない私に対して、親代わりのような存在になって下さったのは、父が1962年に亡くなってからのことだったと思う。

もうひとりの恩師、三谷降正先生とは、思想の違いにもかかわらず肝胆相照らす仲だったと、田島先生から伺ったことがあるが、そう言えばお二人に共通するところが幾つもあった。

三谷先生は五十代に亡くなられたので、老いは経験されなかったと言えよう。

私は務めのために、時々関西から上京していたが、しばしば田島先生が、七十代後半の御身をもって、

ひとり新幹線のプラツトフォームに迎えてくださるのには驚いた。何度かお宅で差し向かいにご馳走になったが、

奥様はだまって、ニコニコとお給仕をしてくださるので、これまた恐縮で身が縮む重いがしたものだ。こういう時、先生は色々と質問された。

「論語には仁という言葉がありますが、キリスト教の愛とどう違いますか」

こういう類の難問にこちらはただへどもどし、先生は何か取り違えておられるのではないかと、と時々考えた。

しかし、いつまでも若々しい探求心、そして若い者の考えを聞こうとされる心のしなやかさに、感銘するばかりだった。

宮内庁での六年間、公人としてどういう貢献をされたかは全く口にされなかったし、ジャーナリズムに乗ることもなかったから私には全くわからない。

ただ与えられた難しい任務に全力投球しておられることだけは推察できた。

厳しく自己規制をしておられた先生も、八十代の前半にとうとう病む日々を迎えられた。最後に病院に伺うとき、

先生は酸素テントに入っておられたが、おそばに立つと自らの手でテントを押し上げ、お顔を近づけて真剣な表情で言われた。

「私のことはね、心配しないでいいから、あのことだけは頼みますよ、いいですか」

「あのこと」とは全く公のことであった。みごとな老人というものは、死に際しても公のこと、他人のことを心にかけているものだ。

苦しい呼吸の中での、あの言葉の迫力に私は今なおたじたじとしている。

(讀賣新聞 1974年9月25日、『著作集6 存在の重み』 1981年に所収)




25307331 長田弘著「ことばの果実」について - 岡田 次昭
2024/11/19 (Tue) 08:26:36
長田弘著「ことばの果実」について
25306351 楽書ブックス編集部編「さわりで癒される 天才! モーツアルトの名曲25選」について - 岡田 次昭
2024/11/16 (Sat) 16:40:52
令和6年11月14日(木)、私は、書架から楽書ブックス編集部編「さわりで癒される 天才! モーツアルトの名曲25選」を出してきました。

この書物は、2004年11月25日、株式会社樂書館から第一刷が発行されました。

111頁の中にモーツアルトの25曲の解説が収められています。



今回は、そのうち、「幻想曲 ニ短調 K397」について纏めました。



私の所有している2枚のCDは、次の通りです。(該当の曲のみ記載)



幻想曲 ニ短調 K397  ピアノ アリーシア・デ・ラローチャ

幻想曲 ニ短調 K397  ピアノ イングリッド・ヘブラー



主な幻想曲は次の作曲家によって作曲されています。



モーツァルト :幻想曲 ニ短調 K.397、幻想曲 ハ短調 K.475

ベートーヴェン:幻想曲 Op.77

シューベルト :さすらい人幻想曲ハ長調 D760、幻想曲ヘ短調 D940

シューマン  :幻想曲ハ長調 Op.17

ショパン   :幻想曲ヘ短調 Op.49



                 記



幻想曲 ニ短調 K397(1782年)



――実は未完成!? 秘密が詰まったファンタジー ――



※ 自由な発想から生まれた幻想曲



『E.T,』から『ハリー・ポッター』までのファンタジー作品が大ヒット。

いつの時代も子供から大人まで、多くの人に愛されるファンタジーとは、現実にはないようなことを描いた作品で、子供にとっては夢のような世界でウキウキする。

そして大人はというと……現実は厳しいんだから、本や映画の中くらい、夢をみたいじゃない! 幸い現実から少し離れたいじゃない! という声が聞こえてきそうだ。

とにもかくにも、老若男女に絶大な支持を得ているのだ。

そんな不思議な魅力がある「ファンタジー」=「幻想」という名前がついた曲、幻想曲 ニ短調を紹介しよう。

そもそも音楽ジャンルの幻想曲とは、伝統的な特定の形式から離れ、自由なスタイルで作曲された曲のこと。

時代によって解釈の仕方が違うのだが、この作品が作られた時代は、即興的カラーを強く持った作品のことを指している。

モーツアルトにとっても心の赴くままに紡ぎ出す曲に「ファンタジー」を感じていたのだろう。



※ 最後は一体誰の手に……?



この曲はミステリアス・ファンタジーだ。

謎の10小節があり、未完成作品と囁かれている。

謎があるって?

未完成ってどういうこと? と訝しがる方もいるかもしれない。

1782年に作曲されたこの曲は、モーツアルトの死後、1804年にはじめて出版された。

現在では107小節構成で認識されているが、ウィーンの美術工芸社から出版された初版は、97小節の途中で中段され、あとは空白の五線が続く断片の形で出版されている。

しかし、その2年後のブライトコップフ・ウント・ヘルテル社から出版されたものには、最後に10小節が加えられ107小節になっていたのである。

1806年当時、編集主任をしていたミュラーの手による補筆だという説が一般的ではあるが、モーツアルトの自筆譜が残っていないため、

モーツアルト自身が本当に107小節にしたかったのかはわからない。

また、初版時には「導入部としての幻想曲、切り離した曲」という意味の言葉が記されていた。

つまり、別の曲のための導入曲として作られたことを示している。

しかし、その曲もまた見つかっていないため、未完成といわれているのだ。



※ 幸福に隠された黒い影



謎に包まれたこの作品が書かれた頃、モーツアルトの私生活はホットだった。

1782年、コンスタンツェ・ウェーバーとめでたく結婚する。

モーツアルト26歳、コンスタンツェ19歳の夏だった。

きっかけはそのⅠ年前。

当時ザルツブルクを出てウィーンにいたモーツアルトは下宿生活をしていた。

その下宿先こそがコンスタンツェの家。

いつしか彼女を猛烈に愛するようになり、ついにはオペラ「後宮からの誘拐」でヒロインの名前をコンスタンツェにしてしまう。

なんというロマンテイスト。

コンスタンツェも目をウルウルさせて「嬉しいわ」なんて喜んだだろう。

そんな熱烈の二人だが、実はある人の手によって導かれた結婚だったのかもしれないのだ!

ウェーバー家とは切っても切れない縁なのだろうか、コンスタンツェの姉は、モーツアルトをふった相手、あのアロイジアだ。

ウェーバー家は主人を亡くしており、アロイジアは既に結婚していたので同居していなかったのだが、残った家族でウィーンに移り住んでいた。

したたかなウェー夫人にとって、人気上昇中のモーツアルトは、娘たちのいい結婚相手。

こんなチャンスは見逃せない。

脅迫まがいのことをしたり、強引に結婚契約書に著名させたりして、モーツアルトを追い込んだ。

そしてコンスタンツェが結婚。

モーツアルトのちちレオパルドは、ウェーバー夫人の評判が悪かったため結婚を猛反対していたのだが、押し切ってしまった。

「思惑通り」夫人の心の中では歓喜の叫びが声高らかに鳴り響いていただろう。

恐るべし、母親の執念。

え? モーツアルトって騙されている?

当塔の本人は一年越しの愛を実らせ、幸福の絶頂にいたのだった。

タイトルの通り、作品には謎があり、私生活にもウラがあった。

サスペンス・ドラマに使われそうな雰囲気を持ったこの曲は、作品そのものがサスペンスだったのだ。

(了)
25305465 福田和子詩集「しらかば」について - 岡田 次昭
2024/11/14 (Thu) 08:05:08
令和6年11月5日(火)、私は、宮前図書館から福田和子詩集「しらかば」を借りてきました。
この書物は、2005年11月21日、有限会社グラフィックから第一刷が発行されました。
97頁の中に沢山の詩が収められています。

福田和子さんの略歴は不詳です。
詩人の福田和子さんにとっては、同姓同名の名前で殺人犯がいます。迷惑な話です。
殺人犯の福田和子といえば、1982年8月に愛媛県松山市で発生した殺人事件「松山ホステス殺害事件」の犯人です。
2度の整形手術をし、20もの偽名を使うなど、北海道から山口県まで全国規模での、15年間にも及ぶ逃避行を続け、時効寸前に逮捕されました。
彼女は、2005年2月に刑務所内の工場の作業中に、くも膜下出血のため緊急入院しました。
意識の回復のないまま3月10日、入院先の和歌山市内の病院にて脳梗塞により亡くなりました。
享年57歳でした。

詩人の福田和子さんは、「あとうち」のところで平成17(2005)年 爽秋に「古希を迎えた」と書いています。これから推測しますと、現在88歳です。

詩人の福田和子さんは、「あとうち」のところで、次のように書いています。

『私の詩作の始まりは、三十数年以上も前になるでしょうか。ある小さな新聞の片隅に、短歌と俳句らしきものを載せたのが切っ掛けでした。
それまで全く縁遠かった詩の世界に私を誘ってくださったのが辰野弘宣先生でした。
それから少しずつ書き始め、いろいろな本に接したり、詩のお教室で、村野四郎先生に出合ったりいたしました。
その後、暫くブランクの時期もありましたが、辰野先生の主催する詩同人「風」に入れて戴き、また少しずつ書き進めて行くことが出来ました。
何でも気長にのんびりと行う性格上、こうして一冊の本に纏め上げるのにも、人の何倍かの年月を要し、少々時代を感じてしまう作品などもございます。
今年、古希を迎えたその節目として、これ迄の歩みを残しておきたいと思い、このような形に致しました。
この中で一つでも共感して戴ける何かがございましたら、私にとってはこの上ない幸せに存じます。
これまで、私を励ましてくださった周りの多くの方々、また詩友の皆様に心より御礼申し上げます。
尚、辰野弘宣先生には、長い間ご指導賜り誠にありがとう御座いました。
また、この詩集を上梓するに当たり、跋文と書家の笠原逍汀様には立派な題字をお書き頂き、深く感謝致しております。
出版に際しまして何かとご配慮、ご親切を頂きました。
有限会社中溝グラフィック様に厚くお礼申し上げます。
平成17(2005)年 爽秋 著者』



「春の中で」

色褪せた 無気力な春
散った花びらたちが
足の重みに無言で耐えている
これが
いつか頭上を匂わせていた
明るい真実の残骸か

訪れては去って行く
運命の強弱の繰返しよ

この道は間もなく途絶え
やがて
お前は見るだろう
変わりゆく空の中に
十字を掲げた
夏の塔が
高く聳え立つのを

「平間寺」

広々とした堂内に
今日も
僧侶達の浄らかな倍音が響わたる

人々は
だるま くずもち おこし あめなど
守り札のように並ぶ
幸せに繋がる参道を
ゆっくりと歩いて行く

それぞれに賽銭分の御利益を願い
満足気に立ち去る善男善女の
後ろ姿に
よしよし と
大師像は頷いてくれるだろう

大治の海からの奇跡が
平成の今も ここかしこに
慈悲の風を吹きかける

一段と高く和する読経に
境内に蒔かれた
病や 悩みや
沢山の厄の餌を啄んでいたハトが
一斉に舞いあがって行った
(注) 大治は、1126年~1130年

「クロアゲハ」

木立の間を
乱れ飛ぶ
二つのきらめき

あれは葉の影ではない
彩られた日常の中で揺れる
お前の影

おおわれた鱗粉の下の明暗
高く 低く
縺れ舞う その姿

やがて
弧を描きながら
暮色の中に吸い込まれていく
…………
蝶 ふたつ

「多摩川」

深山の聖域から
したたり落ちた雫は 雫とまじわり
大地の壁を下る

透明な流れは
美しく風景を描写する
だが
河床に敷かれた歳月は
激しく流れをゆすり 逸らせ
時として 渦を作る

川は ひたすら
自分を流しつづける
美しささを保つために
どこまでも どこまでも 
生を確かめながら
その傾斜のままに

河口近く
豊かな流れる中に何を秘めているのか
その淀みは女(ヒト)のように哀しい
やがて
大きな手がその身を逆流させる
その時 お前は知るだろう
あの透明な一滴には
もはや戻れないことを

今日 この遙かな夕映えの下
流れは
静かに 海の一部となる

「夕焼けの愛」

夕焼けが地上を含む
家を
樹々を
人々を翼がいっぱいに広げられ
すべてが
朱の中で溶け合っている

したたり落ちる
苦悩と 悲傷の
長い影
それらもいつか
大きな手に委ねられるでしょう
私の真っ赤な影ぼうしと共に3

ああ
空の情熱が
こんな二も多くのものを
包み込んでしまうとは――

今  終曲の中で
美しく調和し 共鳴し
無限に
広がって行く

「岩山」

腕が
宙を泳ぐ
僅かな窪みに
指先が触れると
しっかりと体を支える

足が
次のきっかけを探す
踏みしめた力が
岩に吸い込まれ
ふっと体が浮き上がる
空(クウ)を舞う手が
次の確かな場を探す

ここに
いつも自由な
一つの手
一つの足がある
そして
それらは求め続ける
また見ることの出来ない
一つの点を

「三角公園」
真昼に集う
人々の笑顔の中に
日溜まりの優しさを見た

「満ち足りた空間」

私の中には
広々とした枯れ草の
空き地がある
(了)
25305165 竹山道雄著「ビルマの竪琴」について - 岡田 次昭
2024/11/13 (Wed) 08:18:36
令和6年11月11日(月)、私は書架から「HARP of BURMA」を出してきました。

原作者は、竹山道雄です。翻訳者は、Howared Hibbettです。

この書物は、1966年、CHARLES E.TUTTLE CO.から第一刷が発行されました。

この書物は132頁で構成され、易しい英語で書かれています。

高校生以上の学力があれば、容易に読むことができるでしょう。

中には、難しい英単語が登場して、翻訳するのに困る場合があります。

たとえば、disembarked (上陸した) 、frivolous(くだらない)、iridescent(にじ色の、玉虫色の)等の英単語がそれです。

英和辞典を引いてこれらの意味を確認すれば問題は解決します。



この書物は1946年の夏から書き始められ、童話雑誌『赤とんぼ』(実業之日本社)に1947年3月から1948年2月まで掲載されました。

1948年10月に中央公論社から同題の単行本として出版されました。

この小説は、ビルマ(現在のミャンマー)を舞台としています。

市川崑の監督によって、1956年と1985年に2回映画化されました。

そして、各国語にも訳されています。



竹山道雄さん、1903年7月17日、大阪市にて生まれました。

幼少期は父の転勤に伴い、1907年から1913年まで京城(現在のソウル)で過ごしました。東京府立第四中学校、

第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部独文科に入学し、1926年に同大学を卒業しました。

太平洋戦争後、彼は、第一高等学校が学制改革によって新制東京大学教養学部に改組されることとなり、改組後間もない1951年に東京大学教授を退官しました。

上智大学など諸大学での講師を務めつつ、ヨーロッパ各地やソ連を度々訪問しました。

創作活動の面では〈生成会〉同人として、機関誌『心』(月刊誌、1948-81年)に大きく参与しました。

晩年の1983年に日本芸術院会員になりました。

彼は、戦前のナチズム・軍国主義と戦後の左翼的風潮には同質性(専制と狂信)があるとして嫌悪し、自由主義者としての立場を堅持しました。

1984年6月15日、彼は肝硬変のため東京厚生年金病院にて亡くなりました。

享年82歳でした。

没後、叙正四位、勲三等瑞宝章を追贈されました。



主な著書は、次の通りです。



『ビルマの竪琴』中央公論社(ともだち文庫) 1948

『日本人と美』新潮社 1970

『乱世の中から 竹山道雄評論集』読売新聞社 1974

『みじかい命』新潮社 1975

『歴史的意識について』講談社学術文庫 1983

『主役としての近代』講談社学術文庫 1984

『尼僧の手紙』講談社学術文庫 1985

『昭和の精神史』講談社学術文庫 1985

『昭和の精神史』中公クラシックス 2011



                 記



「あらすじ」は、概ね次の通りです。(インターネットより引用)



1945年7月、ビルマ(現在のミャンマー)における日本軍の戦況は悪化の一途をたどっていました。

物資や弾薬、食料は不足し、連合軍の猛攻になす術がありませんでした。

そんな折、日本軍のある小隊では、音楽学校出身の隊長が隊員に合唱を教えていました。

隊員たちは歌うことによって隊の規律を維持し、辛い行軍の中も慰労し合い、さらなる団結力を高めていました。

彼ら隊員の中でも水島上等兵は特に楽才に優れ、ビルマ伝統の竪琴「サウン・ガウ」の演奏はお手の物で、部隊内でたびたび演奏を行い、隊員の人気の的でした。

さらに水島はビルマ人の扮装もうまく、その姿で斥候に出ては、状況を竪琴による音楽暗号で小隊に知らせていました。

ある夜、小隊は宿営した村落で印英軍に包囲され、敵を油断させるために『埴生の宿』を合唱しながら戦闘準備を整えました。

小隊が突撃しようとした刹那、敵が英語で『埴生の宿』を歌い始めました。

両軍は戦わないまま相まみえ、小隊は敗戦の事実を知らされました。

降伏した小隊はムドンの捕虜収容所に送られ、労働の日々を送りました。

しかし、山奥の「三角山」と呼ばれる地方では降伏を潔しとしない日本軍がいまだに戦闘を続けていました。

彼らの全滅は時間の問題でした。

彼らを助けたい隊長はイギリス軍と交渉し、降伏説得の使者として、竪琴を携えた水島が赴くことになりましたが、、彼はそのまま消息を絶ってしまいました。

収容所の鉄条網の中、隊員たちは水島の安否を気遣っていました。そんな彼らの前に、水島によく似た上座仏教の僧が現れまし。

彼は、肩に青いインコを留らせていました。隊員は思わずその僧を呼び止めましたが、僧は一言も返さず、逃げるように歩み去りました。

大体の事情を推察した隊長は、親しくしている物売りの老婆から、一羽のインコを譲り受けました。

そのインコは、例の僧が肩に乗せていたインコの弟に当たる鳥でした。

隊員たちはインコに「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」と日本語を覚えこませました。

数日後、隊が森の中で合唱していると、涅槃仏の胎内から竪琴の音が聞こえてきました。それは、まぎれもなく水島が奏でる旋律でした。

隊員たちは我を忘れ、涅槃仏の胎内につながる鉄扉を開けようとしましたが、固く閉ざされた扉はついに開きませんでした。

やがて小隊は3日後に日本へ復員することになりました。

隊員たちは、例の青年僧が水島ではないかという思いを捨てきれず、彼を引き連れて帰ろうと毎日合唱しました。

歌う小隊は収容所の名物となり、柵の外から合唱に聞き惚れる現地人も増えたが、青年僧は現れない。

隊長は、日本語を覚えこませたインコを青年僧に渡してくれるように物売りの老婆に頼みました。

出発前日、青年僧が皆の前に姿を現しました。

収容所の柵ごしに隊員たちは『埴生の宿』を合唱しました。

ついに青年僧はこらえ切れなくなったように竪琴を合唱に合わせてかき鳴らしました。

彼はやはり水島上等兵だったのです。

隊員たちは一緒に日本へ帰ろうと必死に呼びかけました。

しかし彼は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』を弾きました。

日本人の多くが慣れ親しんだその歌詞に「今こそ別れめ!(=今こそ (ここで) 別れよう!)いざ、さらば。」

と詠う別れのセレモニーのメロディーに心打たれる隊員たちを後に、水島は森の中へ去って行きました。

翌日、帰国の途につく小隊のもとに、水島から1羽のインコと封書が届きました。

そこには、彼が降伏への説得に向かってからの出来事が、克明に書き綴られていました。

水島は三角山に分け入り、立てこもる友軍を説得するものの、結局その部隊は玉砕の道を選びました。

戦闘に巻き込まれて傷ついた水島は崖から転げ落ち、通りかかった原住民に助けられました。

ところが、実は彼らは人食い人種でした。

彼らは水島を村に連れ帰り、太らせてから儀式の人身御供として捧げるべく、毎日ご馳走を食べさせました。

最初は村人の親切さに喜んでいた水島でしたが、水島は事情を悟って愕然としました。

やがて祭りの日がやってきました。

盛大な焚火が熾され、縛られた水島は火炙りにされるところでした。

ところが、不意に強い風が起こり、村人が崇拝する精霊・ナッの祀られた木が激しくざわめきだしました。

村人たちは「ナッ」のたたりを恐れ、慄きました。

水島上等兵はとっさに竪琴を手に取り、精霊を鎮めるような曲を弾き始めました。

やがて風も自然と収まり、村人は「精霊の怒りを鎮める水島の神通力」に感心しました。

そして生贄の儀式を中断し、水島に僧衣と、位の高い僧しか持つことができない腕輪を贈り、盛大に送り出してくれました。

ビルマ僧の姿でムドンを目指す水島が道々で目にするのは、無数の日本兵の死体でした。葬るものとておらず、無残に朽ち果て、蟻がたかり、

蛆が涌く遺体の山に衝撃を受けた水島は、英霊を葬らずに自分だけ帰国することが申し訳なく、この地に留まろうと決心しました。

そして、水島は出家し、本物の僧侶になりました。

水島からの手紙は、祖国や懐かしい隊員たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意で結ばれていました。

(了)



(ご参考)



「HARP of BURMA」



1. 最初のところ



We certainly did sing. Whether we were happy or miserable, we sang.

Maybe it's because we were always under the threat of battle, of dying, and felt we wanted to do at least this one thing well as long as we were still alive.

Anyway, we sang with all our hearts.



2. 最後のところ



We sang together softly.

The sound of the waves enveloped our ship. We could almost hear the music of a harp rise out of the flying spray.

The ship sailed slowly on, day after day.

Morning and evening we gazed into the clouds ahead of us, wondering how soon we would see Japan.






25304819 三浦朱門著「不老の精神 魂は衰えない」について - 岡田 次昭
2024/11/12 (Tue) 07:44:36
令和6年11月5日(火)、私は宮前図書館から三浦朱門著「不老の精神 魂は衰えない」を借りてきました。

この書物は、2009年4月6日、株式会社青萠堂から第一刷が発行されました。

231頁の中にたくさんの随筆が収められています。

今回は、その内、「老友たちの健康学 体の不具合と医学」について纏めました。



三浦朱門さんは、大正15(1926)年1月12日、東京府豊多摩郡(現:東京都中野区)東中野にて生まれました。

彼は、1948年東京大学文学部言語学科を卒業しています。

1950年第17次『新思潮』に参加し、1951年の「冥府山水図」で「芥川の再来」と呼ばれ、

1952年「斧と馬丁」で芥川賞候補となって、作家活動に入りました。

彼は、2017年2月3日、間質性肺炎のため死去しました。享年92歳でした。

妻は、曽野綾子さん(本名・三浦知寿子)です。



受章歴などは次の通りです。



1967年 第14回新潮社文学賞受賞(『箱庭』)

1970年 バチカン・聖シルベスト勲章受章

1983年 第33回芸術選奨文部科学大臣賞(文学部門)受賞(『武蔵野インディアン』)

1985年4月 文化庁長官に就任(~1986年8月、作家からの任用は今日出海以来二人目)

1987年 日本芸術院賞・恩賜賞受賞、同年日本芸術院会員

1999年 第14回産経正論大賞受賞

同年10月 文化功労者に選ばれました

2004年 日本芸術院院長(~2014年9月まで)



主な著書は次の通りです。



『「学校秀才」が日本を滅ぼす!』大和書房 2004

『親と教師の顔が見たい!』扶桑社 2005

『人生の終わり方 積極的に今日を生きる』海竜社 2005

『そうか。憲法とはこういうものだったのか』海竜社 2006

『妻のオナラ―夫婦のための幸福論』サンガ 2006

『常識として知っておきたい「世界の中の日本」』海竜社 2007

『朱に交われば… 私の青春交友録』マガジンハウス 2007

『五十歳からの人生力』海竜社 2008 

『うつを文学的に解きほぐす 鬱は知性の影』青萠堂 2008

『出る杭 日本の宿命』育鵬社 2009

『不老の精神 魂は衰えない。』青萠堂 2009

『老年の品格』海竜社 2010 

『老年に後悔しない10の備え』青萠堂 2011

『老年のぜいたく』青萠堂 2011

『老年の流儀 老いてこそ、夫婦の絆』海竜社 2011

『老年力 老境こそ第二の人生』海竜社 2012

『老年の見識 大切なことは、自分らしく生きること』海竜社 2013

『日本人にとって天皇とは何か』海竜社 2014

『『東大出たら幸せになる』という大幻想』青萠堂 2015

『なぜ日本人は「世間」を気にするのか』海竜社 2015



三浦朱門さんは、最後のところで、「私が考える体の健康というのは、これら、肉体の弱点を自覚しながら、それと妥協して生きる道を見いだすことである。」と書いています。

全く同感です。



三浦朱門さんとほぼ同年代の人は、すべて結核に罹っています。この随筆に登場する5人の死亡年月日は次の通りです。



村上兵衞   1923.12.6~2003.1 .6 享年 81歳

遠藤周作   1923.3.27~1996.9.29 享年 74歳

吉行淳之介  1924.4.23~1994.7.26  享年71歳

安岡章太郎 1920.4.18~2013.1.26  享年73歳

吉村昭 1927.5. 1~ 2006.7.31  享年80歳



                       記



「老友たちの健康学 体の不具合と医学」(全文)



若い時でも病気はする。阿川弘之の息子の尚之は元駐米公使、慶応大学教授であり、讀賣新聞の吉野作造賞を受けた人だが、中学生の時に腎臓をやった。

秀才であったが、これでは社会活動もできなくなったかと父親はショックだった。

しかし彼はそのハンディを乗り越えて、社会人として成功者の一人となった。

私の若いころは戦中戦後の栄養不良と医学の未発達のために、結核が多くの若者を病人にした。

亡くなった者もいた。

私の小学校のクラスのトップは超秀才というべき少年で、あまりできるので、皆で生き埋めにしてやろうとしたことがある。

彼は東大で奨学金の出る特別研究生、という名の大学院生として在学中、結核で死んだ。

いじめたりしなければもっと長生きして、立派な研究をしたのだろうか、と今でも良心が咎めることがある。

私の大学時代の上級生で、ちょと高級な単語になると、知らなねえんだ」

とこぼしたりするほど、英語ができた。

卒業して直ぐに当時の一高――今の東大の教養学部の前身――の教授になったが、やはりアッという間に結核で死んでしまった。

私の同業者で、結核をやった者も多い。

私の同人雑誌の仲間で評論家として世に出た村上兵衞は、小学館の雑誌の編集長をしながら文学修行し、

ムリがたたったのか結核になって、会社を辞めて、文学一本になった。

また第三の新人の集団では吉行淳之介や遠藤周作も若い頃に結核をやった。

当時、結核を外科手術で治癒させることがはじまった時代で、その手術は大変だったらしい。

村上もその手術を受けたし、吉行も遠藤も背中にメスを入れ、肋骨を何本も切除して、肺の冒された部分を切り取った仲間である。

吉行は自分の手術の跡を見せてくれた。「すごいだろ、切られ与三郎てのがあったなあ」

と言う。

吉行は確かに江戸前のイナセなところがあった。しかし手術の跡の縫い目がジッパーのようなので、

「あのね、『チャックの淳ちゃん』てアダナはどう?」

と言ったのだが、私の提案は気に入らなかったようで、返事もしなかった。

遠藤周作も同じ手術をした。

彼等も作家として、社会人として、一人前以上の活躍をした。

手術直後の遠藤と一緒に歩いたことがあるが、ビルの入口の三段の医師のステップを上がって、息を整えていたことを覚えている。

しかし、彼はかなり体力を回復した。

過激な運動はできなかったが、普通の生活をするのに差し障りがあったとは見えない。

それでも遠藤も吉行も七十歳前後で亡くなった。

結核をやっても、長生きしているのは、安岡章太郎である。

彼は結核で軍隊を除隊になり、それが脊髄カリエスにまでなったが、八十八歳になる今も元気である。

吉村昭も若いときに結核をして、背中を手術した仲間だが、七十の峠を越して、日本の男の平均寿命の七十九歳まで生きた。

家族にとっても、文壇にとっても、まだまだ生きていて欲しかったであろうが、

昔だったら、若いうちに、この世で何ほどのもともしないうちに、亡くなったはずの病気だが、とにかくも老年まで生きられた。

しかし若い時に病気に罹った者も、それを重荷としながらも、何とか生きてゆく。

中年には中年の病気がある。

社会生活の重荷のために、ストレスがたまって、神経症になる人がいる。

それが肉体にきて、胃潰瘍、肝臓、その他の消化器に問題が生ずる者、心臓、血圧、などの循環器に故障ができる者、などさまざまである。

今、社会で第一線で活躍している人で、これらの問題を抱えていない人はむしろ例外である。コレステロールが高いとか、

不整脈だとか、酒をあまり飲まないように注意されている、といった人ばかりである。

体に不具合があったからと言って、病人とはいえない。ちゃんと社会人として、また家庭人としての生活をしているのなら、 健康なのである。

病気への対応が生活の中心になっている人が病人なのである。

たとえ車椅子になった人でも、社会人として、家庭人として生活しているのなら健康なのである。

むしろ、そういう肉体の不具合を全く抱えていない人がいれば、それは例外的で、

その故に 体の問題を持っている人の生活が分からないという意味で、「不健康」と言えるかもしれない。

私は生まれて間もなく、中耳炎になった。口もきけないころだったから、親としては何処が悪いのか分からなかった。

ある時、抱き上げて、右の耳が母親の乳房に押しつけられた時に、右の耳が悪いことが分かった。

手当が遅かったから慢性になった。今でも聴力の点で問題があるし、何かというと炎症を起こす。

姉はそのおカゲで、私はかなりバカになったと思い、そういう弟を持って苦労したと言う。

母は死ぬまで、自分の不注意で私の耳を悪くしてしまったと、私に謝り続けていた。もちろん、私としては、親を恨むことなど全くない。

遺伝的に皮膚粘膜が弱い。日に当たると日焼けをして、時には火ぶくれになる。若い時は大食のくせに、胃腸が弱かった。

皮膚は物理的にも弱く、金属などをいじっていると、すぐに怪我をする。これには不器用さも手伝っているかもしれない。

結婚して間もなく、盲腸炎になって手術をした。盲腸なんて、

今どき、病気のうちにも入らないが、江戸時代までだったら、その時、二十八歳で私は死んでいただろう。

五十歳の誕生日に、朝起きたら、左肩が痛かった。五十肩という言葉があるが、何も五十の誕生日に痛くならなくともよいのに、と思った。

丁度、運動をしていた時代がだったが、痛みをこらえてプールでクロールで五百メーチルづつ泳いでいるうちに、半年ほどでなおった。

泳ぎはじめは痛くて、とても二十五メートルプールを泳ぎ切れないと思うのだが、途中でやめても、溺れるばかりだから、何とか泳ぎ切ると幾らか楽になる。

ターンしてもう二十五メートル泳ぐ、といったことで、いつの間にか五十肩は治ってしまった。

六十六でジョギングをやめた頃から、不整脈が激しくなってきた。自覚的には生活をする上で問題はなかったが、

高円宮さまがスポーツをされていて、心臓細動で亡くなられた。これは私のような不整脈の結果だと、医師に警告されて、手術をした。

腰のつけ根からカテーテル、英語ではカセーター(catheter )という針金を入れて、心臓の中にまで送り込み、

心臓に収縮せよという間違った信号を出している部分を焼き切った。それだけで不整脈は治った。

長年の生活慣習の結果、痛風、糖尿、高血圧の傾向がある。それを抑える程度の薬を飲んでいる。糖尿といっても、インシュリンを注射するほどではない。

膵臓を 刺激して、インシュリンを分泌させる薬を呑むだけである。

それでも毎月一度、内科医、同じく一ヶ月に一度程度、循環器の専門医の診察と投薬を受けている。

昨年の十一月、突如、右の肩甲骨から腕にかけて痛くて、右を下にして寝ることなどできなくなった。整形外科医に診てもらったら、

頸椎の一部で軟骨が圧迫される、いわゆる椎間板ヘルニアの一種だという。痛み止めの薬をもらって、

首吊りのような牽引とマッサージを月に一度程度、やってもらっているうちに、半年程度で治った。

この整形外科医は、上坂冬子さんもかかっていて、彼女は「名医」だと絶讃する。

要するに、私もまた、多くの人が経験するような、「病気」を経験しながら、あるいはそれから完全に治癒し、

あるいは病気が暴れださないように、抑えながら生活している。

普通、健康、というのは、たとえば私のような状況を言うのであろう。

スポーツ選手は健康かというと、彼等はまたスポーツをしているが故の、過労による病気や負傷をしている。

運動選手は必ずしも長生きではない。

殊に、相撲取りなど、あれ程体力があるのに、平均寿命は普通人以下であろう。体型を見たって、メタボリック症候群とかいう、

当節はやりの生活習慣病を背負いこみそうな体をしている。それ以外にも、あの体重である。

いくら人並み以上とはいっても、膝や腰の負担が大きかろう、その痛みのために整形外科医に通っていたとしても不思議ではない。

私が考える体の健康というのは、これら、肉体の弱点を自覚しながら、それと妥協して生きる道を見いだすことである。

医師の助けは必要だが、それ以上に当人の病気や、肉体上の弱点をどう処理してゆくか、その処理に成功している限り、その人は健康、と言うことができる。

(了)
25304818 吉村昭著「ひとり旅」について - 岡田 次昭
2024/11/12 (Tue) 07:43:16
令和6年11月5日(火)、私は、宮前図書館から吉村昭著「ひとり旅」を借りてきました。

この書物は、2007年7月30日、株式会社文藝春秋から第一刷が発行されました。

247頁の中に沢山の随筆が収められています。

私は若い頃に、戦艦・巡洋艦・駆逐艦・潜水艦のプラモデル制作に熱中しました。

中でも戦艦は大いに興味があります。

戦艦に関する文章に出合いますと、私は纏めたい衝動に駆られます。

今回は、そのうち、「戦艦陸奥 爆沈の真相」について纏めました。



戦後79年、今では戦艦の名前を覚えている人は少なくなりました。

ご参考までに戦艦の名前を下記に記載しておきます。

金剛・比叡・榛名・霧島・扶桑・山城・伊勢・日向・長門・・陸奥・大和・武蔵の12隻です。



                      記



「戦艦陸奥 爆沈の真相」



大東亜戦争と称されたあの戦争が終わってから二十年後、私は『戦艦武蔵』という戦記小説を書いた。

それまで虚構小説を書きつづけてきた私が、そのような記録にもとづく小説を発表したことが意外で合ったらしくき、驚き、そして批判する声も多かった。

しかし、小説を書く自分に取って、戦争は決して避けて通れぬもので、私はその後も戦争小説を書き続け、六年半後に書くことを病めた。

それは証言者が歳を追う毎に死亡し、証言を得ることができなくなったからであった。

今、振り返ってみると、その六年半という歳月は、誠に貴重なもの出合ったと思う。

戦後、五十九年たった現在、証言をシテくださった方々はほとんど死に絶え、あの時宜であったからこそ戦争の実態を知り得たのである。

その一つに『陸奥爆沈』がある。それは小説と言うよりは、爆沈事故の原因を探るドキュメントである。

「陸奥」(排水量39,060トン)は、「大和」「武蔵」が出現する前、「長門と共に日本海軍を代表する戦艦で、

昭和18(1943)年6月8日正午頃、山口県柱島の近くで爆発、沈没した。乗組員1,474名中死者1,121名という大惨事であった。

この爆沈は戦後も謎とされ、私は信の原因を無探るため未公開の記録をあさり、関連のある人びとあって証言をメモした。

私はまだ42歳と若く、疲れも知らず精力的に歩きまわった。

海軍としては、同様の事故が起こらぬようにと差し迫った気持から、無総力を挙げて原因究明をするため、M(陸奥の被匿名)査問委員会をもうけ、直ちに行動に移った。

鋭意調査がつづけられ、やがて一乗組員による放火という線が有力になり、Q二等兵曹の存在が浮かび上がった。

Qの身辺が徹底的に現れ、それは動かしがたいものとなり、やがては断定せざるを得なくなった。

事故直後の潜水調査の結果、第三番宝塔のみが千体から遠く離脱されているのが確認され、

砲塔の下方にある火薬庫の爆発で「陸奥」が爆沈したことが明らかになった。Q二等兵曹は、第三番砲塔員であった。

火薬庫の扉は常時閉ざされ、さらに入り口に立哨兵もいて近づくことすら不可能であった。砲塔からラッタル(梯子)を伝わって火薬庫に通じる一つのルートがあった。

盗癖のあるQは、盗みが発覚することを恐れて、熟知したそのルートから火薬庫に忍び込み、放火したと推定した。

私も、園委員会の結論を書き、筆を置いた。

この作品は、昭和45年5月に単行本して出版されたが、翌年の深夜1時頃、新聞社から相次いで拙宅に電話がかかって来た。

「陸奥」の引き揚げが進められていたことは承知していたが、海面から姿を現した第三砲塔の内部にあるものについて記者は説明した。

遺骨が散乱していたが、まとめてみると一体で、しかも同姓の印鑑2個があり、「Qとは××ではないですか」

と、言った。

私はぎくりとした。Qの本姓をここに記すことは出来ないが、仮に吉川とすると、記者は、ヨシカワではないのですか、と言ったのだ。

「ちがいます、別の姓です」

私は、即座に答えた。むろんQの遺族に対する配慮からだが、本姓はキッカワであり、私は嘘を口にしたのではない。

その後、私は主砲その他が引き揚げられた江田島におもむき、発見された遺品を見た。

その中にQの姓のみと姓と名が刻み込まれた印鑑2個が置かれていた。

Qは放火後、訪島まで戻った時に爆発が起こり、訪島と友に吹き飛んだのである。

そのご、「陸奥」引き揚げに尽力した関係者が拙宅に訪れてきて、修養した「陸奥」の立派な舷窓と引き替えに寄附をして欲しい、と言った。

引き揚げに()なりの費用がかかっているという。

私は舷窓を受け取ることはせず、寄付金のみを渡した。その方は、「陸奥」の千体の鋲をテーブルに残して去った。

直径1.5センチほどの錆びついた無者で、それは桐の箱に収められて書斎に置いてある。

(了)



(ご参考)



「吉村昭さんの略歴」



吉村昭さんは、昭和2(1927)年5月1日、東京の日暮里にて生まれました。

1947年、彼は旧制学習院高等科文科甲類に入学しました。しかし、1948年1月5日に喀血し

同年9月17日、東京大学医学部附属病院分院にて胸郭成形手術を受け、左胸部の肋骨5本を切除しました。この大病がもとで旧制学習院高等科を中途退学しました。

療養生活を経て、1950年4月、新制学習院大学文政学部文学科に入学しました。文芸部に所属し、放送劇を書きました。この頃から作家を志望するようになりました。

一方で部費捻出のために大学寄席を催し、古今亭志ん生を呼んで好評を博しました。

1952年、文芸部委員長になり、短篇を『學習院文藝』改称『赤繪』に発表しました。

創作に熱中して講義を受けなくなった上、必修科目である体育の単位を取るだけの体力がなく、さらに学費を長期滞納していたため、1953年3月、大学を除籍となり、

三兄の経営する紡績会社に入社しましたが、同年10月末に退社しました。ただし大学については後に学費を追納した上で寄付金を納め、除籍ではなく中退扱いとなりました。

1953年11月5日、文芸部で知り合った北原節子(後年の小説家・津村節子)と結婚しました。

1959年1月、「鉄橋」が第40回芥川賞候補に、7月に「貝殻」が第41回芥川賞候補に、1962年「透明標本」が第46回芥川賞候補に、

同年「石の微笑」が第47回芥川賞候補になりましたが、受賞しませんでした。その代わり、1965年に妻の津村節子が受賞しました。

1966年に『星への旅』で第2回太宰治賞を受賞しました。この年、長篇ドキュメント『戦艦武蔵』が『新潮』に一挙掲載されたことでようやく作家として立つことになりました。

1972年、『深海の使者』により第34回文藝春秋読者賞を受賞しました。

1973年、『戦艦武蔵』『関東大震災』など一連のドキュメント作品で第21回菊池寛賞を受賞しました。

彼は、2005年春に舌癌と宣告され、さらにPET検査により膵臓癌も発見されました。そして、2006年2月には膵臓全摘の手術を受けました。

退院後も短篇の推敲を続けましたが、新たな原稿依頼には応えることはできませんでした。同年7月30日夜、東京都三鷹市の自宅で療養中に、

看病していた長女に「死ぬよ」と告げ、みずから点滴の管を抜き、次いで首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、

数時間後の7月31日午前2時38分に亡くなりました。壮絶な最後でした。享年80歳でした。




25304523 雑誌「保存版特集 戦国武将の名言 歴史人」について - 岡田 次昭
2024/11/11 (Mon) 08:10:56
令和6年11月9日(土)、私は、書架から雑誌「保存版特集 戦国武将の名言 歴史人」を出してきました。

この雑誌は、平成24(2012)年7月12日、KKベストセラーズから第一刷が発行されました。

141頁の中に戦国時代の名言などが豊富に収められています。

今回は、そのうち、「毛利家の家訓」について纏めました。

毛利元就の「三本の矢」は人口に膾炙しています。息子三人はこの言葉を守って毛利家を守りました。

関ヶ原合戦の後、徳川家康によって減封されましたが、幕末に薩摩藩と協力して徳川幕府を倒しました。



                      記



※ 「結束せよ!」油断なく三兄弟を戒めた元就の十四カ条



毛利元就は、弘治3(1557)年11月25日、長男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景にあて、書状をしたためた。

この毛利三兄弟の結束を促す書状は、「三子教訓状」とも呼ばれ、

元就が少年時代の三兄弟に結束の大切さを説いた三本の矢のエピソードの原点ともなっている。

2年前の10月1日、元就は厳島合戦に勝利し、この頃には周防国内の陶(スエ)方の残党を一掃。中国の覇者としての基礎を固めつつあった。

そんな上昇機運にありながらも、名族吉川氏を相続し、山陰地方の毛利領を統括する元春、山陽地方の水軍を従える隆景、

そして自身の後継者である後継者である毛利隆元との結束が緩みつつあったことに対し、元就は深く憂慮していた。

1条では、「繰り返しになるが、毛利家が未来にまで滅亡しないように心がけ、気を配ることが大切である」と説かれる。

その後、2条から6条までは、兄弟が結束しなければ滅亡するだろう、という父親としての思いが繰り返して主張される。

この書状を読み通して見ると、元就のややネガティブで、細かい気配りが重荷になりかねない人間性が読み取れる。

7条から9条にかけては、三兄弟の母や異母兄弟のことが記される。

わずか数行の記述ではあるが、元就は、亡き妻へ深い想いを抱いていたことが分かる。

10条か13条にかけては、自身の少年時代から厳島合戦に勝利までの生涯が感慨を交えながら語られる。

戦国武将が自信の生涯を書き残すという類例は少なく、その本音を知る貴重な存在だといえよう。

また、最後の14条には「これ以外に表現することはない」と語っており、元就の死は14年後のことではあるが、

この「三子教訓状」は、その人生観が表現されており、遺訓や家訓の一種とみなされている。

(了)



(ご参考)



「三子教訓状」



三子教訓状は、中国地方の戦国大名・毛利元就が1557年に3人の子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に書いた文書です。

これを含む「毛利家文書」は重要文化財に指定されており、毛利家文書405号・毛利元就自筆書状として山口県防府市の毛利博物館に収蔵されています。

これは、1557年11月25日に元就が周防国富田(現・山口県周南市)の勝栄寺で書いた書状です。

60歳を越えていた元就が、3人の息子たちに(他の子どもたちを含めて)一致協力して毛利宗家を末永く盛り立てていくように後述の14条にわたって諭しています。



「三子教訓状の現代語訳」



第一条

何度も繰り返して申すことだが、毛利の苗字を末代まで廃れぬように心がけよ。

第二条

元春と隆景はそれぞれ他家(吉川家・小早川家)を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはならぬし、毛利を忘れることがあっては、全くもって正しからざることである。これは申すにも及ばぬことである。

第三条

改めて述べるまでもないことだが、三人の間柄が少しでも分け隔てがあってはならぬ。

そんなことがあれば三人とも滅亡すると思え。諸氏を破った毛利の子孫たる者は、特によその者たちに憎まれているのだから。たとえ、なんとか生きながらえることができたとしても、家名を失いながら、一人か二人が存続していられても、何の役に立つとも思われぬ。そうなったら、憂いは言葉には言い表せぬ程である。

第四条

隆元は元春・隆景を力にして、すべてのことを指図せよ。また元春と隆景は、毛利さえ強力であればこそ、それぞれの家中を抑えていくことができる。今でこそ元春と隆景は、それぞれの家中を抑えていくことができると思っているであろうが、もしも、毛利が弱くなるようなことになれば、家中の者たちの心も変わるものだから、このことをよくわきまえていなければならぬ。

第五条

この間も申したとおり、隆元は、元春・隆景と意見が合わないことがあっても、長男なのだから親心をもって毎々、よく耐えなければならぬ。また元春・隆景は、隆元と意見が合わないことがあっても、彼は長男だからおまえたちが従うのがものの順序である。元春・隆景がそのまま毛利本家にいたならば、家臣の福原や桂と上下になって、何としても、隆元の命令に従わなければならぬ筈である。ただ今、両人が他家を相続しているとしても内心には、その心持ちがあってもいいと思う。

第六条

この教えは、孫の代までも心にとめて守ってもらいたいものである。そうすれば、毛利・吉川・小早川の三家は何代でも続くと思う。しかし、そう願いはするけれども、末世のことまでは、何とも言えない。せめて三人の代だけは確かにこの心持ちがなくては、家名も利益も共になくしてしまうだろう。

第七条

亡き母、妙玖に対するみんなの追善も供養も、これに、過ぎたるものはないであろう。

第八条

五龍城主の宍戸隆家に嫁いだ一女のことを自分は不憫に思っているので、三人共どうか私と同じ気持ちになって、その一代の間は三人と同じ待遇をしなければ、私の気持ちとして誠に不本意であり、そのときは三人を恨むであろう。

第九条

今、虫けらのような分別のない子どもたちがいる。それは、七歳の元清、六歳の元秋、三歳の元倶などである。これらのうちで、将来、知能も完全に心も人並みに成人した者があるならば、憐憫を加えられ、いずれの遠い場所にでも領地を与えてやって欲しい。もし、愚鈍で無力であったら、いかように処置をとられても結構である。何の異存もない。しかしながら三人と五龍の仲が少しでも悪くなったならば、私に対する不幸この上もないことである。

第十条

私は意外にも、合戦で多数の人命を失ったから、この因果は必ずあることと心ひそかに悲しく思っている。それ故、各々方も充分にこのことを考慮せられて謹慎せられることが肝要である。元就一生の間にこの因果が現れるならば三人には、さらに申す必要もないことである。

第十一条

私、元就は二十歳のときに兄の興元に死に別れ、それ以来、今日まで四十余年の歳月が流れている。その間、大浪小浪に揉まれ毛利家も、よその家も多くの敵と戦い、さまざまな変化を遂げてきた。そんな中を、私一人がうまく切り抜けて今日あるを得たことは、言葉に尽し得ぬ程不思議なことである。我が身を振り返ってみて格別心がけのよろしきものにあらず、筋骨すぐれて強健なものにもあらず、知恵や才が人一倍あるでもなく、さればとて、正直一徹のお陰で神仏から、とりわけご加護をいただくほどの者でもなく、何とて、とくに優れてもいないのに、このように難局を切り抜け得られたのはいったい何の故であるのか、自分ながら、その了解にさえ苦しむところであり、言葉に言い表せないほど不思議なことである。それ故に、今は一日も早く引退して平穏な余生を送り、心静かに後生の願望をも、お祈りしたいと思っているけれども、今の世の有様では不可能であるのは、是非もないことである。

第十二条

十一歳のとき、猿掛城のふもとの土居に過ごしていたが、その節、井上元兼の所へ一人の旅の僧がやってきて、念仏の秘事を説く講が開かれた。大方様も出席して伝授を受けられた。その時、私も同様に十一歳で伝授を受けたが、今なお、毎朝祈願を欠かさず続けている。それは、朝日を拝んで念仏を十遍ずつとなえることである。そうすれば、行く末はむろん、現世の幸せも祈願することになるとのことである。また、我々は、昔の事例にならって、現世の願望をお日様に対してお祈り申し上げるのである。もし、このようにすることが一身の守護ともなればと考えて、特に大切なことと思う故、三人も毎朝怠ることなくこれを実行して欲しいと思う。もっとも、お日様、お月様、いずれも同様であろうと思う。

第十三条

私は、昔から不思議なほど厳島神社を大切にする気持ちがあって、長い間、信仰してきている。折敷畑の合戦の時も、既に始まった時に、厳島から使者石田六郎左衛門尉が御供米と戦勝祈祷の巻物を持参して来たので、さては神意のあることと思い、奮闘した結果、勝つことが出来た。その後、厳島に要害を築こうと思って船を渡していた時、意外にも敵の軍船が三艘来襲したので、交戦の結果、多数の者を討ち取って、その首を要害のふもとに並べて置いた。

その時、私が思い当たったのは、さては、それが厳島での大勝利の前兆であろうということで、いざ私が渡ろうとする時にこのようなことがあったのだと信じ、なんと有難い厳島大明神のご加護であろうと、心中大いに安堵することができた。それ故、皆々も厳島神社を信仰することが肝心であって、私としてもこの上なく希望するところである。

第十四条

これまでしきりにいっておきたいと思っていたことを、この際ことごとく申し述べた。もはや、これ以上何もお話しすることはない。ついでとはいえ言いたいことを全部言ってしまって、本望この上もなく大慶の至りである。めでたい、めでたい。


25304229 渡辺淳一著「男と女のいる風景 愛と生を巡る言葉の栞」について - 岡田 次昭
2024/11/10 (Sun) 07:54:23
渡辺淳一著「男と女のいる風景 愛と生を巡る言葉の栞」について
25304224 森田実著「森田実の言わねばならぬ名言123選」について - 岡田 次昭
2024/11/10 (Sun) 07:11:44
令和6年11月7日(木)、私は、書架から森田実著「森田実の言わねばならぬ名言123選」を出して来ました。

この書物は、2012年2月28日、株式会社第三文明社から第一刷が発行されました。

287ベージの中に、孔子、孟子など世界の賢者の言葉と解説が収められています。

今回は、そのうち、「天網恢恢疎にして漏らさず」について纏めました。

この言葉は、一般庶民にはあてはまりません。悪事を働いた政治家専門の言葉です。



なお、パソコンやスマホに熱中している人は、この言葉を恐らく書くことはできないでしょう。

私もその一人です。



                       記



「天網恢恢疎にして漏らさず」(老子)



「語釈」 天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、決して悪人を網の目から洩らすことはない。



悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰を蒙るということです。

『老子』第73章の言葉です。

「天の道は争わないが何事にも勝ち、何も云わないのにうまく応答し、招かないのにおのずから到来し、果てしなく大きいのにうまく計画されている」

という内容の後に「天網恢恢にして漏らさず」が続いています。

老子の本では、「疎にして而も(シカモ)失わず」ですが、『三国志』では「漏らさず」となっています。



                      ※



「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉は、時々、新聞記事に登場します。

大物政治家が汚職事件などで逮捕された時などに使われます。

「天網」は自然の道理を、人を絡めとる天の網としてとらえたものです。

「恢恢」は広大という意味です。

天の法の網は広大で目は粗いが、何でも見逃すことはなく、悪人は逃げることができないという意味です。

政治の歴史を見ると、大型の汚職事件が十年か十五年に一度起きています。

第二次世界大戦直後に昭和電工事件が起き、時の芦田内閣は崩壊しました。

その後、数年して造船疑獄事件が起き、吉田内閣が倒れました。

さらにロッキード事件では田中角栄元首相が逮捕されました。

こうした汚職事件で大物政治家が逮捕されたりした時、新聞は、「天網恢恢疎にして漏らさず」と書き、正義は必ず勝つことを強調したのです。

大疑獄事件は常に政治の大転換をもたらして来ました。

昭和電光事件では民主党と社会党の連立内閣が崩壊し、吉田茂が復活しました。

次の造船疑獄事件で吉田内閣が倒れ、代わって当時登場したのが鳩山一郎日本民主党内閣でした。

いずれも大きな転換の原因となったのが疑獄事件でした。

新聞が、「天網恢恢疎にして漏らさず」と報道した後に、大規模な政変が起きています。

政治史上、よく使われた言葉でした。

(了)



(ご参考)



「森田実さんの略歴」



この書物の著者・森田実氏は1932年10月23日、静岡県伊東市で生まれました。

東京大学工学部鉱山学科を卒業したにもかかわらず、畑違いの政治評論家として活躍しております。

彼が幼少の頃、母親から二つの言葉を授かっております。

一つは「わが身を抓って(ツネッテ)人の痛さを知れ」という諺で「人の痛みを理解できる人間になりなさい」という意味です。

もう一つは「人のふり見て我がふり直せ」という諺です。

「人の振る舞いを見て、学び、反省しなさい」という教訓です。

更に、彼が小学三年生の時、彫刻師の叔父から二つの格言を教えられました。一つは「一隅を照らす者は国の宝である」という最澄の言葉です。

もう一つは「我日本の柱とならむ」という日蓮の宣言です。

これらの教えによって、彼は八十年に亘る人生の大きな支えになったと伯父は述懐しております。



彼は「あとがき」において次のように述べています。



『日本の政治家が守るべき原則があります。少なくとも次に掲げる格言はわが国の政治家が守るべき最も基本的な規範だと思います。

「和を以て尊しとなす」・「一隅を照らす者は国の宝である」・「広く会議を興し万機公論に決すべし」・

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」・「国家の実力は地方に依存する」

本書が、良い政治かを生み出すために役立つことを祈るものです。

とくに、次の時代を担う若い政治家、そして政治家を選ぶ若い有権者の皆さんに美しい格言を使ってほしいと願っています。』



この書物に掲載されている名言は、政治家向けの言葉が多くを占めています。政治家必読の書と言えます。



昭和7(1932)年10月23日生まれの森田実さんは、残念ながら、令和5年2月7日、悪性リンパ腫にて亡くなりました。

享年91歳でした。

ご冥福をお祈りします。