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松山高女および松山南高校同窓会関東支部の専用掲示板「末広帖」です。関係者以外の投稿はご遠慮ください。

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25334909 五木寛之著「迷いながら生きていく」について - 岡田 次昭
2025/02/25 (Tue) 07:41:58
令和7年2月21日(金)、私は、宮前図書館から 五木寛之著「迷いながら生きていく」を借りてきました。

この書物は、2019年10月14日、株式会社PHP研究所から第一刷が発行されました。

181頁の中に有意義な沢山の随筆が収められています。

今回は、そのうち、『「死」とともに在る新しい生のかたち』について纏めました。



五木寛之さんは、1932年9月30日生まれですから、現在92歳です。

いつまでもお元気で執筆して欲しいと思います。



私も樹木希林著「『樹木希林 120の遺言』を所有しています。

中でも私は、『「「いつかは死ぬ」じゃなくて、「いつでも死ぬ」という感覚なのです』という言葉に感銘を受けました。



後期高齢者になりますと、友人の死に直面します。

昨年は銀行の同期生が6人も亡くなりました。

今年は1名が亡くなりました。

高校や大学とは異なり、付き合いが長い故に、淋しさがこみ上げてきます。

  

                   記



『「死」とともに在る新しい生のかたち』



ここのところ訃報が相次いでいます。

特に昨年あたりから、昭和を代表する人達が相次いで鬼籍に入られた。

時代が変わるということは、こういうことなのかもしれないと思わずにはいられません。

中でも大きな印象を残したのは、樹木希林さんではないでしょうか。

希林さんが亡くなってから、彼女の言葉を纏めた本が出版され、大ヒットしています。

私もその中の一冊、『樹木希林 120の遺言』について文章を書きました。

私はこの一冊が、「遺書」ではなく、「遺言」である事が非常に重要だと思うのです。

本来、表現の仕事とは「語られるもの」でした。

今に残る仏陀の言葉も、仏陀の入滅後に記されたものですし、イエスもソクラテスも、一冊の本も書いていません。

語りと問答、説得と対話が思想表現の正道なのです。

そういう意味でも、この一冊は思想表現の正道をゆく作品と言っていいでしょう。

希林さんが残した言葉を通読して見ると、生も死も同じように「生き方」だと感じていることが伝わってくる。

死は向こう側にあるのではない。それは生きる中に、日々の時間の内にあるものだと、語っています。

そして人生百年ともなれば、アッと思って死ぬのではなく、

しみじみ「死ぬんだな」と言う感じの死に方、そういう終わり方ができるのではないか、と。

今私たちには、まさにその点が突きつけられています。

突然死も老衰後も関係ない。

それよりも、悲鳴を上げつつ死んで行くことは何としても避けたい。

できることならば、彼女の言うように「しみじみと死ぬ」ことができたらどんなにいいでしょう。

希林さんは、そのために、「いつかは死ぬ」ではなく、「いつでも死ぬ」という感覚だ、と言っている。

それを「覚悟」とも言っています。

この一冊から、希林さんが「死」についても、いろんな場所で時によく語っていたことが分かります。

希林さんは、全身がガンであることを公表しておられた。

ガンの治療を続けていること、将来ガンで死ぬだろうと話した時の飄飄とした様子は、記者たちの浮き足立った様子と、非常に対象的でした。

そんな彼女が語る「死」は、医学的、物理的な死へのアプローチとも違いますし、宗教的な色彩を帯びた言説でもない。

自然でありながら、何か新しい傾向を――新しい表現への息吹(イブキ)のようなものを感じるのです。

そういう意味でも、同じく表現を生業(ナリワイ)とする者として、こころから称賛したい。

彼女の言葉や生き方は、新しい世界でも語り継がれていくことでしょう。

希林さんが亡くなった半年後に、伴侶であった内田裕也さんも逝かれた

四十年もの間、別居という一風変わった夫婦関係もまた、新しい在り方でした。

事情は分かりませんが、はたの人にはわからない絆があったのでしょう

いずれにしても希林さんは精一杯思うままに生き、しみじみと死んだ。

その生きざまは、実に美事でした。

(了)



(ご参考)



樹木希林さんは、1943年1月15日に東京で生まれました。

そして、 2018年9月15日にガンで亡くなりました。

享年76歳でした。

樹木希林さんの死から約半年後の2019年3月17日、夫の内田裕也さんも死去しました。



主な受章歴は、次の通りです。彼女は、いかに優れた才能を有していたかが判ります。



1986年 日本女性放送者懇談会賞

2005年 第37回芸術選奨文部大臣賞『はね駒』

2005年 第26回ヨコハマ映画祭助演女優賞 『半落ち』

2005年 第28回日本アカデミー賞優秀助演女優賞『半落ち』

2007年 第31回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』

2008年 紫綬褒章

2009年 第30回ナント三大陸映画祭最優秀女優賞『歩いても 歩いても』

2009年 第33回報知映画賞最優秀助演女優賞『歩いても 歩いても』

2009年 第51回ブルーリボン賞助演女優賞『歩いても 歩いても』

2009年 第82回キネマ旬報ベスト・テン助演女優賞『歩いても 歩いても』

2009年 第32回日本アカデミー賞優秀助演女優賞『歩いても 歩いても』

2011年 第34回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞『悪人』

2012年 第4回TAMA映画賞最優秀女優賞 『わが母の記』

2012年 第25回日刊スポーツ映画大賞助演女優賞『わが母の記』『ツナグ』

2013年 第36回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞『わが母の記』

2014年 旭日小綬章

2015年 第28回東京国際映画祭 ARIGATO賞

2015年 山路ふみ子映画賞女優賞『あん』

2015年 第7回TAMA映画賞 最優秀女優『あん』『駆込み女と駆出し男』『海街diary』

2015年 第40回報知映画賞 主演女優賞『あん』

2016年 第37回ヨコハマ映画祭 特別大賞『あん』

2016年 第39回日本アカデミー賞 優秀主演女優賞『あん』

2016年 第9回アジア太平洋スクリーンアワード 女優賞『あん』

2016年 第37回ヨコハマ映画祭 特別大賞

2016年 第42回放送文化基金賞・演技賞『いとの森の家』

2016年 第10回アジア・フィルム・アワード・特別功労賞

2017年 第26回日本映画批評家大賞・ダイヤモンド大賞(淀川長治賞)

2017年 第66回神奈川文化賞

2018年 第12回ジャパン・カッツ カット・アバブ賞 『モリのいる場所』

2018年 なら国際映画祭特別功労賞[85]

2018年 第43回報知映画賞 助演女優賞『モリのいる場所』『万引き家族』『日日是好日』

2018年 第31回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞 助演女優賞『万引き家族』『モリのいる場所』『日日是好日』

2018年 第73回毎日映画コンクール 女優助演賞『万引き家族』

2018年 第42回日本アカデミー賞 最優秀助演女優賞『万引き家族』

2018年 第42回日本アカデミー賞 優秀助演女優賞『日日是好日』

2018年 第35回ATP賞テレビグランプリ 特別賞



この書物は、「生」「病」「老」「人」「絆」「家」「努」「死」の章で構成されています。



今回は、その一部を下記に記載しておきます。



「樹木希林の120の遺言」(一部原文のまま)



036 年を取ったら、みんなもっと楽に生きたらいいんじゃないでいか。求めすぎない。欲なんてきりなくあるんですから。



037 年を取るって、絶対に面白いことなの。若い時には「当たり前」だったことができなくなる。それが不幸だとは思わない。そのことを面白がっているんですよ。



041 命の質が悪くて、ずっと長く寿命が延びても意味がないなあと。



044 「樹木希林さんは普通に年取ってますね」って言われたことがあるけど、それは誉め言葉だと思っている。



045 後期高齢者でございます。もう、この言葉が好きなの。



047 60歳を過ぎたら60歳を過ぎたなりの、何か言い意味での人間の美しさっていうのがある様な気がするんです。



048 (やり残したことは) 私は別にないわよって。あると言えば、果てしなくあるんですね。人間っていうのはね。



050 世の中でババアこそ革命を起こせる唯一の存在ってこと。



052 向き合うから、欠点が全部見えてくるわけね。



055 私は人間でも一回、ダメになった人が好きなんですね。



057 心のこうべを垂れて、相手に接すると、案外通じるものだなって。



058 怒りを悲しみに変えてしまう日本人をいじらしいと思う。



062 やっぱり稼いだ人は、その責任があると思うんですよ。お金を得ただけの。



063 何に対しても、基本は機能的であることですね。



065 戦争って、自分のすぐそばの人たちとの戦い。



066 人間なんて正しくないんだから。



108 死っていうものに対して謙虚で。じたばたしてても、みっともなくても、それはそれで、子どもに受け継がせていくというような気持ちでいるの。



109 「いつかは死ぬ」じゃなくて、「いつでも死ぬ」という感覚なのです。



111 若いころに死は非日常だったけれども、今は死ぬ側にいるということを、噓っぽくなく思える。



113 老衰で亡くなっていくというのは最高のものなんだから。



114 覚悟っていうものをすると気楽ですよ。



116 死というものを日常にしてあげたいなと。子どもたちに、孫たちに。そうすれば 怖くなくなる、そうすれば人を大事にする。
25334339 2月27日(木)文化フォーラムのお知らせ - 伊藤規志子
2025/02/23 (Sun) 12:21:12
南高同窓会の皆様
      2月(第198回)文化フォーラム開催の最終案内が幹事二浪誠一さんからきています。
幹事なので、伊藤からも参加をお願いします。
2月27日の文化フォーラムは、26期の松田賢二さんの講演です。経験豊かな先輩の話を後輩にも聞いてほしいです。南高校の卒業生、参加してください!!                          
ここからは二浪さんからです。             
 先週は少し暖かくなったと思ったら再び寒波襲来です。春が待ち遠しいですね。
2月の文化フォーラムは26期の松田賢二さんによる「還暦からのビッグプロジェクト」です。日本で屈指の総合建設会社の清水建設に勤務して、土木部長や土木生産計画部長を務めた松田さんが、還暦を迎えその経歴を生かして取り組んだ受注規模1500億円のフィリピンのマニラ地下鉄建設プロジェクトやバングラデシュでの首都ダッカから第二の都市チッタゴン間の国道1号線上に位置する3つの橋梁工事をどのように取り組んだのでしょうか。いずれもビッグプロジェクトです。技術的困難をいかに解決し、言葉の壁を乗り越え、宗教や慣習の違いからくる人間関係を調節しながら工事を完成させた話を聞きたいものです。
帰国してからは日本のビッグプロジェクト羽田空港トンネル工事やリニア新幹線の建設工事に従事しています。どんな話が聞けるか楽しみです。皆様の参加をお待ちしています。当日参加も歓迎です。
             記
1.日時:2月27日(木) 12時~16時 
2.場所:星陵会館 (1階ロビーにお集まりください)
3.内容:①会食      12時~13時
②講演      13時~15時 
演題 「還暦からのビッグプロジェクト」  講師 松田賢二氏(26期)  
4.会費:3,000円(講演のみの場合は1,000円)
参加申し込みは、このメールの返信または運営委員までご連絡下さい。
      (運営委員:二浪、伊藤、鶴岡、神野、岡田)
3月以降の開催予定
3月27日(木)俳句の会(春の会)     主宰:(13期)神野昭子氏
             兼題「春暁」  場所 星陵会館         
 4月 8日(火)第200回記念 「未定」      (25期)小笠原 浩氏
                   安川電機 代表取締役会長  
5月29日(木)「未定」             (26期)高松聖司氏
以上
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Akiko Jinno : e-mail:akiko@jinno.org

25334276 「会津藩の烈女・中野竹子を中心に」について - 岡田 次昭
2025/02/23 (Sun) 08:18:46
女性でありながら、会津藩のために命を献げた中野竹子の行動のすばらしさに私はいつも感嘆しています。

私は悲運の會津藩の歴史を知れば知るほど、胸が痛みます。

中野竹子は、会津藩で最も優れた才色兼備の美人でした。

惜しい人物を亡くしました。



竹子は、「もののふの 猛き心に くらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも」と詠みました。

実際のところ、この和歌は、後に竹子が胸に銃弾を受け、倒れた際に握られていた薙刀に結ばれていた辞世の句でした。

この歌には、「数にも入らぬ」と女性の身を嘆き、悔しさが滲んでおります。

さて、会津藩士の家に生まれた少年たちには、10歳から会津藩校・日新館での教育が待っていました。

少年たちはこの日新館において、高いレベルで文武を推進し、藩や主君、また父母への忠孝や長幼の序を学びました。

それらの教育は、男子に限られておりました。

それでも、会津藩の女性たちは、直接日新館で学ばないまでも、その精神は女性たちにも浸透し、男子に負けない気概を高めていきました。

女性たちは、読み書きのほかにも裁縫や家事は勿論のこと、武術として薙刀の鍛錬に勤しみ(イソシミ)ました。

そんな中、会津藩の女性たちは、「日新館童子訓」をバイブルとしていました。

原本は、初代会津藩主・仁科正之が漢文で書いたものです。

それを少年や女性に分かりやすく書いたのがこの書物です。

(その一部を末尾に記載しておきます。)

新島八重も最晩年の回顧録「新島八重刀自懐古談」において、この書を持たない武士の家はなかったと記しております。

それに、当然のことながら、会津藩の女性たちは「什の掟」も暗誦していました。

「什の掟」とは、6歳から9歳までの会津藩士の男子が同じ町内で10人前後の集まりを作り、7つの掟を唱えることです。

さて、慶応4(1868)年1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発し、旧幕府軍は薩摩藩や長州藩の強力な鉄砲の威力に屈っして敗れました。

その後、新撰組を擁して勤皇の志士を苦しめたかっての京都守護職である松平容保を標的にしました。

薩摩藩や長州藩は松平容保の恭順謹慎を許さず、賊軍の汚名を着せて、会津討伐に向かったのです。

そして、慶応4(1868)年8月23日、薩摩藩や長州藩の藩士を中心とした新政府軍は会津城下へ侵攻してきました。

この時、薙刀にて新政府軍に敢然と立ち向かったのは、竹子でした。

竹子は江戸常詰勘定役の中野庄内と足利藩士の娘・こう子の長女として江戸上屋敷で誕生しました。

竹子は、5歳で百人一首を諳んじ、7歳の頃から会津藩士・赤岡大輔のもとで剣術を学びました。

薙刀につきましても、国許で近隣の者に師範するほどの技倆を有していました。

NHK大河ドラマでは、竹子扮する黒木メイサと八重扮する綾瀬はるかが、薙刀で勝負するところが2回に亘り放映されました。

お互いに勝ったり負けたりの素晴らしい試合場面でした。

記録によりますと、竹子は妹の優子とともに容姿端麗な女性であったと伝えられております。

20歳頃の竹子を知る会津人の二瓶吉民は、「容顔佳麗、其の儔(トモガラ)を罕(マレ)にし、文武二道を学び、和歌を能くし」と伝えております。

つまり、竹子は文武を修得し、和歌に優れた比類ないほどの美貌を持った女性だったのです。

慶応4(1868)年の春、竹子は江戸から会津に戻りました。

そして、慶応4(1868)年8月23日、母のこう子と妹の優子とともに鶴ケ城に向かいましたが、既に城門は閉ざされておりました。

その後、懇意にしていた依田菊子ら3人の女性たちと合流した竹子は、会津婦女薙刀隊を結成しました。

しかしながら、城下の柳橋において、長州藩・大垣藩との戦闘中に竹子は胸に銃弾を受け、重傷の身となりました。その時の竹子は、紫縮緬の着物に濃淺黃の袴姿でした。

8月25日、妹の優子は「姉の首を敵に渡すわけにはいかない」と、竹子を介錯して、その首を持って落ち延びました。

冒頭で述べたとおり、竹子が倒れた際に、その手に握られていた薙刀に結ばれていたのが辞世の句でした。

福島県会津若松市の中心部から少し離れた神指町(コウザシマチ)を流れる湯川のほとりに、薙刀を手に持った一人の女性の白い石像がひっそりと建っています。

かつて、この湯川にかかる柳橋の付近は、戊辰戦争で激しい戦いが行なわれた場所でした。



会津城下で激戦が行われる中、猛々しい武士達に交じり、女性たちの集団が薙刀を手に持ち、激しい戦いを繰り広げました。

それが、竹子を中心に結成された「会津婦女薙刀隊」、通称「娘子隊」と言われる一隊でした。

竹子以外にも、会津の女性たちは悲劇的な最後を迎えました。

例えば、神保雪子は8月25日の夜、大垣藩の藩士に捕縛されました。即刻に断首されようとしていたところ、土佐藩の吉松速之助が彼女の助命を求めました。

しかしながら、「賊虜」の処刑は軍法であるとして拒絶されました。

せめてもの武士の情けとして、吉松は雪子に短刀を渡しました。

「これをもって屠腹してあい果てり。鮮血淋漓と悲惨悽愴の状を呈す。大垣兵これを見て戦慄し、また正視する者なし」と記録されております。

神保雪子 享年26歳でした。

更に悲惨だったのは、会津藩家老・西郷頼母の家族でした。

運命の8月23日、幼児を含めて21名の女性たちが自刃しました。

会津戦争はまさに地獄でした。自害した女性たち、不本意に命を落とした女性たち、蛮行の餌食になり、拉致されて集団で強姦された女性たちも数多くいました。

幕末において、これほどまでの女性の悲劇は見当たりません。

会津戦争がいかに悲惨であったかが分かります。

余談ながら、会津藩の「日新館童子訓」・「什の掟」・「初代会津藩主・保科正之の家訓(カキン)」は現代でも一部通用するものがあります。

これらを読みますと、会津藩の教育がいかに優れていたかが分かります。

また、「初代会津藩主・保科正之の家訓」がなかりせば、家老・西郷頼母の意見を聞いて、会津藩主・松平容保も京都守護職を辞退したかもしれません。

この第一条は、「徳川将軍への忠義を第一とせよ。もし逆意を抱く藩主が現れたならば、

それは私の子孫ではないから従う必要はない。」という凄まじい家訓です。

幕府政事総裁職の要職にあった越前福井藩主・松平春嶽は、「保科正之以来のお家柄ならば、幕府が苦境の今、京都守護職を受けるべきです。

もし保科正之でしたらお受けになったことでしょう。」と松平容保に説いたのです。

ここまで言われて、松平容保は一度は断った京都守護職を引き受けることになったと言われております。

また、会津藩が、薩摩藩や長州藩のように、早くから洋式銃の普及に努めていれば、歴史はどうなっていたか分かりません。

所詮、刀や薙刀では戦に勝つことは出来ませんでした。

会津藩は、慶応4(1868)年9月22日、遂に降伏しました。

その後、敗れた会津藩士たちは、下北半島の南部にある斗南への移住を余儀なくされ、塗炭の苦しみを味わいました。



(ご参考)



1. 「日新館童子訓」



【三大恩のこと】



人間は三つの恩があって生きている。

父母はこれを生み、藩主はこれを養い、師はこれを教える。

父母がいなければ生まれることはなく、藩主がいなければ成長することもなく、師がいなければ物事を知ることは出来ない。

父母の恩は天地にも等しく、父母がいなければ今の我が身は無い。

母のお腹に宿った時から数ヶ月もの間様々な苦労をかけ、生まれて後は母は濡れた夜具に眠り、子を乾いた布団に眠らせ、

子が寝れば母は身体を動かさず、夏の暑さ、冬の寒さも感じさせず、父は子の安寧を祈り、衣服や薬などにも気を配る。

食べるようになれば、箸の使い方、行儀作法や言葉遣いなども教え、先生を選び、諸事を習わせて物事に優れた人となる様にと願い、

年頃にもなれば嫁の心配もし、家を保ち、先祖に恥ずかしくない様にと慈愛を持って育て上げる。

そして又、藩主にはその領地で採れる穀物を食べさせて頂き、領国に住む者皆藩主の恩恵を頂いている。藩主がいなければ国は乱れてしまう。

藩主から禄と位を受けている者は、先祖から孫子の代までも藩主の恩恵を受けて養い育てられ、屋敷も従僕があるのも、

先祖の徳、子孫への恵みも全てが藩主の恩恵あってこそである。

親がいなければこの身も無く、藩主がいなければこの身を養う事さえ出来ない。

その恩に報いる様、人の行うべき正しい道を知らなければ、人の顔を持っていても心は禽獣である。師の教えに従って正しい道を学び、身を修めれば禽獣とはならずにすむ。

弓術、馬術、読み書き、算術、刀術、槍術など知らねばならぬ事をそれぞれの師に学べば、物事も上達し、自分自身の嗜みにもなる。これも、大なる恩である。良き友を選んで自分の過ちを聞けば共に良い方向に進み、これも恩恵を成す。

しかし、この恩恵に報いる事をせず、父母にも孝行せず、兄に対しても従順で無く、藩主にも忠義無く、師にも敬う心無く、

友にも信頼されない者はたとえ学問や諸芸に通じていても何にもならない。人を侮り、驕り高ぶり、あるいは遊惰に日々を費やす者は、終いには天の咎めを受ける。

自ら招いた事とは言え、実に嘆かわしい事である。

幼い頃からの躾は知らず知らずのうちに身に付き、いつか持って生まれたものと成り得る。幼い頃からの毎日の行い、父母、師に良く仕え、

良き友と交わる指針となる事を願ってこの書を著した。年少の者達の学習にこの書が少しでも役立てば幸甚である。  



【人たるの道】



人の子となって生まれ出でた者は、家においては父母によく仕え、思いつく限りの自分の苦労を厭わず力を尽くし、

父母の前から退いて兄の前に出た時には、兄や目上の者には従順に良く仕え、もしも、父母が兄より自分を愛おしく思っていようと、

弟は弟の道を誤らずに親戚や友人の中でも年上の者を敬い、決して侮っては行けない。

全ての物事は、普段通り慎み深く失敗事の無い様にする事。幾多の災害や災いが起こるのは、慎み深さを忘れたからである。

言葉に信用があり、偽り事が無く、いつも真実で有るよう心掛けるべし。実際に行うことなく、口だけの事は信用できない。

人と約束したにも関わらず、その約束を反故にする事も大変信用できない。

多くの人と交わり、友好を深め、友人を粗末にせず、使用人にも情け深く、行いの素晴らしい人と親交を深め、良いことを見習い、

聴き習いして正しい道を教わり、自分の間違いを改める様に精進せよ。

以上の様に毎日勤め働きながら、少しの間も見逃さずに学問・武芸に励み、徳を治めて自身の人格を磨く事を決して怠ってはいけない。



【 人をそしるべからず】



両親の声を聞かず、両親の姿を見ることがなくても、両親が常日頃教え戒められている物事を少しの間も忘れることなく、

その事を怠ことなく勤め、全ては両親の意に染むように先立ってその志を受け、命じられなくともその事を成すべし。

両親は穏やかな心、嬉しそうな顔色、柔和な姿をもち大人しい様子を好むものであるから、そのようにして両親の心を和ませるようにする。

しかし、あまり厳かに正しく慎み深過ぎても両親に答えるべき礼ではない。

我が儘勝手にしたり、好まないものに不平の色を表わしたりすると、必ず天罰の報いがあるものである。良く慎むように。

孔子は高い所には絶対に上らず、また、谷などの深淵には近づかない。

何故なら、己自身の身体は決して己自身のものではなく、両親から伝え残された大切な身体だからである。

人にそしられるようなこと笑われるようなことは決してしない。君子は楽しみて後から笑うと言われ、人のしくじり事や失策を嘲り笑ってはいけない。

その人が、他の人からその事を漏れ聞いた時にはどれだけか遺恨に思うだろう。

そうなれば、自分自身がその様な立場になった時にどれだけ辱めを受け、その害は両親にさえ及ぶ事もあるだろう。

人の事をあげつらう事が上手い者は、自分自身を省みる事が常に疎かになる。

自分の良くない所を認め、及ばない事でも一生懸命に勤め、人の事を少しもそしってはいけない。

愚かな事は、人の善を伝えずに人の非ばかりを伝える事を好み、自分自身の事のみを立派に見せようとし、

人の非ばかりをあげつらう事である。それは、非常に恥ずかしい事では無いだろうか。



【 養老の心】



孔子の言う年老いた親を養う心得は、両親の心を楽しませ、両親の志に従って背かず、聞こえる事、見える物、全てが両親の楽しみになる様に気を遣う。

そして、両親の寝所を安らかで心地よい様にし、飲食も好まれる物を勧め、細やかな心を遣い、両親が愛され好まれるものは自分自身も愛し、

両親が敬う事は自分自身も敬い、犬や馬などでも愛されているものは丁寧に扱う。総じて両親

が愛される物事は自分自身も愛し、もしも、両親が亡くなった後でもその心は失ってはいけない。

“孝”には三つある。

まず第一には両親を尊び、身を立て、道を行い、名を後世に残して両親の名を広く世間に知らせる事。次は身を慎み、人の道を行い、

諸芸に至るまで他人から指を指されて両親を辱めたりしない。その次には人に気を遣い、より良い習慣や能力を身につける事である。

両親を尊び、辱めることのないようといった二つの孝や、両親を良く養うことなどは、今更言うまでもない。



【 小孝・中孝・大孝】



小孝とは庶民の孝であり、両親の慈愛を思い、我が身の労苦を忘れ、専ら形骸の力を使い、孝行の道を励み努めて怠らない事である。

中孝とは卿・士・大夫の孝であり、身を修め、一家を整えおさめ、仁義を実践し、真心を尽くし、

国の役に立つ様にし、親の名を汚さぬ様に心を労する事である。



大孝とは天子・諸侯ら王者の孝であり、位と扶持と共に恵まれ、万物を備えて為し得る自分自身の孝や徳、全てを以て博く四方に施し、

民が各々自分の職を安心して付ける様、衣食が足る様、よく政を為す事である。



2. 「什の掟」



一、年長者(トシウエノヒト)の言ふことに背いてはなりませぬ

一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ

一、嘘言(ウソ)を言ふことはなりませぬ

一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ

一、弱い者をいぢめてはなりませぬ

一、戸外で物を食べてはなりませぬ

一、戸外で婦人(オンナ)と言葉を交へてはなりませぬ

  (この言葉はいただけません)



  ならぬことはならぬものです





3. 「初代会津藩主・保科正之の家訓」



一 大君の義、一心大切に忠勤に存ずべく、列国の例をもって自ら処するべからず。

  若し二心を懐かば則ち我子孫にあらず、面々決して従うべからず

二 武備は怠るべからず、士を選ぶに本とすべし。上下の分を乱すべからず

三 兄を敬い弟を愛すべし

四 婦人女子の言、一切聞くべからず

五 主を重んじ法を畏るべし

六 家中風儀を励むべし

七 賄を行い媚を求むべからず

八 えこひいきすべからず

九 士を選ぶに便辟便侫(ベンベキヘンネイ)の者を取るべからず

十 賞罰は家老の外これに参知すべからず。若し位を出ずる者あらば、これを厳格に

すべし

十一 近侍の者をして人の善悪を告げしむべからず

十二 政事は利害をもって道理を枉げるべからず。詮議は私意を鋏み人言を拒ぐべから

ず。思う所を蔵せず、もってこれを争うべし。甚だ相争うといえども、我意をこ

こに介すべからず

十三 法を犯す者ゆるすべからず

十四 社倉は民のためにこれを置く。永利のためのものなり。歳餓、則発出して、これ

をすくうべし。これを他用すべからず

十五 若しその志を失い、遊楽を好み、驕奢を致し、士民をしてその所を失わしめば、

則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや、必ず上表蟄居すべし

右 15 件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり

寛文8 年戊申4 月11 日

(注1) 便辟便侫とは、こびへつらって人の機嫌をとるもの 口先がうまくて誠意がない

ことを意味します。

(注2) (四 婦人女子の言、一切聞くべからず)の言葉は、会津藩では女性を蔑視したように思われます。

しかし、これは大きな誤解です。

この家訓は、藩主や家老など藩の為政者が、女性の寝物語のおねだりにほだされて、政治が左右されることを戒めるものであると解釈されております。

(了)



中野竹子の薙刀像



25333974 曽野綾子著「思い通りにいかないから人生は面白い」について - 岡田 次昭
2025/02/22 (Sat) 07:58:08
曽野綾子著「思い通りにいかないから人生は面白い」について
25333054 ピーター・J・マクミラン著「英語で味わう万葉集」について - 岡田 次昭
2025/02/19 (Wed) 08:00:37
令和7年2月8日(土)、私は、宮前図書館からピーター・J・マクミラン著「英語で味わう万葉集」を借りてきました。

この書物は、2019年12月20日、株式会社文藝春秋から第一刷が271頁の中に沢山の万葉集の短歌と解説文が収められています。

ピーター・J・マックミランさんは流暢な日本語を駆使しています。

普通の日本人よりも豊富な日本語を知っています。

私は、彼の著「松尾芭蕉を旅する―英語で読む名句の世界―」を愛読書の一つにしています。

俳句と短歌は、日本独特の文化です。

日本語に堪能な彼でも、微妙な言葉の綾(アヤ)を英語で外国人に紹介することは困難と思います。



ピーター・J・マックミランさんは、1959年2月6日、アイルランドにて生まれました。

彼は、アイルランド国立大学と南カロライナ州大学を卒業しています。

杏林大学外国語学部・国際協力研究科客員教授を歴任しました。

現在は、東京大学非常勤講師を務めています。

専門は詩・翻訳・現代美術で、日本在住歴は20年以上に渡っています。

『英詩訳・百人一首―香り立つやまとごころ』で、2008年度日本翻訳文化特別賞、それに日米友好基金日本文学翻訳賞を受賞しています。



主な著書は、次の通りです。



『英詩訳百人一首 香りたつやまとごころ』(集英社新書、2009年)

『英語で読みとく百人一首大図鑑』(英訳・監修、ほるぷ出版、2015年)

『A Little Flower(いちりんのはな)』平山美知子・絵、平山弥生・文(英訳、講談社、2015 年)

『The Tales of Ise(伊勢物語)』(英訳、Penguin Classics、2016年)



ピーター・J・マクミランさんは、「はじめに」のところで次のように書いています。



「私が『万葉集』の英訳に着手したのは令和元年の八月十五日のことだった。

この日は日本では第二次世界大戦の終戦の日とされている。そして、最初の草稿が完成したのは今上天皇の即位礼の日だった。

この仕事に取り組んでいる間、私は常に、第二次世界大戦と新しい令和の時代について思いを巡らせていた。

今年の八月はとても暑かったので、お盆休みには山中湖に滞在していたのだが、ちょうど台風による暴風雨に見舞われてしまった。

ようやく雨が止み、これでもう大丈夫と思ったのも束の間、再び嵐が起こり、激しい雨が窓に打ち付けてきた。

ほとんど外出することもできなかったのだが、雨続きだったおかげで涼しくて過ごしやすく、集中して仕事に取り組むことができた。

夜、近くの温泉に行くと、そこは夏合宿で山中湖を訪れた大学生たちであふれていた。

彼らはふざけてじゃれ合い、楽しそうに笑い、おしゃべりに興じていた。

彼らと言葉をかわしながら、私は日本という国について、そして終戦記念日と『万葉集』の関係について、考え始めていた。

彼ら若い日本人たちにとって、また新しい時代の日本にとって、『万葉集』はどのような意味を持つのだろうか、と。

その翌朝から、私は本格的に『万葉集』の英訳に取り組みはじめた。

そのときまで私は『万葉集』の原文をきちんと読み込んだことはなかったので、とても新鮮な感覚があった。

最初の印象はとりとめもないものだった。

平安時代の和歌には「私」に相当する言葉はあまり出てこないのだが、

『万葉集』では「私」や「あなた」を意味する単語が数多く使われているため、万葉の歌は直接的で、率直で、庶民的な印象を与える。

しかし、その印象は必ずしも正確ではないということがわかった。

漢字を使った言葉遊びも『万葉集』の魅力のひとつだ。

この時代、都は京都ではなく、朝廷は遷都を繰り返していた。

人の名前も平安時代とは大きく異なる。

とても長々しく、神話に登場する神々の名前のような響きだが、実在の人物の名前である。『万葉集』は実際に生きた人々の記録なのだ。

人間と自然の距離は平安時代よりも近い。

シャーマニズムの要素には驚かされ、感銘を受けた。

悪天候は当時の人々にとって大きな脅威であり、旅に出ることは生命の危険を意味した。社会構造は流動的で、殺人や戦争は珍しいことではなかった。

翻訳者泣かせの枕詞も多用されている。

人間の世界と神の世界の距離はとても近く、自然に美を見出す感性や、自然と人間が一体のものであるという感覚も非常に強い。

「令和」という元号が日本の古典の詩歌から取られたことに、私は大きな喜びを感じた。

日本の古典文学の翻訳の仕事を続けていくうえで、大きなエネルギーをもらえたように思えたのだ。

「令和」の由来となった『万葉集』は、新しい時代を象徴する歌集となった。日本最古の文学作品のひとつだが、

これから私たちが進んでいく未来についても多くの示唆を与えてくれる。また、この本は私の還暦の記念の本でもある。

かつて日本では、年を重ねた人は「翁」と呼ばれ、言祝ぐこと、すなわち祝福を与えることがその役割だとされていた。

この本が、私から日本の人々に贈るささやかなお祝いとなれば、とても嬉しい。『万葉集』の世界は美しい。その歌は、新鮮な世界観に満ち溢れている。

だから、この本は令和の最初の年に出したかった。

すると締め切りまでおよそ二カ月となる。この二カ月という時間はあっという間に過ぎ去っていった。

非常にタイトなスケジュールだったので、この間一日も休みをとることはできなかった。

ようやく脱稿したその翌日、ある友人が杉並区にある大宮八幡宮に誘ってくれた。大宮八幡宮は木々に囲まれた美しい神社だ。

私はしばらくの間、満足に戸外の空気を楽しむこともできなかったので、鎮守の森の散策は私の心に大きな喜びをもたらしてくれた。

歩きながら、私はこんなことを考えていた──自分の翻訳も、こんな光でいっぱいに満たしたいものだ、と。

太陽の光に照らされた木々。

木の葉がたてるさらさらという音。やわらかく湿った黒い土。

美しい秋の日差し。遊びまわる子どもたちの声。ペットの亀を散歩させている老婦人のやさしさ。

川の水の流れ。美しい秋の日。

このような光景、音、そして自然の美しさは、万葉の時代から何も変わってはいない。

今日、自然環境の破壊は深刻だが、それでも万葉の歌に描かれた、自然や人のすがたに私たちは共感することができる。

ちょうどこの本の「結びにかえて」を書き終えようとしている頃、私はあるイベントで南半球のさる国の駐日大使と出会った。

私が自分の翻訳の仕事について説明すると、彼は「日本の文学は面白いですか?」と尋ねてきた。

私がイエスと答えると、彼はこんなことを言った。

「そうですか。でも、世界的にはあまり知られていませんね。もし日本の文学が素晴らしいものであるなら、なぜもっと注目を集めていないのでしょうか?」と。

『万葉集』の世界的な知名度が低いのは、優れた訳詩がこれまで少なかったからだろうと私は考えている。

私は、この翻訳が『万葉集』に対するいくつかの誤解を払拭し、最新の研究に基づく新たな『万葉集』のイメージを提示する第一歩となることを望んでいる。

そして『万葉集』が、日本の文学史における宝物というだけでなく、世界的にも重要な文学作品として認知されるようになることを願っている。」



                記



1. 春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天(アメ)の香具山

( 持統天皇)



「現代語訳」



春が過ぎて夏がやって来たらしい。真っ白な衣が干してある。天の香具山に。



Spring has passed, and summer's white robes air on the fragrant slopes of

Mount Kagu ――beloved of the gods.



2. 東(ヒムガシ)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ

(柿本人麻呂)



「現代語訳」



東の野に曙の光が差しそめるのが見えて、振り返ってみると残月が西の空に傾いている。



When I look east ――the light of daybreak spilling out  over  the  plain.

When I look back ―― the moon crossing to the weat.



3. 田子ノ浦ゆ うち出でて見れば ま白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける

(山部赤人)



「現代語訳」



田子ノ浦を通って出て見ると、真っ白に、富士の高嶺に雪が降り積もっている。



Coming out on the Bay of Tago, there  befofe me, Mount Fuji―― snow

piled ip  on the peak, a splendid cloak of white.



4. あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり

(小野老)



「現代語訳」



あおによし 奈良の都は咲く花が匂い映えるように、今真っ盛りである。



Like the blossoms blooming beautifully the capital of Nara is a flower in

full bloom.



5. 世間(ヨノナカ)は 空しきものと 知る時し いよいよますます 悲しかりけり

(大伴旅人)



「現代語訳」



この世の中は空しいものだと思い知った今この時、いよいよまして悲しく思われることだ。



The moment I am struck by the emptiness of this world of ours, I feeel acutely the weight of my sorrow.



6. 銀(シロガネ)も金(クガネ)も なにせむに 優れる宝 子に及かめやも

(山上憶良)



「現代語訳」



銀も金も珠玉も、どうして何より優れた宝である子に及ぶことがあろうか。



Fabulous treasures ――Silver, gold, pearls―― Why can't you compare with the

tresure that is a child?



「現代語訳」

7. よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よく人よ見

(天武天皇)



「現代語訳」



昔の良き人が良いところだとよく見てよいと言った、この吉野をよく見よ、今のよき人よ、よく見るのだ。



The good men of the good old days looked upon  Yoshino well.

Yoshino is good , they said. Let's look on Yoshino well――

Good men of these good days.

(了)
25332822 森田実著「森田実の言わねばならぬ名言123選」について - 岡田 次昭
2025/02/18 (Tue) 08:12:05
令和7年2月16日(日)、私は、書架から森田実著「森田実の言わねばならぬ名言123選」を出して来ました。

この書物は、2012年2月28日、株式会社第三文明社から第一刷が発行されました。

287ベージの中に、孔子、孟子など世界の賢者の言葉と解説が収められています。

今回は、そのうち、アリストテレスの「友とは二つの肉体に宿った一つの魂である」について纏めました。



私は末尾に記載されたトーマス・フラーの「見えないところで私のことを良くいっている人は、私の友人である。」に感銘を受けました。



友情という言葉に出会いますと、私は武者小路実篤著「友情」を思い出します。

私は若い時からこの書物を愛読しています。



                     記



「友とは二つの肉体に宿った一つの魂である」(アリストテレス)



「語釈」



肉体は分かれているが、心は一つ。これが真の友情である。



アリストテレスは、「友は第二の我なり」とも言いました。

友情は、自分と友とを一体化しようとするもので、人間の最も崇高な感情であります。

アリストテレスはまた、「友情は愛されるより愛することに存する」ともいっています。

友情を人間にとってもっとも大切なものととらえられていたのです。



                     ※



アリストテレスはプラトンの一番弟子でもありましたし、アレキサンダー大王の家庭教師でもありました。

アリストテレスが開発したリュケイオンという学校には、多くの弟子がいました。

アリストテレスは、人間の社会を研究し、人間と人間とが結びつくものとしての愛を友情と呼んだのではないか、と私は思います。

友情については、東西の多くの思想家や学者が語っています。

孔子は、「朋(トモ)有り遠方より来たる、亦楽しからずや」と同じ目標に生きる友との邂逅を楽しみました。

アメリカの思想家エマーソンは、「友を売る唯一の方法は自らその人の友となることにある」と言っています。

ゲーテも「空気と光と友人の愛。これだけ残っていれば気を落とすことはない」と言いました。

日本の作家の井上靖は「友情というものは、お互いに相手に対する尊敬と慈愛の念の絶えざる持続がなければならぬものである」と『私の自己形成史』で述べています。

友情についての言葉の中で、特に私の好きな言葉があります。

十七世紀の聖職者トーマス・フラーの言葉です。

「見えないところで私のことを良くいっている人は、私の友人である。」

友人とは何かを考えさせる名言です。

(了)



25332821 平野卿子編「三十一文字で詠むゲーテ」について - 岡田 次昭
2025/02/18 (Tue) 08:10:41
令和7年2月8日(土)、私は宮前図書館から平野卿子編「三十一文字(ミソヒトモジ)で詠むゲーテ」を借りてきました。

この書物は、2013年4月18日、株式外史や飛鳥新社から第一刷が発行されました。

230ページの中にゲーテの名言が沢山収められています。

編者の平野卿子は、1945年2月23日、 神奈川県横浜市にて生まれました。

お茶の水女子大学卒業、東京都立大学大学院独文科中退後、ドイツのテュービンゲン大学に留学しました。

彼女は主に児童文学、小説、ノンフィクションを翻訳しました。『キャプテン・ブルーベアの13と1/2の人生』でドイツからレッシング翻訳賞を受賞しました。



ゲーテの最後の言葉、「Mehl Licht!(もっと光を!  メール リヒト) は余りにも有名です。



主な翻訳は次の通りです。



ユルゲン・トーデンヘーファー『アンディとマルワ イラク戦争を生きた二人の子ども』岩波書店 2008

フィリップ・ロートリン,ペーター・R.ヴェルダー『ボーアウト 社内ニート症候群』講談社 2009

シュテファン・クライン『もっと時間があったなら! 時間をとり戻す6つの方法』岩波書店 2009

ドロシー・ロー・ノルト『子どもといっしょに育つ魔法の言葉 幸せな家庭をつくるために』PHP研究所 2010

トーマス・マン『トーニオ・クレーガー 他一篇』2011 

ダーヴィット・ザフィア『あたしのカルマの旅』サンマーク出版 2013

ヨハンナ・シュピリ作 マーヤ・デュシコーヴァ絵『ハイジ』講談社の翻訳絵本 2013

ゼバスティアン・ロート『もうなかないよ、クリズラ』冨山房 2013



「はじめに」のところで、平野卿子は次のように書いています。



ゲーテの人生には、世の男たちの望むものが全てある。(要約)



名声   (文豪)

地位   (小説家、詩人、劇作家、自然科学、政治家、美術研究家)

女    (彼は大変モテました)

生涯現役 (代表作『ファウスト』を書き上げたのは、死の半年前)

長生き  (82歳で死去 200年前 当時としては長寿)



これだけ揃えば、その偉大さが分かります。



晩年ゲーテは、「長生きするとは人と別れることだ」と友人に書き送っています。

長生きしますと、親しい友人や知人が自分より先に亡くなっていくのは事実です。

寂しい限りです。



蛇足ながら、私は、1942年2月23日に生まれました。

偶然にも平野卿子さんと3つ違いの同じ誕生日でした。

この日は、天皇誕生日と重なりました。。



                 記



「三十一文字で詠むゲーテ」(一部)



01 生きる意味 どこにあるのか問う君へ 生きろ ひたすら生き抜いてゆけ

(マイヤー宛の手紙)



02 人生で迷わぬ秘訣 教えよう まともな道を歩まねばよい (箴言と省察)

(原文)

Es gibt Menschen, die gar nicht irren, weil sie sich nichts Verunftiges vorsetzen.



03 過ぎたこと なぜ蒸し返す悔しがる 君の望みか無意味な人生

(警句風に)



04 物事の価値を決めるは君一人  君の思いが全てを変える (箴言と省察)



05 性格を直すことなどあきらめて 伸ばしてごらん 君の持ち味  (警句風に)



06 欠点は 懲らしめてよし責めてよし ただ直せとの声は聞くまじ (箴言と省察)



07 灯台の灯を見つめよう 時として あらぬ方を指すように見えても

(イタリア紀行)



08 希望とは醒めない夢よ 可能性測る方法 知る人はなし (戯曲・タッソー)



09 人生で 数多(アマタ)試み身につかず ドイツ語を書くことよりほかは 

(ヴエネチア警句)



10 いますぐに すべて究めることはない 待ってごらんよ 雪の溶ける日

  (警句風に)



11 適切になしたことども 多々あれど 思い浮かぶは過ちばかり (格言風に)



12 恩知らず 千に一つの得もなし 恩返しこそ切れ者の知恵 (箴言と省察)



13 美しき虹といえども 消えなくば われもあなたも眼を伏せるらん

 (箴言と省察)



14 無駄遣いしたくないなら くれぐれも 大売り出しに近づくなかれ

(格言風に)



15 くよくよとするに及ばず 人生は 天が崩れりゃひばり手に入る (格言風に)



16 愉しんで過ごさず なんの人生か 人の命のかくも短し (ゲーテとの対話)



17 格言は時代の衣(キヌ) をまとうもの 古人の意図は置き去りにして

(箴言と省察)



18 運命に逃げず抗せずむきあえば いつか開ける 新しい道 (警句風に)



19 幸運と言われ続けた我が人生 思い起こせば苦行と努力 (ゲーテとの対話)



20 批判にはどんな防御も効果なし 毅然とすればいずれ消えゆく (箴言と省察)



21 半時間 まさに半端と嘆く君 ちゃちなことども済ませるがよい

(ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代)



22 できるけどしたくないこと したいけどできないことで 一生過ぎゆく

  (箴言と省察)



23 憎むなら憎むがいいと思えども 生きてはいけぬ 蔑まれては

 (ゲーテとの対話)



24 平等と自由をともに公約す そは空想家 はたまた山師 (箴言と省察)



25 多数とは 有象無象の集合体 ほんのわずかの知者しかいない  (箴言と省察)



26 民衆を侮るなかれ 独裁はひとりでもよし みんなでもよし (箴言と省察)



27 国情にそぐわぬ改革 外国の試みまねてなんの意味がある (ゲーテとの対話)



28 言葉とは 流れ流れていくものよ なべて下流へそして汚濁へ (箴言と省察)



29 翻訳で世界の名著読める君 ドイツ生まれの その幸せ生かせ

  (ゲーテとの対話)



30 教育をすべて母語にて受ける君 思い起こせよ 先人の功  (箴言と省察)



31 先の世を誰も予言はできぬもの わけても見えぬ 平和の気色(ケシキ)



32 池を見てわれ知る 海を見て われ知り得ることのなきを知り

  (ゲーテとの対話)



33 のちの世で 果たして人は賢明になるだろうかと疑っている (イタリア旅行記)



34 君もまた言葉を話す それだけで言葉について語れるとでも?

(箴言と省察)



35 真実と神とはどこか通じあう 姿見ぬまま 推しはかるのみ  (箴言と省察)



36 ありえないありそうにない 見えぬもの愛し信ずる それが信仰  (箴言と省察)



37 真実を受け入れがたし人の性(サガ)  認めたがらぬおのが限界

   (箴言と省察)



38 誤りを受け入れやすし人の性 認めたがらぬおのが限界  (箴言と省察)



39 満足は人に縁なき心境か いつもどこでもないものねだり

  (ツェルター宛の手紙)



40 富と地位手にしながらも 満たされぬそんな自分が哀しくないか (ファウスト)



41 支配せず服従もせず 抜きんでる 真に偉大な幸せものは  

(戯曲・ゲッッ・フォン・ベルリヒンゲン)



42 『ヴェルテル』を 我が身と思うことの人の哀れを  われは思わん

(ゲーテとの対話)



42 誰もみな 偉大な人物目に入れず 己と並ぶやつを羨む (格言風に)



43 亡き人を悼んで君は香をたく 在りし日ならば香しきものを (格言風に)



44 いつになく雄々しい君の背中には しっかり貼付 安全標識 (戯曲・タッソー)



45 すごいやつ 善か悪かも踏み越えて 有無をいわせぬそういう男 (格言風に)



46 公正あろうと腐心するばかり どこにあるのか あなたの自我は

(戯曲・タッソー)



47 愛もなく迷いもないという君は この世で何をする なぜ生きる (警句風に)

(原語)

Wer nicht mehr liebt und mehr irrt, Der lasse sich begraben.



48 老いてなお 過ち犯すものなれど 年の功なり何食わぬ顔  (戯曲・タッソー)

(原語)  

Das Alter muss doch einen Vorzug haben, Dass wenn es auch Irrtum nicht entgeht, Es doch

sich auf der Stelle fassen kann.



50 友だから 死なぬと思う人の常 いくら別れを重ねてみても (ゲーテとの対話)

(解説)

晩年ゲーテは、「長生きするとは人と別れることだ」と友人に書き送っています。

友ではありませんが、1830年10月、息子・アウグストが旅先のローマで死去したことは、彼に計り知れない衝撃を与えました。

知らせを受けたとき、ゲーテはごく平静だったと言いますが、その後、喀血しています。

アウグストはローマ郊外に葬られましたが、その墓碑銘には「ゲーテの息子 父に先立ちて死す」とあるだけで、どこにも彼の名はありません。

偉大な父のもとで、生涯もがき続けた彼の悲劇を象徴するかのようです。

(了)



25332231 山本博文監修「白虎隊士から東大総長となった山川健次郎とは?」について - 岡田 次昭
2025/02/16 (Sun) 08:03:46
令和7年2月8日(土)、私は宮前図書館から山本博文監修「あなたの知らない福島県の歴史」を借りてきました。

この書物は、2013年7月22日、株式会社洋泉社から第一刷が発行されました。

189頁の中に私の知らない沢山のことが収められています。

今回は、そのうち、「白虎隊士から東大総長となった山川健次郎とは?」について纏めました。

白虎隊は誠に哀れでした。

生き残った山川健次郎は東大総長まで登りつめました。誠に立派な人物でした。



監修の山本博文さんは、1957年2月13日、岡山県津山市にて生まれました。



経歴・職歴は次の通りです。



1980年 東京大学文学部国史学専修課程卒業

1982年 東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了(国史学)

1992年 「幕藩制の成立と近世の国制」で文学博士号取得(東京大学)

1982年 東京大学史料編纂所助手

1994年 東京大学史料編纂所助教授

2001年 東京大学史料編纂所教授

2010年 東京大学大学院情報学環教授、史料編纂所教授



主な著書は次の通りです。



『敗者の日本史 15 赤穂事件と四十六士』吉川弘文館 2013

『歴史をつかむ技法』新潮新書2013

『武士道の名著 日本人の精神史』中公新書、2013

『江戸を読む技法』宝島社新書2014

『知識ゼロからの忠臣蔵入門』幻冬舎 2014

『武士はなぜ腹を切るのか 日本人は江戸から日本人になった』幻冬舎2015

『江戸「捕物帳」の世界』祥伝社新書2015

『東大流よみなおし日本史講義』PHPエディターズ・グループ 2015

『大江戸御家相続 家を続けることはなぜ難しいか』朝日新書 2016

『格差と序列の日本史』新潮新書 2016

『流れをつかむ日本の歴史』KADOKAWA 2016

『江戸散歩』KADOKAWA 2016

『歴史の勉強法 確かな教養を手に入れる』PHP新書 2017

『天皇125代と日本の歴史』光文社新書 2017



山川健次郎は、安政元(1854)年9月9日、会津藩士の次男として生まれました。

彼は、明治時代から昭和初期にかけての日本の物理学者、教育者、男爵、理学博士です。会津藩出身で白虎隊の兵士として明治政府と戦いましたが、

後に国費で米国留学をして東京帝国大学(東京大学の前身)に登用されました。

理科大学長・総長、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、私立明治専門学校(九州工業大学の前身)総裁、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、

旧制武蔵高等学校(武蔵中学校・高等学校の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任して最後は、東京帝国大学総長に就任しています。

昭和6(1931)年6月26日、彼は中耳炎や胃潰瘍が原因で亡くなりました。

享年77歳でした。







山本博文監修「白虎隊士から東大総長となった山川健次郎とは?」(全文)



会津藩家老・山川尚江と妻・艶との間に生まれた兄弟姉妹は、末娘で大山巌夫人となった山川捨松を始め、陸軍から政界に入り貴族院議員を務めた長男の大蔵(浩)、

女子教育に生涯を捧げた功績から従五位に叙せられた長女の二葉など、いずれも明治という新たな時代に活躍の場を見出している。

嘉永7(1854)年生まれの次男・健次郎も会津戦争の悲劇を乗り越え、苦学の末に物理学者やとして名を馳せた人物で或る。

健次郎は戊辰戦争の時点で十五歳。一度は白虎隊に入隊するが、若すぎるとして編成から外されている。

のちに再編成された白虎隊に加わり若松城の籠城戦で戦闘に参加。

落城後は謹慎先の猪苗代(猪苗代町)を脱出し、越後を経て東京へ出ている。

秀才の誉れ高い健次郎に勉学の機会を与えたいという藩や周囲の配慮であった、

明治4(1872)年1月、健次郎は官費留学生としてアメリカに渡り、イェール大学のシェフィールド理学校に入学する。

勉学の途中で官費留学生から外されるが、地元篤志家の援助で無事に学位を取得し、イェール大学初の日本人卒業生として明治8年に帰国。

同10年に東京大学が開設されると理学部教授補として迎えられている。

明治22年には日本初の理学博士となり、同29年には当時発見されたばかりのX線発生の追試実験を行うなど研究に専心。

東京帝国大学で四半世紀にわたり教鞭をとり続け、明治35年東京帝国大学総長に雌雄人している。

学問に生き、その功績から男爵に叙せられた健次郎だが、会津戦争の無念を生涯忘れることはなく、

明治44年には亡き兄・浩の草稿をもとに『京都守護職始末』を完成させ浩の著作として発表。かつての主家である松平家の名誉回復にも尽力している。

(了)



(ご参考)



書物「京都守護職始末」は、文久2(1862)年、会津藩主松平容保が京都守護職についてから鳥羽・伏見の戦いまでを史料を引用しつつ叙述したものです。

著者は旧会津藩重臣・山川浩となっていますが、実際に筆をとったのは弟の山川健次郎(のち東京帝大総長。物理学)とされています。

文久3年8月18日の政変への孝明天皇の関与、倒幕の密勅の合法性への疑義などを述べたことで知られ、薩長中心の維新史と異なる史観を提起しました。

初版は、明治44(1911)年です。

なお、アマゾンのホームページを見ますと、2,000~9,014円で販売されています。

25331996 五木寛之著「孤独のすすめ」について - 岡田 次昭
2025/02/15 (Sat) 14:42:56
令和7年2月8日(土)、私は、中原図書館から 五木寛之著「孤独のすすめ」を借りてきました。

この書物は、2017年7月10日、中央公論新社から第一刷が発行されました。

181頁の中に有意義な沢山の随筆が収められています。

今回は、そのうち、「孤独を楽しむ」について纏めました。



五木寛之さんは、1932年9月30日生まれですから、現在92歳です。

いつまでもお元気で執筆して欲しいと思います。



後期高齢者になりますと、親しい友の多くが亡くなって淋しい気持になります。

私は、「輩(トモガラ)は我より先に黄泉の国」の心境に陥ります。



                    記



「 孤独を楽しむ」



老いにさしかかるにつれ、孤独を恐れる人は少なくありません。

体が思うように動かず、外出もままならない。訪ねてくる人もおらず、何もすることが無く、無聊をかこつ日々。

世の中から何となく取り残されてしまったようで、淋しいし、不安だし、人によっては鬱状態陥りかねない。

孫達に囲まれて「おじいちやん」「おばあちゃん」と大事にされる古典的な老後を夢見る向きもあるでしょう。

しかし現実は、なかなかそうはいかない。

現実に孤独と向き合わざるを得ない人は、少なくないと思います。

私自身は、もともと群れるのが苦手で、孤独に偏する性分だという面もありますが、歳を重ねれば重ねるほど、

人間は孤独だからこそ豊かに生きられると実感する気持ちが強くなってきました。

孤独な生活の友となるのが、たとえば本です。

私の場合は、子ども時代を当時の植民地で過ごし、周囲に余り同年代の子どももいなかったことから、ひたすら本にのめりこむ習慣がつきました。

幸い師範学校の教師を務めていた父親が学校の図書館も管理していたことから、いくらでも本を読むことができたのは幸運てした。

読書とは、著者と一対一で対話するような行為です。

体が衰えて外出できなくなっても、誰にも邪魔されず、古今東西のあらゆる人と対話ができる。

本は際限なく存在しますから、孤独な生活の中で、これほど心強い友はありません。

たとえ視力が衰えて、本を読む力が失われたとしても、回想する力は残っているはずです。

残された記憶をもとに空想の翼を羽ばたかせたら、脳内に無量無辺の世界が広がっていく。誰にも邪魔されない、ひとりだけの広大な王国です。

孤独であればあるほど、むしろこの王国は領土を広げ、豊かで自由な風景を見せてくれる。

歳を重ねる毎に孤独に強くなり、孤独の素晴らしさを知る。

孤立を恐れず、孤独を楽しむのは、人生後半期の凄く充実した生き方のひとつだとおもうのです。

(了)

25330166 曽野綾子著「老いの才覚」について - 岡田 次昭
2025/02/10 (Mon) 08:03:15


令和7年2月8日(土)、私は書架から曽野綾子著「老いの才覚」を出してきました。

この書物は、2010年9月20日、KKベストセラーズから第一刷が発行されました。

172頁の中に沢山の随筆が収められています。



今回は、そのうち、「老年の仕事は孤独に耐えること、その中で自分を発見すること」

について纏めました。



後期高齢者になりますと、親しい友人が次から次へと亡くなっています。

淋しい限りです。



曽野綾子さんは、1931年9月17日、東京府南葛飾郡本田町(現・葛飾区立石)にて生まれました。

彼女は、聖心女子大学文学部英文科を卒業しています。

『遠来の客たち』が芥川賞候補に挙げられて、これが出世作になりました。

以後、宗教、社会問題などをテーマに幅広く執筆活動を展開しています。

エッセイ『誰のために愛するか』などベストセラーの作品が多くあります。

近年は生き方や老い方をテーマとしたエッセイが多く、人気を集めています。

保守的論者としても知られています。

夫の三浦朱門さんは、2017年2月3日、間質性肺炎にて亡くなりました。享年91歳でした。

彼女は、カトリック教徒で、洗礼名はマリア・エリザベトです。



曽野綾子さんは、1931年9月17日生まれです。現在93歳です。

いつまでも素晴らしい随筆を書くことができるよう私は祈念します。



                       記



「老年の仕事は孤独に耐えること、その中で自分を発見すること」



独り暮らしの老人が増えているという。「2010年版 高齢社会白書」によれば、65歳以上の一人暮らし高齢者の増加が著しく、

1980年には男性約19万人、女性は約69万人でしたが、2005年には男性約105万人、女性約281万人に上っています。

今後も、一人暮らし高齢者は増え続けるといわれている。

その要因としては、未婚率や離婚率の上昇、配偶者との死別後も子供と同居しない人の増加などがあげられています。

自然、一人で過ごすことへの不安を感じている高齢者も増えています。

2005年に、一人暮らしの高齢者の63.0%が日常生活で心配事を抱え、そのうち30.7%の人が「頼れる人がいない」と回答しています。

2002年度調査と比較して、心配ごとがある人の割合は約1.5倍に、頼れる人がいないという高齢者の割合は約1.8倍に伸びています。

お金がないのも辛くて、とても不安だと思いますが、孤独はお金があっても多分解決できない。

孤独との付き合いは、老年にとって、一番勇気の要る仕事です。

ある女性は、夫が死んで何よりつらいのは、人のワルクチを心おきなく言えなくなったことだ、と話していました。

どんなに親しい友だちにも、他人の秘密や自分の醜態さをさらすことに遠慮するところがあります。

でも、配偶者はそれを受け止めてくれる。面白がって、一緒にワルクチを言ってくれるかもしれない。

外に漏れる心配もないから、安心してしゃべれることができる。多分仲のよい兄弟姉妹も同じようなところがあると思いますが、

そうした防波堤のような相手が、少しずつ身のまわりから消えるのが、晩年・老年というものの寂しさなのでしょう。

人に話し相手をしてもらったり、どこかへ連れて行ってもらったりすることで、孤独を解消しようとする人がいます。

しかしそれは、根本的な解決にならない。

根本は、あくまでも自分で自分を救済するしかないと思います。

孤独は決して人によって、本質的に慰められるものではありません。

たしかに友人や家族は心をかなり賑やかにはしてくれますが、本当の孤独というものは、友にも親にも配偶者にも救ってもらえない。

人間は、別離でも病気でも死でも、一人で耐えるほかなないのです。

人間は群棲する動物なのでしょうけれど、孤独にならざるを得ない場合があります。

動物のドキュメンタリーを見ていても、「群を離れた」という場面はよく出てきます。

そういうこともあり得るのだと覚悟をしなければならない。

いっそのこと、「老年は孤独で普通」と思ったらどうでしょう。そして、皆が孤独なのだから、「自分は一人ではないのだ」と考える。

結局のところ、人間は一人で生まれてきて、一人で死ぬ。家族がいても、生まれて来る時も死ぬ時も同じ一人旅です。

赤ん坊はよく泣きますね。記憶はありませんが、すごく辛いのだと思います。おむつが汚れたり、お腹が空いたりしても、

口が利けないのですから、辛くてたまらないでしょう。それを経て皆、大きくなる。人間の過程の一つとして、

老年は孤独と徹底して付き合って死ぬことになっているのだ、と考えたほうがいいのではないか、私はそう思います。

一口で言えば、老年の仕事は孤独に耐えること。そして、孤独だけがもたらす時間の中で自分を発見する。

自分はどういう人間で、どういうふうに生きて、それにどういう意味があったのか。

それを発見して死ぬのが、人生の目的のような気もします。

私も含めてほとんどの人は、「ささやかな人生」を生きる。その凡庸さの偉大な意味を見つけられるかどうか。

それが人生を成功させられるかどうかの分かれ目なのだろう、と思います。

(了)