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津村節子著「時の名残り」について

1:岡田 次昭 :

2024/05/09 (Thu) 08:41:51

令和6年4月28日(日)、私は、高津図書館から津村節子著「時の名残り」を借りてきました。
この書物は、2017年3月30日、株式会社新潮社から第一刷が発行されました。
247頁の中に沢山の随筆が収められています。
今回は、そのうち、「雨の如く降る星」について纏めました。

津村節子さんは、昭和3(1928)年6月5日、福井県にて生まれました。本名は吉村節子です。
夫は小説家の吉村昭さんです。
その吉村昭さんは、平成18(2006)年7月31日に亡くなりました。
彼女は、1951年4月に 学習院女子短期大学文学科国文学科に入学し、1953年3月に卒業しています。
1965年「玩具」で芥川賞、1990年『流星雨』で女流文学賞、1998年『智恵子飛ぶ』で芸術選奨文部大臣賞、2003年「長年にわたる作家としての業績」で恩賜賞・日本芸術院賞を受賞しています。同年に日本芸術院会員になりました。
ふるさと五部作は、『炎の舞い』、『遅咲きの梅』、『白百合の崖』、『花がたみ』、『絹扇』です。現在、満95歳です。

会津藩は、新撰組を配下に置き、京都の治安に力を入れました。
新撰組によって長州藩士の多くが命を落としました。
これが原因で、会津藩は孤立無援の中、新政府軍と一ヶ月も戦いました。
近代兵器を装備した新政府軍には対抗できず、ついには降服して、下北半島の斗南に転封されました。
最期まで新政府軍と戦うことを拒否した家老・西郷頼母は、会津を去りました。
哀れなのは、残された家族でした。
女性たちの殆どは自刃して果てました。
会津藩(福島県)の末裔の人たちは、今でも薩摩や長州を恨んでいると言われています。
この話は、福島県出身の女性から聞きました。
恩讐の彼方の気持になるのはなかなか行き着かないと思います。
この言葉から、私は菊池寛著「恩讐の彼方に」を思い出します。
先日もこれを読んで感動しました。



「雨の如く降る星」(全文)

会津戊辰戦争を書くきっかけは、北方史研究者の谷澤尚一氏から、会津生まれの内藤ユキ(旧姓日向)さんの手書きの「万年青(オモト)」と題する小冊子のコピーをいただいたことによる。
谷澤さんは吉村昭に小説のテーマになりそうな史料を探してくださっている方だが、「万年青」は津村さんの題材になるのではないか、と吉村に託して下さったのである。
この小冊子は、御子息・内藤芳雄氏が纏められたユキさんの回想録で、会津藩町奉行日向左衛門の次女に生まれ、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応、明治、大正、昭和の九時代にわたる九十三年間の生涯を綴ったものである。
会津の豊かな自然、四百石取りの会津藩士の豊かな暮らしぶり、四季折々の行事や楽しい行楽のことなどに多くの頁を費やしている。だがユキさんが十八歳の時、会津藩は新政府軍の攻撃を受けて敗北し、斗南(下北半島)に転封になった。ユキさんも極寒の斗南へ移住している。
後に、北海道開拓使函館支庁の大主典、旧会津藩の雑賀繁村の家に奉公していた時に縁談があり、元薩摩藩士で札幌の開拓使に努める内藤兼備と結婚した。九十三歳の人生の中で確かに戦の期間は短かったが、それにしても「万年青」に記されているのはわずか六頁である。しかしこの六頁に、父や兄の戦死の様子が女性らしい感覚でなまなましく書かれていた。私は十四歳で太平洋戦争を体験しているので、主人公をユキではなく「あき」とし、多感な娘が戦争をどう受けとめ、戦中戦後をどう生きたか、を書いてみようと思った。
調べれば調べるほど会津戊辰戦争は理不尽な戦争であった。藩主・松平容保は、京都守護職として孝明天皇に忠節を尽くしていたにも拘わらず、思いもかけぬ朝敵の汚名を負わされ、容保の謹慎も認められず、次々に脱盟、降服、陥落していった奥州越列藩同盟の仙台藩、米沢藩の嘆願も却下されて、倒幕の血祭りにあげられたのである。
取材の時のポケットアルバム Ⅰには、吉村昭が写っているから、私の初めての歴史小説ということで心配したのだろう。よりにもよって雪の日で、美しい鶴ヶ城の天守閣も厚い雪に覆われていた。
怒濤の様な新政府軍の攻撃に、年寄、女、子供、妊婦や、薙刀を持った女たち、戦死した弟の服を着て七連発銃を担いだ山本八重子も入城し、一ヶ月籠城した城である。激しい銃撃や大砲を撃ち込まれ、髪の毛のついた脳が飛び散り、手脚はもげ、置場のない死体は空井戸二つに投げ込まれた。この天守閣から黒煙が上がるのを見て白虎隊は飯盛山で自刃したのである。
アルバムには、家老・西郷頼母の屋敷もある。屋根も雪、庭も雪。女、子供は戦の妨げになる、と自刃した人は多いが、西郷家では祖母、母、妻ら一家と親戚の家族が集っていて、それぞれ辞世の歌を書き終えると、妻の八重子は九歳の次女を刺し、驚き怯えて泣く四歳の次女が逃げようとするのを押さえて刺し、最期にあどけなく微笑む二歳の季子を刺してから、自ら刃の上に勢いよく伏した。
甲賀町通りを突進してきた土佐藩士が、まだ息があるらしいがもう目も見えぬ若い女がお味方か、敵兵か、とかすかな声で問うたので、憐れみに思って味方です、と言い、彼女が差し出した血まみれの懐剣で介錯してやった。
城下町は行き止まりになったり、平行していると思って歩いていると、とんでもない方向に出たりする。私たちは雪の中を歩き廻って喫茶店に入った。シーズンオフの雪の日の客に主人が話しかけてきたので、会津の戦のことを知りたいと思って、と言うと、コーヒーを淹れるのを放り出して私たちの前に座り込み、自分の聞いている話を果てしなく話し出した。郷土土産の店で道を聞いた時も、その聞き方が普通の観光客ではないと察したらしく、商売はそっちのけになって戦の話になった。吉村は、これはえらいことになったな、町中が史談会だ、と言った。
雪の日の取材はままならず、私はその後再三会津を訪ねることになり、会津史学会会長の宮崎十三八氏の御案内で日本最古のプール・水練水馬池のある会津藩校日新館や天文台跡、飯盛山や白虎隊記念館、五薬園、旧滝沢本陣、旧会津藩御本陣などを歩いた。
日を改めて下北半島にも行き、夥しい餓死者の出た斗南転封の悲惨を思った。資料は今も山積みになっている。
会津の戦は惨たらしい話が多く、寺の住職が葬った戦死者を新政府軍が暴いて野犬が食い散らすまで放置したり、甲賀町口郭門を破った夜、酒宴の最中に土佐藩兵が少年の生首を大皿に乗せて、お肴参上、と宴席の真中に置くと、
愉快極まる この夜の酒宴
中にますらおの美少年
と繰り返し歌って夜を徹して飲んだという。
私が「世界」に十九ヶ月にわたって連載した「流星雨」が岩波書店から刊行されたのは平成二年である。
「あき」は薩摩の青年とは結婚させず、開拓中の札幌の町をさまよう夜空に、死者たちの魂が流星のように降りそそぐラストにした。
(了)

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