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南木佳士著「生きのびる からだ」について

1:岡田 次昭 :

2024/05/07 (Tue) 07:50:12

令和6年4月28日(日) 、私は、高津図書館から南木佳士著「生きのびる からだ」を借りてきました。
この書物は、2009年7月15日、株式会社文藝春秋から第一刷が発行されました。
184頁の中に沢山の参考になる随筆が収められています。
今回は、そのうち、「春になった日」について纏めました。

彼は、作家と医者を兼業しています。素晴らしいことです。

彼は、全編にわたって「体」を「からだ」に統一して書いています。

南木佳士(ナギ ケイシ)さんは、1951年10月13日、群馬県吾妻郡嬬恋村にて生まれました。
本名は、霜田哲夫さんです。
彼は、嬬恋村立東小学校、嬬恋村立東中学校、保谷市立保谷中学校、東京都立国立高等学校を経て、秋田大学医学部医学科を卒業しています。
その後、佐久総合病院に勤務しました。
1981年、「破水」で第53回文学界新人賞を受賞し小説家としてデビューしました。
翌年、「重い陽光」で第87回芥川賞候補、1983年に「活火山」、1985年に「木の家」、1986年も「エチオピアからの手紙」で芥川賞候補になりました。
1989年、彼は、「ダイヤモンドダスト」で第100回芥川賞を受賞しました。
1990年から1996年、パニック障害で病棟責任者を辞任しました。
その後鬱病を発症しました。
2008年、『草すべり その他の短編』で泉鏡花文学賞を受賞し、翌年には『草すべり』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しました。
主な著書は、次の通りです。

『エチオピアからの手紙』文藝春秋、1986年 のち文庫 
破水(『文學界』1981年12月号)
重い陽光(『文學界』1982年4月号)
活火山(『文學界』1982年10月号)
木の家(『文學界』1984年8月号)
エチオピアからの手紙(『文學界』1985年12月号)
1989年『落葉小僧』文藝春秋、1990年 
『医学生』文藝春秋、1993 
『山中静夫氏の尊厳死』文藝春秋
『阿弥陀堂だより』1995年、文藝春秋、
『根に帰る落葉は』田畑書店、2020年
(以後、著書はありません。)



「春になった日」

五十も半ばを過ぎるとにわかに信州の冬の寒さが耐え難くなってきた。
病院の外来で七、八枚の重ね着をした高齢の患者さんたちの口から、
「こんなにさびしい日ばっかりつづきゃあ、凍み(シミ) 死じまうよ」
との発言が最もよく聞かれるのは二月だ。
千曲川が氾濫を繰り返し、高い山の裾を削り崩してできた僅かな平地である佐久平は冬でも晴の日が多く、放射冷却現象の起こりやすい場所で、朝の最低気温が標高千メートル近い軽井沢を下回ることもある。
午前七時、まだ陽の昇っていない氷点下十度以下の大気の中を自転車で勤務先の病院へ向かう。
オーバーズボンをはき、ダウンジャケットのフードを被っているのだが、冷えは露出した顔面の皮膚から浸入し、頬骨を伝って容易に頸へ、背中へ、腰へと下がってゆく。
「いくら凍みたって、死んじゃうことなんかありませんよ」
もっとずっと若かった頃、笑いながらこんな無責任な返答を患者さんたちに投げかけていたことが思い出され、無知を恥じた脳までがずんずん冷えてゆく。
凍み死ぬ。
なんともリアルな表現だ。
歳を重ねるにつれて基礎代謝が低下し、からだが燃えにくくなる。
内臓を冷えから守るための熱しか発生できなくなったからだの手足は幾らこすっても昔のようには温まってこない。
このままぐんぐん冷えてゆけば、やがては内臓の働きも止まる。
すなわち死ぬ。
骨の髄から全身に満ちてくるリアルな死の予感。
医業と小説書きを兼業しつつこの歳まででしたたかに生きてくると、こういうからだの実感に裏打ちされた言葉にしか現実味は覚えなくなる。
あたたまりにくいからだになってみてはじめて、高齢患者さんたちの訴えが肌で理解できるようになった。
みんな死にたくないから病院に通ってきているのだ。
こんなあたり前の事実が、あるときすとんと腑に落ちた。
ひたすら春を待つだけの二月が終わり、三月の声を聞くと自転車をこぐ身も前のめりになるのだが、季節は暦どおりにはうつろわず、寒い日がつづく。
ある日いきなり温度が上がり、ああ、今日唐はるなのだな、とはっきりわかる一日が湧き出る。
今年は三月九日がその日で、最高気温は平年より五、六度高く、よく晴れていた。
一年ぶりに登山靴を出し、近くの平尾山に登った。
急な登りを四十五分。
頂上からは北のすぐそこに雄大な浅間山、西のほうに目を向けると穂高連峰から鹿島槍ケ岳、五竜岳などの峰々が連なり、八ヶ岳も南西に全容をあらわしていた。
携帯ガスコンロで湯を沸かし、紅茶を飲んだ。
温かい液体が食堂を下り、胃に広がる。
凍った雪路を踏みはずさないように緊張して登ってきた全身の力が一気に抜ける。
凍み死なずに冬を越せた。
そんなささいなことがたまらなくうれしくて、全ての山に向かって笑顔を向けてみた。
(了)

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