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大木毅著「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」について

1:岡田 次昭 :

2024/05/01 (Wed) 09:31:06

令和6年4月26日(金)、私は、書架から大木毅著「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」を出してきました。
この書物は岩波新書として2019年7月19日に第一刷が発行されました。
2019年12月16日には、第9刷が発行されています。
如何にこの書物が売れているかが分かります。
248頁の中にナチス・ドイツ、とりわけ独ソ戦のことが詳細に書かれていて、私は大いに興味を持ちました。
独ソ戦は、史上最大の戦車対戦車の戦争でした。
今回は、すべてを紹介することはできませんので、私は「はじめに」の全文を記載するに留めました。
これを読めば、独ソ戦の概要を理解することが出来ます。
独ソ戦は、世界史上最大の戦争です。

著者の大木毅さんは、昭和36(1961)年に東京都にて生まれました。
彼は、立教大学文学部史学科を経て、同大学院文学研究科博士課程に進みました。
専攻はドイツ近代史です。
ドイツ学術交流会奨学生として、ドイツのボン大学に留学しました。
その後、日本学術振興会特別研究員、千葉大学・横浜市立大学などの非常勤講師などを経て、1998年、『魔大陸の鷹』で単行本デビューしました。
現在は作家として活動する傍ら、研究者としてはナチス・ドイツの政治外交史を研究しています。

私は大学に入学した時、第二外国語としてドイツ語を選びました。学んでいるうちに、ヒトラー著『我が闘争(Mein Kampf)』に出逢い、その一部を原文で読んだ経験があります。

概要は、次の通りです。

『我が闘争』の著者は、ナチ党指導者のアドルフ・ヒトラーです。
第1巻は1925年、第2巻は1926年に出版されました。
ヒトラーの自伝的要素と政治的世界観(Weltanschauung)の表明などから構成されています。
第1巻となる前半部分は自分の生い立ちを振り返りつつ、ナチ党の結成に至るまでの経緯が記述されています。
全体としてヒトラー自身の幼年期と反ユダヤ主義および軍国主義的となったウィーン時代が詳細に記述されています。
第2巻となる後半部分では、自らの政治手法、群衆心理についての考察とプロパガンダのノウハウも記されています。
戦争や教育などさまざまな分野を論じ自らの政策を提言しています。
特に顕著なのは人種主義の観点であり、世界は人種同士が覇権を競っているというナチズム的世界観です。
ここで、ヒトラーはアーリア人種の優秀さを力説しています。
ヒトラーは、あらゆる反ドイツ的なものの創造者であると定義されたユダヤ人に対する反ユダヤ主義も重要な位置を占めています。
ただし、ユダヤ人大量虐殺についての記述は全くありません。
記述後に、ユダヤ人絶滅の指令を出したものと思います。
外交政策では、フランス共和国に対して敵愾心を持ち、ソヴィエト社会主義共和国連邦との同盟を「亡滅に陥る」と批判し、「モスコー政権〔モスクワ政権〕はまさにそのユダヤ人」であるとしています。
現時点で同盟を組むべき相手は、イギリスとイタリアであるとしています。
ドイツが国益を伸張するためには、貿易を拡大するか、植民地を得るか、ソヴィエト社会主義共和国連邦を征服して、東方で領土拡張するかの3つしかないとし、前者二つは必然的にイギリスとの対決を呼び起こすため不可能であるとしました。
これは東方における生存圏(Lebensraum) 獲得のため、ヨーロッパにおける東方進出(東方生存圏)を表明したもので、後の独ソ戦の要因の一つとなりました。
『我が闘争』のドイツ語原典は、旧制高等学校のドイツ語の授業などにおいて、教科書としても用いられました。
ヒトラーはこの書において、アーリア人種を文化創造者、日本民族などを文化伝達者 (Kulturträger)、ユダヤ人を文化破壊者としています。
日本の文化というものは表面的なものであって、文化的な基礎はアーリア人種によって創造されたものにすぎないとしています。
強国としての日本の地位もアーリア人種あってのこととしています。
もしヨーロッパやアメリカが衰亡すれば、いずれ日本は衰退していくであろうと書いています。
なお、ドイツ語の原著を読んだ大日本帝国海軍軍務局長の井上成美は「ヒトラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら小器用・小利口で役に立つ存在と見ている。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチスの日本接近の真の理由もそこにあるのだから、ドイツを頼むに足る対等の友邦と信じている向きは三思三省の要あり、自戒を望む」と、当時の海軍省内に通達しています。

ドイツ軍のそれまでの対戦国はドイツと同等もしくは劣勢であると考えられる国々であったのに対し、ソヴィエトは資源・生産力・人口においてドイツを圧倒していました。
戦争が長引けば、国力の差がドイツを日々圧倒してくることは間違いなく、それはドイツ軍の敗北を意味していました。
すでに同等以上の国力を誇っている英米連合国との戦争をしている状況において、西部戦線・北アフリカ戦線に加えて東部戦線という三つの戦線を維持し続けることはドイツにとって過大な負担となることは明白でした。
独ソ戦は、結局のところドイツ側の敗北に終わりました。

1939年9月1日、ナチス・ドイツは、ポーランドに侵攻しヨーロッパにおける第二次世界大戦を引き起こしました。
5年強にわたる戦争も、戦況の悪化の末ヒトラーが自殺し、1945年5月8日、連合国軍に無条件降伏をして、滅亡しました。



「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」(「はじめに」の一部)

1. 未曾有の惨禍

1941年6月22日、ナチス・ドイツとその同盟国の軍隊は、独ソ不可侵条約を破って、ソヴィエト連邦に侵攻した。
1945年まで続いたこの戦争は一般に「独ソ戦」と呼ばれる。
ドイツ、ないしは西欧の視点から、第二次世界大戦の「東部戦線」における戦いと称されることも少なくない。
いずれにせよ、この戦争は、あらゆる面で空前、恐らくは絶後であり、まさに第二次世界大戦の核心、主戦場であったといってよかろう。独ソ戦においては、北は不インランドから南はコーカサスまで、数千キロに渡る戦線において、数百万の大軍が激突した。戦いの様態も、陣地に拠る歩兵の対陣、装甲部隊による突破進撃、空挺作戦、上陸作戦、要塞攻略等々、現代の陸戦のおよそあらゆるパターンが展開され、軍事史的な観点からしても、稀な戦争であった。
この戦争で生起した諸戦役の空間的規模は、日本人には実感しにくいものであろう。
旧陸軍将校あった戦史家、加登川孝太郎は、スターリングラードの戦いを、日本の地理にあてはめた、興味深い記述を試みている。理解の補助とするため、ここに引用しておこう。本書133頁の地図を参照しつつ、お読み戴きたい。
『ヴォルガ川岸にあるスターリングラードを、墨田川にある東京においてみよう。すると、ドイツ第14装甲師団が突破進出した市の北部は草加付近、ソ連軍が最期まで確保した南部のペケトフカは横浜港付近となる。(中略)ドン川の河口のロストフ・ナ・ドヌーは奈良県南部の山岳地帯にあたる。ドン川をさかのぼると、伊勢市、浜松市(ツイムリンスカヤ)、静岡市を経て富士山の西に出て、更に大菩薩(カラチ・ナ・ドヌー)、熊谷市、長野市、富山市を通り、上流のヴオロニェシ金沢の北北西250キロの日本海のなかにあたる。この戦いの発端となったハリコフは、金沢の西北西300キロの海中になる。』
しかし、独ソ戦を歴史的に際立たせているのは、そのスケールの大きさだけではない。
独ソ共に、互いを妥協のない、滅ぼされるべき敵とイデオロギーを戦争遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争の本質がある。
およそ4年間にわたる戦いを通じ、ナチス・ドイツとソ連の間では、ジェノサイドや捕虜虐殺など近代以降の軍事的合理性からは説明できない。無意味であるとさえ思われる蛮行が幾度も繰り返されたのである。そのため、独ソ戦の惨禍も、日本人には想像しにくいような規模に達した。
(注) ジェノサイドは、国家あるいは民族・人種集団を計画的に破壊することを意味します。
まず、比較対照するために、日本の数字を挙げておこう。1939年の時点で、日本の総人口は約7,138万人であった。ここから動員された戦闘員のうち、210万ないし230万名が死亡している。さらに、非戦闘員の死者は55万ないし80万人と推計されている。
充分に悲惨な数字だ。けれども、独ソ両国、なかんずくソ連の損害は桁が違う。
ソ連は1939年の段階で、1億8,879万3千人の人口を有していたが、第二次世界大戦で戦闘員866万8千人ないし1,140万名を失ったという。軍事行動やジェノサイドによる民間人の死者は450万ないし1,000万人、ほかに疫病や飢餓により、800万から900万の人の民間人が死亡した。死者の総数は、冷戦時代には、国力低下のイメージを与えてはならないとの配慮から、公式の数字として2,000万人とされた。しかし、ソ連が崩壊し、より正確な統計が取られるようになってから上方修正され、現在では2,700万人が失われたとされている。
対するドイツも、1939年の総人口6,930万人から、戦闘員444万ないし531万8千名を死なせ、民間人の被害も150万ないし300万に及ぶと推計されている(ただし、この数字は独ソ戦の損害のみならず、他の戦線でのそれも含む。)
このように、戦闘のみならず、ジェノサイド、収奪、捕虜虐殺が繰り広げられたのである。人類史上最大の惨戦といっても過言ではあるまい。

2. 世界観戦争と大祖国戦争

こうした悲惨をもたらしたものは何であったか。まず、総統アドルフ・ヒトラー以下、ドイツ側の指導部が、対ソ戦を、人種的に優れたゲルマン民族が「劣等人種(Untermensch)」スラブ人を奴隷化するための戦争、ナチズムと「ユダヤ的ボリシェヴィズム」との闘争と規定したことが、重要な動因であった。彼らは、「独ソ戦」は「世界観戦争(Weltanschauung Krieg)」であるとみなし、その遂行は仮借なきものでなければならないとした。
(注)「劣等人種(Untermensch)」は、ナチスがユダヤ人、ロマ、スラブ人(主にポーランド人、セルビア人、ロシア人)といった「東方からの集団」の非アーリア人を「劣等人種」と表現した用語です。この用語は、黒人や有色人にも使用されていました。ユダヤ人は、ロマや、身体的、精神的な障害者と共に、ホロコーストにより解決されることとなりました。東部総合計画によって、東部中欧のスラブ人の大部分がアジアに追放され、第三帝国内で奴隷労働者として使われ、一部がホロコーストの大量虐殺により、人口が減少しました。この概念は、ナチスの人種政策の重要部分でした。
1941年3月30日、招集されたドイツ国防軍の高級将校たちを前に、ヒトラーは、 このように演説している。
『対立する二つの世界観の間の闘争。反社会的犯罪者に等しいボリシェヴィズムを撲滅するという判決である。共産主義は未来への途方もない脅威なのだ。我々は軍人の戦友意識を捨てねばならない。共産主義者はこれまで戦友ではなかったし、これからも戦友ではない。みな殺しの闘争こそが問題となる。もし、我々がそのように意識しないのであれば、なるほど敵を挫くことはできようが、30年以内に再び共産主義という敵と対峙することになろう。我々は、敵を生かしておくことになる戦争などしない。』
ヒトラーにとって、世界観戦争とは「みな殺しの闘争」、則ち、絶滅戦争にほかならなかった。加えて、ヒトラーの認識は、ナチスの高官たちだけでなく、濃淡の差こそあれ、国防軍の将官たちもひとしく共有するものであった。
そうした意図を持つ侵略者に対し、ソ連の独裁者にしても、ソヴィエト共産党書記長であるヨシフ・V・スターリン以下の指導者は、コミュニズムとナショナリズムを融合させ、危機を乗り越えようとした。かつてナポレオンの侵略をしりぞけた1812年の「祖国戦争」になぞらえ、この戦いは、ファシストの侵略者を撃退し、ロシアを守るための「大祖国戦争」であると規定したのだ。
これは、対独戦は道徳的・倫理的に許されない敵を滅ぼす聖戦であるとの認識を民衆レベルまで広めると同時に、ドイツ側が住民虐殺などの犯罪行為を繰り返したことと相俟って、報復感情を正当化した。戦時中、対独宣伝に従事していたソ連の作家イリア・エレンブルグは、1942年に、ソ連軍の機関紙『赤い星』に激烈な筆致で書いている。
『ドイツ軍は人間ではない。いまや「ドイツの」という言葉は、最も恐ろしい罵りの言葉となった。(中略)もし、あなたがドイツ軍を殺さなければ、ドイツ軍はあなたを殺すだろう。ドイツ軍はあなたの家族を連れ去り、呪われたドイツで責め苛むだろう。(中略)もし、あなたがドイツ人一人を殺したら、次の一人を殺せ。ドイツ人の死体にまさる楽しみはないのだ』
このような扇動を受けて、ソ連軍の戦時国際法を無視した行動もエスカレートしていった。両軍の残虐行為は、合わせ鏡に憎悪を映したかのように拡大され、現代の野蛮ともいうべき凄惨な様相を呈していったのである。

3. ゆがんだ理解

右に述べたような、独ソ戦の「世界観戦争」としての性格が、欧米の研究において強調されてきたことはいうまでもない。戦後のドイツ連邦共和国(通称、西ドイツ。現在のドイツ)において、かつて高級軍人たちは、国防軍はナチ犯罪に加担していないとする「清潔な国防軍」伝説を広めたが、これも「国防軍展」(国防軍のジェノサイドへの関与等を暴露した巡回展覧会)をきっかけに、1990年代には否定された。
ところが、日本では、専門の研究者を除けば、こうした独ソ戦の重要な側面が一般に理解されているとは言い難い。独ソ戦と言えば、ドイツ国防軍の将官の回想録や第二次世界大戦に関する戦記などの翻訳書等を通じて、一部のミリタリー・ファンに、専ら軍事的な背景や戦闘の経緯などが知られるばかりであった。しかし、そのような翻訳書、若しくは、それらをもとにした著作は、今となっては問題が少なくなかったことも明らかになっている。
ドイツ軍人たちの回想録の多くは、高級統帥に無知なヒトラーが、戦争指導ばかりか、作戦指揮にまで介入し、素人くさいミスを繰り返して敗戦を招いたと唱えた。死せる独裁者に敗北の責任を押しつけ、自らの無謬(ムビュウ)性を守ろうとしたのである。
ヒトラーが干渉しなければ、数に優るソ連軍に対しても、ドイツ国防軍は作戦の妙により勝利を得ることが出来た。そのような将軍たちの主張はまた、ソ連の圧等的な軍事力と対峙していた冷戦下の西側諸国にとっても都合のよいものであった。
1970年代以来、日本人の独ソ戦理解を決定づけたのは、こうした回想録を初めとする、さまざまな戦記本であった。中でも影響力が大きかったのは、『砂漠のキツネ』『バルバロッサ』『焦土作戦』などの一連の著作で知られる、パウル・カレル、本名パウル・シュミットであろう。ナチス政権のもと、若くして外務省報道局長の要職に就いた人物だ。戦後、本名や経歴を隠して、「パウル・カレル」の筆名で書いた著作は、日本でもベストセラーとなり、独ソ戦に関する研究書がほとんどなかった時代に、広範な読者を獲得した。研究者の中にも「歴史書」として依拠(イキョ)する者がいたほどである。
(注)依拠(イキョ)とは、よりどころとすることです。
しかしながら、カレルの著作の根本にあったのは、第二次世界大戦の惨禍に対して、ドイツが追うべき責任はなく、国防軍は、劣勢にもかかわらず、勇敢かつ巧妙に戦ったとする「歴史修正主義」だった。そうしたカレルの視点からは、国防軍の犯罪は漂泊されていた。カレルのナチ時代の過去を暴いたドイツの歴史家ヴィクベルト・ベンツは、独ソ戦をテーマとした『バルバロッサ』『焦土作戦』を精査したが、国防軍の蛮行について触れた部分は、ただの一ヶ所もなかったと断じている。
このように、カレルの描いた独ソ戦像は、ホロコーストの影さえも差さぬ、あたかも無人の地で軍隊だけが行動しているかのごとき片寄った見方を読者に与えるものであった。こうした彼の経歴やイデオロギーに由来する歪曲は、かねて問題視されていたが、2005年のベンツによるパウル・カレル伝の刊行により、はじめて体系的に批判されたのである。
その後、カレルの記述の中には、ドイツ軍の「健闘」、今一歩で勝てるところだったのだという主張を誇張するために、実際には存在しなかった事象が含まれていることも確認されている。ドイツ連邦国防軍軍事史研究局による第二次世界大戦史から引用しよう。クルクス会戦の重要な局面、プロホロフカの戦車戦を論じた箇所だ。
「この筋書き{1943年7月11日に、プロホロフカで大戦車戦が行われたという、戦後のソ連側、とりわけ当時者であるロトミストロフ将軍の主張}は、ドイツの戦記作家パウル・カレルの空想を刺激した。彼は、{ドイツ}第三装甲軍団のプロホロフカへの競争を、こう演出した。
『戦史上、そうした事例には事欠かない。今も、戦争の帰趨を左右することになるような運命的決定が、時計の進み方如何に懸かっていた。日単位ではない。時間に、だ。「ワーテルローの世界史的瞬間」が、プロホロフカに再現されたのである。』。著しい苦境に陥っていたイギリス軍の総師ウェリントンを助けに急ぐプロイセンのブリュッヒャー元帥と、その介入を妨げようとして失敗したナポレオンの元帥グルーシーの間で争われたワーテルローにおける競争にたとえたのだ。当時のグルーシー元帥同様、プロホロフカのケンプフ将軍(ドイツ側)も到着が遅すぎたというのである。
しかし、ドイツの文書館史料からは、この7月12日の競争など全くなかったし、いわんやロトミストロフが記述したようなプロホロフカ南方の戦車戦など存在しなかったことが判明する。当該戦域には、最大時で44両の戦車を有するのみの〔ドイツ〕第六装甲師団があっただけである。
このような欠陥が暴露されて以来、欧米諸国の学界では、カレルの著作は読者の理解を歪めるものとされ、一顧だにされていない。ドイツにおいては、彼の諸著作は、上梓以来、版を改めては刊行され続けてきたが、2019年現在、すべて絶版となっている。

4. スタートラインに立つために

残念ながら、日本においては、こうしたパウル・カレル以来の独ソ戦像が、今日までも強固に残存しているのが実情である。ところが、その一方で、1989年の東欧社会主義圏の解体、続く1991年のソ連崩壊によって、史料公開や事実の発見が進み、欧米の独ソ戦研究は飛躍的に進んだ。日本との理解・認識のギャップは、いまや看過しがたいほどに広がっている。
本書は、こうした状況に鑑み、現在のところ、独ソ戦に関して、史実として確定していることは何か、定説とされている解釈はどのようなものか、どこに議論の余地があるのかを伝える、いわば独ソ戦研究の現状報告を行うことを目的とする。日本においては、何よりもまず、理解の促進と研究の深化のためのスタートラインに立つことが必要かつ不可欠であると考えるからだ。
その際、中心となるのは、日本語で参照できる文献が少ない、戦史・軍事史面からの論述であり、それが本書の基軸となる。しかし、「世界観戦争」としての独ソ戦は、純軍事面のみを論じたところで、その全貌を掴めるものではない。政治、外交、経済、イデオロギーの面からもみる必要があろう。そこで、本書では、こうした面についても、随所に織りまぜて論じることにする。人類史上最大にして、もっとも血なまぐさい戦争を遺漏なく描ききることは、このような小著では、もとより不可能であろう。
けれども、筆者の試みが、未曾有の戦争である独ソ戦を「人類の体験」として理解し、考察する上での助けとなることを期待したい。
(了)

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