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志鳥栄八郎著「チャイコフスキー ピアノ協奏曲 第一番 変ロ長調」について

1:岡田 次昭 :

2024/04/30 (Tue) 08:03:12

令和6年4月28日(月)、私は書架から志鳥栄八郎著「クラシック名曲ものがたり集成」を出してきました。
この書物は、1993年11月20日、株式会社講談社から第一刷が発行されました。
701頁の中に、たくさんの名曲の解説がなされております。
文庫本でありながら、税抜き価格は、1,500円です。
この一冊で、名曲のほとんどすべてを知ることが出来ます。
音楽愛好家にとっては、必携の書です。
今回は、「チャイコフスキー ピアノ協奏曲 第一番 変ロ長調」について纏めました。

私は、「チャイコフスキー ピアノ協奏曲 第一番 変ロ長調」を含むCDを所有しています。
詳細は次の通りです。

曲名 チャイコフスキー ピアノ協奏曲 変ロ長調 第一番 作品 23 
演奏時間  32.57
   ショパン     クラコヴィアーク 作品14 演奏時間  13.45

指揮 ウィレム・ヴァン・オッテルロー
楽団 ハーグ・フィルハーモニー管弦楽団

チャイコフスキーは、初めてピアノ協奏曲に挑戦しました。
最初は、尊敬するニコライ・ルビンシュタインに酷評されましたが、ボストンやモスクワでの演奏において大成功を収めました。
この素晴らしい「ピアノ協奏曲 第一番 変ロ長調」は15年後には、ニコライ・ルビンシュタインの意見に従い、全面的に改訂され出版されました。

チャイコフスキーの作品の内、特に有名なのは、「白鳥の湖」「眠りの森の美女」「くるみ割り人形」「ヴァイオリン協奏曲 ニ長調」それに「ピアノ協奏曲 変ロ長調 第一番」です。
私の好きな曲は、弦楽四重奏曲1番 ニ長調とピアノ三重奏曲イ短調「偉大な芸術家の思い出に」ですこの2曲は隠れた名曲です。
特に、弦楽四重奏曲1番 ニ長調の第二楽章は、アンダンテ・カンタービレ(歩くような速さで歌うように)で、私の最も好きな楽章です。

この当時の音楽家というのは、経済的に困窮人が多かったようです。
モーツアルトもチャイコフスキーも例外ではありませんでした。
裕福な生活を送ったのは、メンデルスゾーンだけでした。

蛇足ながら、有名な作曲家の誕生日と没年月日を調べて見ました。

モーツアルト (Mozart)    1756~1791 享年35歳
メンデルスゾーン(Mendelssohn) 1809~1847  享年38歳
チャイコフスキー(Tchaikovsky) 1840~1893  享年53歳
ベートーヴェン (Beethoven) 1770~1827  享年57歳
ブラームス (Brahms) 1833~1897  享年64歳



「チャイコフスキー ピアノ協奏曲 第一番 変ロ長調」(全文 原文のまま)

1874年、のクリスマスの前日、モスクワの大通りを音楽院に向かって急ぐ男の姿があった。チャイコフスキーであった。書きあげたばかりの「ピアノ協奏曲 第一番」の草稿をしっかりと小脇に抱え、せかせかと足を運ぶ彼の胸は期待でふくらんでいた。その日、モスクワ音楽院の一室で、彼が敬愛してやまない院長のニコライ・ルビンシュタインが、二人の同僚の教授と一緒に、彼のその新曲を聴いてくれることになっていたからである。
ニコライ・ルビンシュタインは、チャイコフスキーがペテルブルク音楽院で教えを受けたアントン・ルビンシュタインの弟にあたるロシア音楽界の実力者で、そのピアノの腕前は、国際的に名前の知られていた兄のアントンに、勝るとも劣らないといわれていた名手であった。1866年にモスクワに音楽院を開校した時、彼は、ペテルブルク音楽院を卒業したばかりのチャイコフスキーを教授陣に迎え入れ、それ以後かゆいところに手の届くような親身の世話をしてくれた。そのようにして彼は、チャイコフスキーを世に出すために最大の努力を払ってくれた大恩人なのである。
チャイコフスキーは、常々、何か立派な作品を書いて、そのニコライの恩義に報いたいと考えていたが、なかなかその機会がなかった。たまたま、1874年の夏、ペテルブルク音楽協会のオペラ・コンクールに応募した「鍛冶屋ワークラ」の作曲が予定よりもずっと早く完成したので、彼はいよいよニコライのための作品にとりかかったのである。
作曲に着手したのは、10月に入ってからだったが、作曲は思ったより難航した。というのは、その頃まで各種の作品を手掛け、豊富な経験を積んでいたものの、チャイコフスキーにとって、ピアノ協奏曲というのは初めての作品だったからである。それでも、仕事の早い彼は2ヶ月という短期間で完成し、その時になって初めて、ニコライに作曲のことを打ち明けたのだった。そこで、その日、試演会が行われることになったのである。
この試演の模様は、二人の当事者によって伝えられている。一つは、チャイコフスキー自身がのちに後援者のナジェージダ・フォン・メック夫人に宛てた手紙の中でこの時のことを回想して報告しているもので、もう一つは、同席したカーシュキンが、チャイコフスキーの死後に発表した手記「チャイコフスキーの思い出」の中で述べている。この二つは、細かな点ではいくつか食い違いがあるが、大筋では大体一致している。作品の出来映えに、大変自信を持っていたチャイコフスキーは、ニコライからそれを認めてもらい、かつ演奏家としての適切な助言を与えられることを期待していたが、事態は思わぬ方向に進展した。
ニコライとグーベルトそれにカーシュキンの顔が揃ったところで、チャイコフスキーは、まず第一楽章を弾いた。ところが、どうしたことか、いつもなら直ちに好意溢れた感想を述べてくれるニコライは一言もいわず、他の二人も押し黙ったままであった。これでは、チャイコフスキー自身も述べているように、せっかく苦労して作った自慢の料理を、
ただ黙々と口に運んでいるのを見ているかのようで、張り合いがないこと夥しい。
チャイコフスキーは、辛抱して曲を終わりまで弾いたが、それでもまだ、ニコライがそのまま沈黙を守っていたので、ピアノから身を起こすと、「どうでしょう?」と尋ねた。すると、それを待っていたかのように、ニコライの口から発せられた言葉は、チャイコフスキーが無想もしなかった、悪意に満ち満ちたものだった。
「まるっきりダメだね。なっちゃいない、演奏不可能だよ。曲そのものがつまらないうえに、パッセージはメチャクチャで、不器用だ。君、このまま残せるのは二、三ページしかないね。後は捨ててしまうか、すっかり書き直しをするか、とにかく、これではどうにもならないよ。」
そして、ピアノの前に座ると、
「ほら、例えばここのところだがね。いったい、これはなんという書き方なんだい。全く下手で話にならん」
こんな調子で、彼の気に入らない部分を次々に弾いてみせては、口汚くののしったのだった。
カーシュキンは、チャイコフスキーに同情して次のように述べている。
「ニコライ・ルビンシュタインは、その時、ことさら下手に弾いたように感じられた。同席したグーベルト教授も、いちいち同感といった顔つきをしていた。チャイコフスキーは、この二人に対して激しい怒りに燃えた。彼は、ニコライ・ルビンシュタインを、ピアニストとして、また音楽家として非常に尊敬していたから、もしルビンシュタインが、もっと穏やかな調子で意見を述べてくれたなら、たとえ曲にとってはためにならない変更があったとしても、恐らく彼は承諾したに違いない」
チャイコフスキーは、こうしたニコライの態度に深く傷つけられ、ひったくるようにしてその楽譜を手にすると、憤然として部屋を出ていった。ニコライは、この様子を見ていささかあわてて、チャイコフスキーを別の一室に呼び入れると、もし、自分があげたような箇所を書き換えるなら、演奏会で弾いてもよいと申し入れた。しかし、事態がこじれにこじれてしまうと、なまなかなことでは収拾は困難である。既に感情的に限界にきていた彼は、キッパリと答えた。
「一音譜だって変えるつもりはありません。このまま発表します!」
こうして、これまで大変親しかったこの二人の間は、この時以後暫くは深い溝が生じ、次第に冷え込んでいったのである。
カーシュキンによると、ニコライ・ルビンシユタインは、こと芸術について全くの理想主義者で、いかなる妥協も許さなかったし、また個人的好悪を持つこともなかったという。そして、作曲家としてのチャイコフスキーを高く評価していたので、好んでチャイコフスキーの作品を取り上げたし、演奏する時は、あたかも自分の作品ででもあるかのように極めて熱中して取り組み、全身全霊を投入したという。
それほどに良き理解者であった彼が、なぜこの時に限ってひどい偏見をもって作品に接したのだろうか。考えられることの一つは、チャイコフスキーが、この曲の作曲に当にたって、技術的なことを何ひとつニコライに相談しなかったので、そのためにプライドを傷つけられたように感じたのではないか、ということである。
大体、どのような楽器のための協奏曲でも同じだが、協奏曲という名のついた作品は、独奏楽器の性能や奏法についての十分な知識がなければ書けるものではない。作曲家自身その楽器の名手であれば別だが、そうでない場合には、たとえばメンデルスゾーンやブラームスが「ヴァイオリン協奏曲」を作曲した時のように、一流の奏者から技術面の助言を仰ぎながら作曲の筆を進めていくのが普通である。
ところが、このチャイコフスキーは、ナマイキにも、ピアノ協奏曲を書くのに、ロシア・ピアノ界の最高峰と自他ともに許す自分に対して一言の相談もなかった。けしからん……こんな気持を抱いていたので、ニコライは、最初から虚心坦懐に耳を傾ける気にはなれなかったのかもしれない。
もう一つは、ニコライのような演奏家の観点からすると、実際に演奏するには障害になるような、従来の奏法を無視した箇所に、大きな抵抗を感じたのかもしれない、ということである。現在のこの曲の楽譜は、決してこの時のままではなく、それから15年後の1889年に、作曲者自身が全面的に手を加えて出版したものである。恐らく、その訂正箇所の大部分は、実際に演奏してみて不都合を生じたものであったろうと思われる。とすると、ニコライの「演奏不可能」という酷評も、一概に不当な言いがかりとばかりは言い切れないようだ。
それはともかく、ニコライのにべもない仕打ちに怒り心頭に発したチャイコフスキーは、予定を変えて、この「ピアノ協奏曲 第一番」を、その前年にロシアに演奏旅行に来て既に面識のあった、ドイツの大指揮者で同時に名ピアニストとして国際的な名声を得ていた、ハンス・フォン・ビューローに捧げてしまったのである。
ビューローは、この作品を受け取ると「あらゆる点で魅了されるこの対策を献呈されたことを、わたしは大変誇りに思っております」という礼状をチャイコフスキーに出したほどの喜びようで、近く予定しているアメリカ演奏旅行で、この曲を演奏することにしたいと申し出た。そして、その通り、1875年の秋、ボストンで初演したのを皮切りに、各地で演奏し、大成功を収めた。アメリカの聴衆は、ロシアの土の香りにあふれるこの曲に熱狂し、特に第二楽章をアンコールしたという。
ビューローは、早速、その大成功を電報で知らせてきたが、チャイコフスキーは、その返事を打つ金を調達するのに苦労しなければならなかった。当時の彼は、それほど経済的に困っていたのである。
ところで、この曲の最も大きな特色は、聞いた瞬間にロシアを感じさせることで、第一楽章の第二主題には、素朴なウクライナの民謡の旋律が使われているし、第二楽章のアンダンテの主題も、ロシア人でなければ絶対に書けないものだ。華やかな独奏ピアノの活躍、そして、チャイコフスキー的な親しみやすい旋律と強烈なロシア臭、それが大衆の心をとらえたのである。
この曲は、アメリカにおける初演と同じ年に、ペテルブルクとモスクワで演奏された。ペテルブルクの場合は、散々な不出来で、一向評判にもならなかったが、モスクワでは、チャイコフスキーの弟子のタネーエフがピアノ独奏を受け持ち、大成功を収めた。そして、この時の指揮を受け持ったのが、ほかならぬニコライ・ルビンシユタインであった。
彼も偉い男で、自分で上演してみて、曲の真価を悟ると、潔く自分の非を認め、てのひらをかえすようにしてこの曲の普及に力を入れはじめた。そして、自分でも全曲を暗記して曲を身につけ、他のどんなピアニストよりも完全に、かつ感動的にこの曲を弾くようになった。
彼が如何にこの曲の普及のために身を入れたかは、1878年のパリの万国博覧会の際、関係者たちの反対を押し切ってこの曲を演奏し、パリの聴衆に多大の感銘を与えたというエピソードからも明かであろう。この話を伝えたカーシュキンは、次のように述べている。
「この協奏曲の第一楽章が終わると、ホールに大変な騒ぎが起こった。ルビンシュタインは、それが聴衆の感動の表現だとは、すぐには分からなかった。彼はこれほどの成功を期待していなかったからである。この時のパリの聴衆は、ロシアの仲間たちよりはるかに耳が肥えていたのである」
こうして、この曲の評価を巡って、一時は友情に深いヒビが入ったニコライとチャイコフスキーの間は、ニコライの誠実な行為によって回復し、以前よりも強固なものとなったのだった。チャイコフスキーは、ニコライの演奏について「彼にあっては、卓越した技術が、常に芸術性および平衡感覚と手を携えて進んでいる」と讃えているが、そうしたニコライの人間としての優れた平衡感覚が上手く働き、友情の危機を見事に乗り越えることができたのである。
(了) 

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