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日本名随筆 藤原新也編「斎藤茂吉の山道」について

1:岡田 次昭 :

2024/04/29 (Mon) 08:00:30

令和6年4月28日(日)、私は高津図書館から日本名随筆90 藤原新也編「道」を借りてきました。
この書物は、1990年4月20日、株式会社作品社から第一刷が発行されました。254頁の中に32の随筆が収められています。今回は、その内、「斎藤茂吉の山道」について纏めました。
この日本の名随筆は全100巻もあります。
しかも、税抜き価格は1,600円もします。
当時としては、高い書物と考えられます。

この随筆は、いつ書かれたのかは分かりません。斎藤茂吉は、山道を登るのは難しいと書いていますので、かなりの病弱の体であったことと推測されます。
最後のところで、斎藤茂吉は、「歩くことの出来るということは大した事である。」と書いて、歩くことの大切さを実感しています。

不幸にして変形性膝関節症などの病気になりますと、歩くことが困難になってきます。
そうしますと、足腰の筋肉が落ちて、転げやすくなります。
それ故、大怪我をしないように慎重に歩かなければなりません。



「斎藤茂吉の山道」(全文)

四方の山々が追々色づいて来て、三日も見ずに居るなら、その色合いがだいぶ変わって来ていることが分かる。
稲刈りが終わってもう日数が経ったが、日曜は朝から田の中でしきりに児童の声が聞こえる。
彼らは一団ずつをなして何か話をしながら歩いている。
これは落穂を拾うためであった。
態々落穂を拾うためにときを費やすのが大人には惜しいので、日曜を利用して児童を使うということが分かった。
彼らは皆ハコゲという物を持っている。
腰のところにぶらさげてその中に落穂を拾って入れるようにしている。
ハコゲとはどういう意味であろうか。帯び籠という意味ででもあろうか。
そういう稲田のむこうに、円味を帯びた低い山が見える。
山はもう紅葉して如何にも美しい。
この紅葉の山は日本の特色といってよく、独逸や伊太利あたりでは先ず見られないといっていいであろう。
ゲーテのような大詩人でもこのような美しいものは見ずに死んだのであった。
柿の木は欧羅巴でも移植し、伊太利でも見られる。
瑞西や墺太利(オーストリア)でも見られる。
巴里の市場では、ニホンノカキと銘打って売っているほどである。
しかし、柿の葉の美しいところが見られないように思う。
この柿紅葉は同じ山形県でも金瓶と大石田で違う。
気候の関係かどうか知らぬが、大石田の柿の葉は金瓶の柿ほど美しくはない。
彼の円味を帯びた低い山は如何にも美しい。
美しい毛氈か何かを敷いたように見える。
そこにいけば極めて楽に、極めて平凡に散歩するような気持ちで登ってまた下がって来ることが出来るように思える。
自分は直ぐ山へ行った。
行って見ると山は雑木林で大体は灌木林であるが、差向き道が見えぬのでそのまま林の中に入って行った。
ところが毛氈のようにすべすべと柔らかく美しく見えたものが、雑木密生で到底自分のような病弱の体などの歩けたわけ合いのものではない。
非常に努力して四半町ばかり登ってみたが、頂上まで登るなどということはもはや不可能なので、元来また麓まで下りて来てしまった。
嗚呼、生やさしいことではない。
道が無い以上、自分なんかの歩ける筋合いの物ではない。
それから最上川の此岸にも小さい山がある。
初秋のころ一度来て、細い山路が絶えてしまったと思って断念して戻って来た山である。紅葉するころになってから又その山に来た。
一時間あまり休んで、かつて戻って来た山路を歩いて行くと、廃れたように細くなってなお道があるように思われる。
自分はそこを行った。
道々は断続という貌である。絶え絶えという心持ちである。
しかし、道は、谷間を見下ろし、平野を見おろすといった断崖の縁を通ったりして、何処までも続いている。
その崖の淵から、鳥海山を遠望することも出来る。
この旧い絶え絶えの道は、昔、尾花沢から今宿という部落へ通った、その近道であるように想像せられた。そこで自分は興味を感じて、思った。こんな廃道に等しい、絶え絶えの道でも、ありさえすれば自分のような体でも歩くことが出来る。
ともかく歩くことが出来る。
歩くことの出来るということは大した事である。
そんな事を思ったのであった。
自分は先の部落迄行かずに戻った。
大石田は、雪の深い所だから、こういうところも全部雪に埋まってしまい、人の往反は無くなるのである。
(了)

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