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古川薫著「関ヶ原の敗戦意識」について

1:岡田 次昭 :

2024/04/20 (Sat) 08:19:25

令和6年4月14日(日)、私は、宮前図書館から古川薫著「維新の長州」を借りてきました。
この書物は、昭和63((1988)年2月20日、株式会社創元社から第一刷が発行されました。253頁の中に、31の明治維新前後の歴史が書かれています。
今回は、その内、「関ヶ原の敗戦意識」について纏めました。

古川薫さんは、大正14(1925)年6月5日、山口県下関市にて生まれました。
彼は、1952年に山口大学教育学部を卒業しています。
そして、教員を経て山口新聞(みなと山口合同新聞社)に入社しました。
編集局長を経て、1965年から作家活動を始めました。
直木賞に10回も候補になりました。
1990年藤原義江の伝記小説『漂泊者のアリア』で第104回直木賞を受賞しました。受賞年齢65歳は最高齢で佐藤得二の記録を破り、25年越しでの受賞でした。
1991年には山口県芸術文化振興奨励特別賞を受賞しています。
2018年5月5日、彼は血管肉腫のため死去しました。享年93歳でした。

私は、薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の吉田松陰を尊敬しています。
中でも、最も関心を寄せているのは吉田松陰です。
彼が明治維新後に生存していたとすれば、薩長による藩閥政治は大きく変化していたかもしれません。
残念ながら、吉田松陰は、安政6(1859)年10月27日、伝馬町牢屋敷にて死刑が執行されました。享年30歳でした。
私は、彼の名著『留魂録』を愛読書の一つにしています。時折、書架から出して再読しています。この書物は、吉田松陰が、安政6(1859)年に処刑前に獄中で松下村塾の門弟のために著した遺書です。この遺書は松下村塾門下生の間で回し読み、松門の志士たちの行動力の源泉となりました。
冒頭の句「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ぬとも 留置かまし 大和魂」は何回読んでも私の胸に響きます。



「関ヶ原の敗戦意」(全文)

薩長は明治維新を推進、実現させた二大雄藩である。
だから長州の立場から薩摩を論じ得るとするのではなく、すくなくとも関ヶ原役以後、近代に至る両藩の歩みには、いくつかの相似する部分があり、またきわめて対照的な性格が共存する。
つまり対極としての長州から薩摩を眺めて見るのも、その風土の一端に迫ることができるかもしれない。
まず関ヶ原役への対応で共通するのは、島津・毛利両勢が西軍についたということである。
豊臣家への恩顧その他あらゆる条件の中で、各大名が東西両軍への去就に思い迷ったにせよ、とにかく島津・毛利が西軍として立ち上がったのは、歴史の宿命といった気配もある。
源平合戦をはじめ、日本史の変革は東西対決の形をとった。
関ヶ原役がそれであり、東の勢力が覇権を握った。
明治維新も同じく東西対決の様相を帯び、いわば関ヶ原役の再現を思わせる。
ここで毎年の正月、奇妙な新年賀式が行われたという。
例の毛利氏の挿話を持ち出すことになるが、これは長州の精神風土を象徴する有名な話である。
このような事が実際にあったかどうかは明確な記録もないが、関ヶ原役への怨念が二世紀半にわたって底流していたことは事実である。
最初、毛利氏は本城を防府(ホオフ)の桑山か山口の香峯(コウノミネ)に築きたいと希望した。
徳川幕府はそれを許さず、山陰の一隅、萩に本拠を押し込めた。
「萩ハ引キ込ミ過ギタル処」という意識は、藩政時代を通じて毛利氏の不満を書き立て、幕末、ようやく幕府への対決姿勢をかためた文久3(1863)年4月、無断で本拠を山口に移した……山口移鎮(ヤマグチイチン)という……ことにもそれは現れている。
萩が引き込みすぎているとするのは、単に本拠の位置いうだけでなく、外様大名として中央の機構から疎外されていたことへの鬱屈した思いにも繋がっている。
長州藩におけるこうした現象に対して、薩摩はどうであったか。
ここでも関ヶ原役への怨念は、くすぶり続けていた。
「チェスト、関ヶ原!」
大声で叫んだという薩摩隼人にくらべると、長州の萩の新年賀式の挿話はいかにも陰湿である。
薩摩は男性的、陽性であり、長州は女性的、陰性だという印象を与えられる。
しかし、これを持って両藩の気質をただちにうかがうわけにもていかない事情もある。
毛利軍は関ヶ原役で戦っていないのだ。毛利氏一門の吉川広家が、徳川方と密約し、不戦のばあいは中国八ヶ国、百二十万石の所領を安堵されるものと思い込んでいた。
ところが、フタをあけてみると、周防・長門二ヶ国に転落したのだから、ていよく騙されたようなものである。
敗戦意識はなく、陰湿な恨みだけが残る。
関ヶ原における薩摩軍の正面突破は「島津の退き口」として後世までの語り草となった。甚大な被害は受けたが、勇猛に戦いきったという薩摩隼人の誇りは失わなかったのである。
終戦処理もうまく、毛利氏ほどの苛酷な減封とはならなかった。
だが、それかといって、徳川幕府への遺恨を帳消しにしたわけでもない。「チェスト、関ヶ原!」なのである。
明治維新が、薩長両藩のそうした怨念によって実現したなどというつもりはないが、中央に抵抗する精神風土の一角に、かすかにでも影を落としていたことは否定できないだろう。
(了)

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