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曽野綾子著「人生の終わり方も自分流」について

1:岡田 次昭 :

2024/04/18 (Thu) 08:46:32

令和6年4月14日(日) 、私は、宮前図書館から曽野綾子著「人生の終わり方も自分流」を借りてきました。
この書物は、2019年8月20日、株式会社河出書房新社から第一刷が発行されました。251頁の中に沢山の随筆が収められています。
今回は、そのうち、「ルールなしの人生――人生は旅に過ぎない。旅は必ずいつか終わる――」について纏めました。
曽野綾子さんは、昭和6(1931)年9月17日生まれです。
今年の9月17日に満93歳になります。
いつまでもお元気で活躍されんことを私は祈念します。

曽野綾子さんは、「旅は必ずいつか終わるのである。」と書いています。
つまり、死のみが人々に平等に与えられています。
いつかは黄泉の世界に旅立つことは疑いの余地はありません。
だからこそ、この世は仮初めとしても、一日一日を大切に生きて、人生を楽しまなければなりません。

私は、メメント・モリ( memento mori ラテン語)と言う言葉が好きです。「自分がいつか必ず死ぬことを忘るな」「死を忘ることなかれ」という意味の警句です。
古代ローマでは「将軍が凱旋式のパレードを行なった際に使われた」と伝えられています。
将軍の後ろに立つ使用人は「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」ということを思い起こさせる役目を担当していました。
そこで、使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていたのです。



「ルールなしの人生――人生は旅に過ぎない。旅は必ずいつか終わる――」(全文)

かつては人並みな若者で、それから長くしぶとい中年を生き、今後期高齢者になった世代の人々は混沌を生きることに馴れていて、少しも変だとはいないのではないか、と思う。
なぜなら彼らの生涯は、まさに混沌そのものだったのだから、誰もがそれを生きぬくノウハウを知っているのである。
戦後やや復興のきざしが見えかけた頃、一人の若者が私の家へ来て言った。
「全く、秀才なんて、どうしようもありませんね。もし日本が東京大学法学部だけの社会になったら、議会と裁判所ばかり作って国民は飢え死にしますよ。もし慶応大学の卒業生ばかりになったら、キャバレーと喫茶店だけやたらに作って、これもあまりうまくないでしょう。しかし、我が日本大学の卒業生だけだったら、頭が柔軟だから、盛大にあちこちに闇市つくって復興に役立つんですよ」
この発言には、いささか時代的解説が要るだろう。こう言った人は、学校秀才ではなかったのだろうが、本当に彼自身がしなやかな意識の持ち主だった。
つまり人間が生きるということには、素朴な方から考えていって、何がどういう順序で必要かをきちんと知っていたのである。
戦後やぼな田舎学生が多かった中で、慶応には洒落た都会的な学生がたくさんいると思われていた。
長く暗かった戦争後のキャバレーと喫茶店の心理的重要性は、今の非ではない。
心理的に締めつけられていた戦争がやっと終わって、キャバレーと喫茶店に象徴される華やかな世界は現在でも中小企業まで入れると一番沢山の社長を輩出している大学だと思う。
混沌とした時代には、――それが不景気で荒れ、世界中に局地戦がやたらに起きて、経済の変動が激しい年月であれ―― もはや長年通用していたルールが一切通じなくなる今、何をすべきか自分で考えるほかはないという時代は、戦後がそうだったが、何時でもあり得るのだ。ただ60年以上も、日本人はそういう不運を体験しなかった。だからいつでも、一応の規則に従って生きていれば非難されることはなかった。余計なことをしでかして怒られるより、今まで通りのことをしていればよかったのだ。
電気と水が滞りなく供給されている限り、すべてのものに「規則通り」が存在し、それが通用したのだ。しかしそういう生活がいつまでも続くという保証はない。死がだれにでも訪れるように、突然の運命の変化は必ずくる。それも誰に責任をとらせようともしない、天災という形でやって来ることを関西の大震災でも東日本大震災とその直後の津波の被害でも、私たちは痛烈に教えられたのだが、それに備える方法は、全く教えられていなかった。
混沌の時代を生きるために、私は幼いときから実にいい学校にいたのである。
私は幼稚園から大学まで、カトリックの学校で育ったのだが、そこでは常日頃、政治、社会、会社、親など、今仮初めに与えられているものの形態は、いつ取り上げられても仕方がないものだ、というふうに教えられたのである。
通俗的な世界にも、「いつまでもあると思うな親と金」という言葉があるのだそうだ。しかしそんな物質的名事だけではない。自分の健康も、もちろん年金も貯金も、愛も、親子の信頼も、必ずしも続くとは思わないで暮らす心構えの必要を教えられたのである。
初代キリスト教会を作るのに功績のあった聖パウロは「コリント人への第一の手紙(7.29)」以下で次のように言っている。
「定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、関わりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」
これほど明確に簡潔に具体的に、現世の虚しさを言い表している文章はない。
私が習ったシスターたちは、何時も、
「この世のことは全て仮の姿です」と言っていた。いま、権勢を得ている人も、明日はどうなるかもわからない。たとえ生き続けていても、現在の自分の意識が明日にはなくなるかもしれないという危惧は、私の年になるとひしひしと強くなってくる。
「人生は単なる旅に過ぎません」
という言葉も幼い時から、度々耳にした。旅は必ずいつか終わるのである。こんな素晴らしい教育は、いい意味でませた子供を作った。「皆がいい子」とか、誰にも「公平と平等」が与えられるなどということ信じさせるのは、どちらも幼稚なことだ。なぜなら「皆がいい子」でないことは明瞭で、「公平と平等」に対する幻想は、自身と津波が来ただけで簡単に崩れ去る現実を知らされるからである。
もちろんだからこそ、私たちは公平や平等を永遠の悲願とする。しかし誰にも公平に与えられているのは、この混沌とした空しい人生なのだ、と腰を据えて認識する時、かえって私たちは落ち着いて、現世を楽しむことができるように思う。
(了)

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