FC2BBS 69820


武田鏡村著「明治・大正・昭和 日本のリーダー名語録」について

1:岡田 次昭 :

2024/03/29 (Fri) 08:46:59

令和6年3月26日(火)、私は、書架から武田鏡村著「明治・大正・昭和 日本のリーダー名語録」を出してきました。
副題は、「優れた指導者に学ぶ決断力」です。
この書物は、2007年4月9日、PHP:研究所から第一刷が発行されました。
270頁の中に明治・大正・昭和の名言と解説文が収められています。
今回は、そのうち、「陸奥宗光」について纏めました。

陸奥宗光(ムツ ミネミツ)は、1844年8月20日、紀伊国和歌山(現在の和歌山県和歌山市吹上3丁目)の紀州藩士・伊達宗広と政子(徳川治宝の側用人渥美勝都の長女)の六男として生まれました。
彼は、版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正に多大な影響を与え、カミソリ大臣とも呼ばれて第2次伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に努力しました。
『蹇々録(ケンケンロク)』は、明治時代の外務大臣・陸奥宗光が執筆した外交記録です。この書物は、陸奥の晩年の1892年以降に執筆されましたが、外務省の機密文書を引用しているため長く非公開とされ、1929年(昭和4年)に初めて公刊されました。
明治外交史上の第一級史料とされています。
この中に記載されている『三国干渉について記した「畢竟我に在ては其進むべき地に進み其止まらざるを得ざる所に止まりたるものなり。余は何人を以て此局に当らしむるも亦決して、他策なかりしを信ぜむと欲す」』という言葉に私は魅了されました。
第二次大戦後に沖縄返還の密使を務めた若泉敬が、交渉の内幕を明かした著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋)は、上記結語に由来しています。

1897年8月24日、彼は肺結核に罹って亡くなりました。
享年54歳でした。

著者の武田鏡村(タケダ キョウソン)さんは、1947年2月15日、新潟県にて生まれました。日本の歴史家、仏教評論家です。
彼は、1969年新潟大学教育学部を卒業しています。

主な著書は、次の通りです。

『明治・大正・昭和 日本のリーダー名語録』PHP研究所  2007
『「生きるのが楽になる」禅語50話』三笠書房 2008
『清々しい日本人』東洋経済新報社 2008
『「図解」宮本武蔵と「五輪書」 仕事に使える絶対不敗の法則 戦略的思考が身につく』PHP 研究所 2008
『禅のことば 人生を豊かに生きるための120選』PHP研究所 2009
『岩崎弥太郎不屈の生き方 「三菱」の創業者』PHP研究所 2009
『「孫子」の兵法で読む日本の合戦』2009 学研M文庫
『〈図解〉坂本龍馬の行動学』PHP研究所 2010
『本願寺と天下人の50年戦争 信長・秀吉・家康との戦い』2011 学研新書
『法然と親鸞 仏教二大改革者の生涯と思想』PHP研究所 2011
『決定版親鸞』東洋経済新報社 2011
『織田信長はなぜ「天才」と言われるのか』三笠書房 2011
『面白いほどよくわかる般若心経 大乗仏教の精髄を説く262文字の大宇宙』日本文芸社 (学校で教えない教科書) 2012
『禅のことば禅のこころ 気持ちをすっと落ちつかせる』日本実業出版社 2012
『幕末維新の謎がすべてわかる本』2015 ロング新書
『幕末・維新の真相史』2017 ロング新書
『薩長史観の正体 歴史の偽装を暴き、真実を取り戻す』東洋経済新報社 2017



「陸奥宗光」 鋭敏な日本外交の旗手 

「人より少なく苦労して、人より多くの利益を得んとするは、所詮薄志弱行の所為なり。 此の念一回萌起すれば、必ず生涯不愉快の境遇に陥るべし」(「陸奥宗光」)

(現代語訳)

人よりできるだけ少なく苦労して、人より多くの利益を得ようとするのは、意志が薄弱で物事を断行する力に欠けるからである。
もし、そうした心が芽生えたならば、必ず生涯は不平不満な生活を送るしかないのだ。

1. 5年の牢獄の中で鋭利な頭脳を磨く

陸奥宗光は、坂本龍馬がつくった海援隊に入ったが、小生意気で同志からは嫌われたという。
しかし、利用マハ陸奥の能力を認めて、
「二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」
と飛揚した。
武士をやめても商売などでも大成するということであるが、維新後の陸奥は優れた管理用として大成している。
とくに西南戦争のと記、土佐立志社の大江卓ライバル機のが政府転覆を企てた事に関与したとして、5年の刑を受け、下獄してからは勉学と思索を通して人間的に成長した。
を通して人間的に成長した。
獄中では自分で問題を立てて、それを解決する具体的に方策を考えるという思索法をとっていたようである。
のちに子どもの広吉に与えた「教訓書」には、次の一節がある。

「臥寝睡眠を催ほさず、又は旅中舟車の間、所為なき時は、胸裏に何なりとも一つの問題を設けて研究し置くべし。他日その問題が実地入用となる時、大いに都合よきことあるべし」

何もすることのないときに、こんな問題に直面したならば、どうするかといたことを考える。
すると実際にその問題に直面した時は大いに役立つということである。
想定問題に対する想定解決法を考えよ、ということであるが、これが陸奥の鋭利な頭脳となって、特に外交において発揮される。
もう一つ陸奥らしい言葉が「教訓書」にある。

「諸事堪忍すべし。堪忍のできる丈は必ず堪忍すべし。堪忍の出来ざることに会すれば、決して堪忍すべからず。事の失敗に屈するべからず。失敗透けば失敗を償う丈の工夫を凝らすべし」

何事においても我慢できる事は我慢して耐えよ。
だが我慢の限界というときには決して我慢するな。
失敗を恐れることはない。
失敗しても、それを償う方策をとればよい。
失敗したからといって、それを諦めるな、ということである。

いずれも胸にスッキリと響く言葉であるが、その通りに生きたのが陸奥である。
陸奥が外務省に入ったのが43歳のと記でね2年後には駐米特命全権公使に任命されていることから、その外交手腕が高く評価されていたことが分かる。
陸奥に期待されたのは、不平等な条約を改正する事であった。
これまで政府は条約の改正を最重要課題としてあたってきたが、ことごとま退けられていた。
アメリカに赴いた陸奥は、まずメキシコを突破口として、裁判権と自主関税権の平等を勝ちとった。
それを実績にアメリカとの交渉にのぞんで、実質的な理解を得た。
これは陸奥の能力と見識が国際センスに長けていたことを示すものであった。
次に陸奥がターゲットにしたのは、時の覇権国であったイギリスである。
イギリスとの条約改正さえ成功すれば、他のロシアやドイツなども改正に応じると読んだ。
その間、朝鮮を巡って清国、ロシアとの関係が緊迫すると、イギリスは日本に接近してきた。
この機を逃さず陸奥は、条約改正を果たした。
これによって続々と関係諸国との間に新条約が結ばれていく。

2. 西洋と東洋の文明の対立を予見する

伊藤博文内閣で外務大臣をつとめていた時、日清戦争が起こった。
朝鮮をめぐる日本と清国の対立に加えて、濾紙イア、フェルメールセンス、ドイツなどが複雑に絡まる外交戦争でもあった。
その間の経緯を陸奥は『蹇蹇録(ケンケンロク)』で書いている。
ここではに津心戦争での日本の国家目標と手段、さらに外交交渉について冷静に分析しているが、そこには同時に陸奥の自主的な精神に満ちた人格が読者の心に響くものがある。
陸奥は、この戦争を単なる清国との戦いとは考えておらず、「西欧的新文明と東亜的旧文明との衝突たるべし」ととらえていた。
そのため軍事的に勝利するだけでなく、国際関係の中で日本の立場を確立する事の大切さを十分に感じとっていたのである。
さらに外交派相手国との交渉だけではなく、国内の世論の力との闘いであることも深く認識していた。
山口県の下関で行われた講和交渉では、清国の全権大使・李鴻章(リコウショウ)と、首相の伊藤と外相の陸奥の間で交渉が開始された。
戦争をやめるには、まず休戦してから和平交渉に入るのであるが、日本側は休戦に応ぜずに講和交渉を望んだ。もっと清国領地を獲得してから講和せよ、というセロンや軍部の意向には逆らえなかったのである。
だが、休戦なしの講和は、国際慣行に反するといった非難が諸外国からあびせかけられよう。
そこで、まだ占領していない領地などを要求した。
李鴻章は「苛酷なり!」と叫んだが、陸奥は一歩も引かない。
所が、李鴻章が暴漢に襲われて負傷する事態が起こった。
諸外国の避難を恐れた陸奥は、すぐさま「すぐ休戦して、講和交渉をするしかない」と決断した。このへんが陸奥の国際感覚が優れていたところである。

3. 日本の外交に必要なのは慧眼と努力だ

下関で日清講和条約が成立した。
主な内容は、朝鮮の独立、遼東半島・台湾・澎湖(ショウコ)列島の割譲、2億円の賠償金である。
ところが、陸奥が心配した事態が生じた。
清国にリケンを持ちたいロシア、フランス、ドイツが両党半島を清国に返還するよう要求してきたのである。
「三国干渉」である。
このとき陸奥は、若いときに患った肺血各学校進行して病床に臥す身となっていた。
条約改正から日清戦争に掛けて不眠不休の日々であったから、体力は既に限界に達していたのである。
日本を何とかしたい、という気力だけで生きていたようなものであった。
三国干渉に対して陸奥は、強硬な反対論を説いた。イギリスが孫呉区鑑賞を批判すると見たからである。だが、イギリスが、この問題では日本を援助できない都地通告すると、三国干渉を受け容れざるを得ない 考えた。
陸奥としては「教訓書」にあるように、様々な事態を想定し、そのなかで現実的と考えられる方策を撰ぶという姿勢を崩すことがなかったからである。
陸奥は痩身ながら眼光は炯々として、物事の奥を見抜く眼力があった。
優れた慧眼で日本を産糖国から世界の一流国にしようと努めた、
その努力は、身を削るほどのものがあった。
今、日本の外交に求められているのは、陸奥のような慧眼と努力であろう。
(了)


  • 名前: E-mail(省略可):
  • 画像:

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.